第74話 思い出したあの日
※本話には、登場人物の死の具体的な描写が含まれます。つらいと感じる方は無理せずお戻りください。
沙斗琉が振る鎌を、夕樹は寸でのところで何度も避ける。人生を勉強に捧げてきた夕樹だが、運動神経は決して悪くはない。
しかし、いつまでもこのまま逃げ続けてはいられない。床をすり抜けて展望デッキから脱出する手もあるが、そうしたら晴翔が追ってくるだろう。運動が得意な晴翔に本気で追われたら、夕樹は勝ち目がない。
(そもそも殴りに来たって言いながら、なんで鎌振ってるのかなぁ……!)
そう考えながら動いていると、夕樹は一瞬足がもつれて転びかける。なんとか持ちこたえたが、前を見ると大鎌の先端が目の前にあった。
「うわっ!」
なんとか姿勢を反らすと、大鎌は夕樹の顔の上を通り過ぎる。前髪の端が切れたのか、数本の白い髪が宙を舞うのが見える。
そのまま体勢を立て直せず、夕樹は大きく尻もちをつく。再び前を見ると、既に大鎌は夕樹の眼前に迫っていた。
夕樹は床をすり抜け、重力のままに落下する。霊体が重力の影響を受けているのかはわからないが、夕樹の想像通りに体は落ちる。そのまま展望デッキを抜け外に出ると、夕樹は空気を踏みしめるように宙に浮く。
夕樹は大きく息を吐き、襲ってくるであろう晴翔の気配を待つ。案の定、晴翔はすぐに壁をすり抜けて追ってきた。
しかしその姿を見て、夕樹は大きく目を見開く。晴翔は沙斗琉と手をつないで現れたのだ。
(「すり抜けられない」沙斗琉の想像力を、「すり抜けられる」晴翔の想像力が超えた……!?)
そう思うが、霊体の法則を夕樹は解明できていない以上、これは夕樹の憶測にすぎない。夕樹は踏みしめていた空気を緩め、再び落下する。夕樹の記憶では沙斗琉は落下を怖がっており、ついてこないだろうと踏んだのだ。
しかし、その想像は大いに外れた。あろうことか、晴翔は沙斗琉を夕樹に向かって投げたのだ。
「えぇ!!?」
晴翔の細腕で、成人男性を投げられるわけがない。しかしそれは夕樹の中の常識で、晴翔にとっては違うのだろう。晴翔は今まで見てきた幽霊の中で、幽霊の体を最も使いこなしている。
沙斗琉は強い勢いで、まっすぐに夕樹に向かってくる。一度止まって沙斗琉を躱そうと思ったが、不意に周囲が暗くなり、沙斗琉の姿を見失う。どうやら日付が変わったようで、スカイツリーから淡い青色の光が失われていた。
目を凝らし、ようやく沙斗琉の金髪を見つけたときには、沙斗琉の顔が眼前に迫っていた。咄嗟のことで何もできないまま、沙斗琉の腕が夕樹の胸倉をつかむ。
(このままじゃ地面に叩きつけられる……! 体勢を変えないと……)
そう思い夕樹が振り返ると、すぐ下に見えたのは川だった。位置からして、生前の夕樹が沈んだ川ではない。しかしその瞬間、夕樹の視界にはあの日の光景がフラッシュバックしていた。
音もなく、衝撃もなく、気づいたときには夕樹は川の中にいた。街灯を映して揺れる水面が、徐々に遠ざかっていく。
沈む車、外れないシートベルト、重くなるダッフルコート、一人浮上する父。夕樹の体は硬直し、ただ沈む感覚だけが体を支配している。
(僕、こうやって死んだんだ……)
忘れていた死の感触を、夕樹は漠然と思い出す。体温などないはずなのに、肺は焼けるように熱く、しかし指先から冷えていく感覚がある。
最初に息を引き取ったのは母だった。藻掻く様子はなく、最初から楽に死ねるよう、睡眠薬でも飲んでいたのかもしれない。
一番抵抗したのは晴翔だ。晴翔はシートベルトの隙間から出て、車の窓からも脱出した。しかし、水を吸ったコートが浮上を阻んだ。
夕樹は霊体であることを忘れ目を閉じる。あの日の夕樹は、こうして抵抗よりも諦めが勝り、気を失ったのだ。
ゆっくりと、体が川底に沈んでいく。ただ穏やかな静寂が、夕樹の体を包んでいた。




