第42話 極楽の門
「死にたくないな……」
しがないサラリーマンだった男は、既に死したというのにそんなことを考えていた。
男は数日前に過労死した。安月給で休日もなく、サービス残業で帰りはいつも終電。翌朝も始発で出勤し、家族の時間など全くない。五歳になる娘の顔を、最後に見たのはいつだろうか。
男はぼんやりと空を見上げる。雲一つない黒い空を、淡い青色に輝く塔が切り裂いている。今週末、久々の休みに家族で来るはずだったスカイツリーは、大きいだけでそれ以上の感想はなかった。
男はうなだれ、大きなため息をつく。あの世に向かわなければならないことは、魂に組み込まれた常識のようなものが、なんとなく認識している。しかしあの世は怖いところというイメージがあり、なかなか一歩を踏み出せない。
あの世がどんなところか、男は正確に知っているわけではない。しかし耳にした噂によれば、“虫を殺しただけでも罪に問われる”らしい。蚊やコバエなど、毎年何匹殺しているかわからない。
(死んでまで罰を受けるなんて……)
せっかくブラック企業から解放されたのにまた責め苦を受けるなど、男には耐えられそうになかった。
「大丈夫ですか?」
突然話しかけられ、男ははじかれたように顔を上げる。屋外のベンチに座る男の顔を覗き込むように、白髪の男性が首をかしげている。高齢者かと思ったが、その顔には皺ひとつなく、学生のように若々しい。
男は一瞬、自分の近くに生きた人間がいるのだと思った。自分が話しかけられたと勘違いした経験が、この数日で幾度もあったからだ。しかし、青年の黒い瞳は間違いなく男を捉えている。
「あ、私……ですか?」
男が自分を指さして尋ねると、青年は爽やかな笑みで「はい」と答える。
「ずいぶん大きなため息をつかれていたので、何かあったのかと思ったのです。でもよく考えたら、何もなく亡くなる方はいませんよね。隣、いいですか?」
青年は男の隣の空間を指さす。花壇と一体になった長いベンチには、よく見ると男以外誰も座っていない。
「あ、はい。どうぞ……」
男がそう言うと、青年は白いダッフルコートの裾を押さえて座る。まだ冬物のコートには早い時期だが、気温を感じない幽霊には関係ないのだろう。
青年はきょろきょろと辺りを見渡す。
「ライトアップが綺麗な時間なのに、意外と人が少ないんですね。平日だからか、それとも風が強いからでしょうか」
「ああ、そうですね……」
青年に言われてはじめて、男は周りの木々が大きく揺れていることに気付く。幽霊の体は風を感じないようで、男は改めて死んだことを実感し、気持ちがどんよりと沈み込んだ。
「それで、先ほどはどうしてあんなに大きなため息を?」
「え? ああ、そうですね……。情けない話なんですが、あの世に行くのが怖くて」
男は青年に、あの世に行きたくないわけをぽつぽつと話す。青年は口を挟まず、ただ静かにうなずきながら男の話に耳を傾けた。気づけば男は、会社の愚痴から幼少期に抱いていた夢まで、全て青年に話してしまっていた。もしかしたら、ずっと誰かに話を聞いてほしかったのかもしれない。
男の話が一段落つくと、青年は悲しそうに眉尻をさげていた。
「それは大変でしたね……。そんなに頑張ってきたのに、冥界で責め苦を受けなければいけないなんて、あまりに理不尽です」
「そう思ってくださいますか? 自分では甘えじゃないかと思ってしまうんですが……」
「甘えだなんて、そんなことありませんよ!」
男が自嘲気味に笑うと、青年は語気に力を込めて叫ぶように言う。その必死さが自分に共感してくれているようで、温度のないはずの男の目頭が熱くなる。
男は出ないはずの涙を拭い、青年に精一杯の笑顔を向ける。
「そう言ってくださるだけで、ありがたいです……。本当に、ありがとうございます。やっと、あの世の裁判を受ける決心がつきそうです」
「受けなくていいんですよ」
「……え?」
想像もしていなかった青年の言葉に、男は素っ頓狂な声を上げる。青年は聖人のように優しく微笑み、目の前の空間にそっと手を翳す。
「冥界の責め苦なんて受けなくていい。これ以上頑張らなくていいんです。裁判なんかしなくても、あなたが天国に行くべき人だと僕はわかっています」
青年の手の先の空間に、寺で見るような屋根の付いた門が現れる。開かれた荘厳な扉から暖かな光が差し込み、春の花のような爽やかなにおいが立ち込める。その先が天国であることを、男は言われなくても理解した。
「ほ、本当に、天国に行けるんですか……?」
「ええ、もちろん。この先には苦しいことなんて何もない、極楽浄土が広がっています。ぜひ、ここで体を休めてください。あなたにはその権利がある、いや、そうするべき人です」
騙されているのかもしれないと、男は一瞬戸惑う。しかし男の姿を映す青年の瞳は、とても嘘をついているようには見えない。そして人生に疲れ果てていた男は、目の前の極楽に抗うことができなかった。
「あ、ありがとうございます……!」
男は青年に礼を言い、門の中へと足を踏み入れる。振り返ると、閉じる門の向こうで、青年は感動したように涙を浮かべていた。




