第67話 沈むダッフルコート
※本話には、登場人物の死の具体的な描写が含まれます。つらいと感じる方は無理せずお戻りください。
ある夜、夕樹は両親が言い合っている声で目を覚ます。耳をそばだてると、母は焦り、父は落ち込んでいるようだった。
「明日からどうするの!? 夕樹は医大に行くっていうのに……」
「そんなの俺が聞きたいよ。どうしたらいいんだ、リストラなんて……。この年で就活なんかできないぞ」
「そんなことないよ。ずっと大手にいたんだし、またすぐ大手に……」
「できるわけないだろ。今、大企業でリストラが相次いでるんだぞ。どこも雇ってる余裕なんかない」
「じゃあどうするの!?」
「だからそれを考えてるんだろ!」
夕樹はぼんやりと、父が無職になったことを悟る。しかしこれまでの稼ぎで貯蓄はあるはずだ。生活に困るほどではないだろうと夕樹は思う。
夕樹は母と同じように、父ならすぐに職が見つかるだろうと思っていた。大企業に二十年以上勤めた実績は、大きな価値だと思い込んでいた。父が大した技能も実績もないことなど、夕樹は知る由もなかった。
それからしばらく、夕樹の生活は変わらなかった。両親はいつも通り笑顔で、晴翔はいつも通り元気だ。父がいつも通り出かける様子からして、やはりすぐに職が見つかったのだと思っていた。
ただ、母が晴翔に怒鳴る回数が増えた気もしていた。しかし母は天気に左右されやすい人でもあり、寒さによる頭痛で苛立っているのだと思っていた。
夕樹が両親の言い合いを聞いてから一カ月が経ったころ、父親は耳を疑うことを口にした。
「テーマパークに行こう」
テーマパークは、価値のない場所だと夕樹は思っていた。ただ遊ぶだけの場所など、頭の悪い人間の行くところだと。
反対すると思っていた母親は、不気味なほどに笑顔だった。機嫌よく見えるその顔は、仮面のようにぴくりとも動かない。
戸惑う夕樹とは反対に、晴翔は喜び跳ねまわった。
「やったー!!! お父さんありがとー!!」
満面の笑みで駆け寄る晴翔を、父は母と同じ笑顔で抱きしめる。夕樹にはその光景が、ひどく歪んで映った。
(あの人たちは、本当にお父さんとお母さんなの……?)
そんな根本的なところを疑うほどに、普段の両親の発言とはかけ離れていた。
そして約束の日、夕樹と晴翔は父が運転する車の後部座席に乗り込んだ。夕樹は楽しげにリュックサックを抱きしめる晴翔を横目に、得も言われぬ不安と戦っていた。
夕樹の心境をよそに、車が走り出す。冬なのに開け放たれた窓からは、冷たい空気が冷蔵庫のように流れ込んでいる。
首都高を走ると思っていた車は、一般道を走り続けている。夕樹は父の意図が分からず、膝の上で拳を握る。
(本当にテーマパークに行くの……?)
千葉方面に向かっていたはずの車は、いつの間にか隅田川沿いを走っている。さすがにおかしいと思い、夕樹は辺りを見渡す。
隣の晴翔は、車に揺られるうちに眠ってしまったらしい。鏡越しに見る助手席の母もいつの間にか眠っている。運転席の父の表情は、夕樹の位置からはよく見えない。
「ねえ、お父さ……」
呼びかけようとしたとき、突然車の速度が上がった。けたたましい音を鳴らす車は、明らかに制限速度を超えている。夕樹は戸惑いのあまり、声を上げることもできずシートベルトを握りしめる。
そして気づいたときには、車は川に突っ込んでいた。
開け放たれた窓から水が入り、一瞬のうちに車内は水で満たされる。キンキンに冷えた川の水が肌を刺し、夕樹は強烈な寒さと息苦しさに襲われる。準備もなく飛び込んだせいで、肺の中にはほとんど空気が入っていない。
夕樹は混乱する頭の中で、とにかくここから出なければという意志だけが働く。しかし水中で、しかもかじかんだ手では、なかなかシートベルトを外せない。
ふと隣を見ると、目を覚ましたらしい晴翔が必死にもがいている。苦しげに歪む表情は、おそらく自分の身に何が起こっているのか理解できていないだろう。
ダッフルコートが水を吸い、体がどんどん重くなっていく。息を止め続けることができず、夕樹は肺の中の空気を吐き出す。代わりに入ってきた水は冷たいのに、胸は焼けつくように熱い。
その後のことを、夕樹はよく覚えていない。きっと溺れて死んでしまったのだろう。しかしぼんやりとした記憶の中に、父親が運転席の窓から出ていく様子だけがしっかりと刻まれていた。




