第39話 百個でも二百個でも
真白の体を抱きしめたまま、蓮は背中に来るはずの衝撃を待った。しかしどれほど待ってもその瞬間は訪れない。
蓮は恐る恐る背後を振り返る。大鎌を構えていたはずの沙斗琉の手には、何も握られていなかった。
沙斗琉はにやにやと笑いながら蓮を見下ろす。
「本当に斬ると思った?」
「……思った」
蓮はゆっくりと、労わるように真白から腕を解く。ふと辺りを見渡すと、周囲の人びとは蓮たちに奇異の目を向けていた。きっと彼らには、蓮が突然叫び出したようにしか見えなかったのだろう。
出現させたはずの黄金の扉はどこにもなく、どうやら無意識のうちに消していたらしい。
真白が深く息を吐き、近くのベンチに腰かける。
「やっぱり死神だったのかと思った」
「ごめんごめん」
「別にいいけど……。もうちょっとで沙斗琉を縛るところだった」
真白の言葉につられて、蓮は沙斗琉の足元に目を向ける。無数の鎖がじゃらじゃらと音を立て、地面に帰っていくところだった。
蓮はほっと息をつき、真白の方へと視線を移す。
「なんか飲むか? 買ってくるけど」
「ううん。大丈夫」
蓮と真白の会話は、そこで一旦途切れる。蓮が続きの言葉を考えていると、沙斗琉が真白の隣の席を指さしているのが見える。蓮は眉間にしわを寄せつつ、真白の隣に遠慮がちに腰を下ろした。
沙斗琉は意地の悪い笑顔で蓮の隣に立つ。
「蓮って、お母さんのこと「母さん」って呼ぶんだね。いつも「あの人」としか言わないから」
「そうらしい。俺も覚えてなかった」
「そうなの? 咄嗟に出てくるもんなんだね~」
からかうような沙斗琉の声にはそれ以上答えず、蓮はパーカーのポケットに手を入れる。取り出したのは、辞書のような分厚さの封筒だ。実際の重量以上に重みを感じるそれを、蓮は真白に目を向けることなく差し出す。
「閻魔から。正直、こんなんで納得できないと思う。あいつのことだから、言い訳ばっかり書いてるだろうし。それ読んでも霊を縛り続けるなら、それでもいい。また、俺たちが解放するから」
真白はずっしりとした封筒を、遠慮がちに受け取る。ピンク色のハートがたくさん描かれた見た目から、内容は概ね想像できた。
「……だっさ。なにこの封筒。あの世にもこんなんあるの?」
「わざわざ印刷して作ってた」
「手間かけるところそこじゃないでしょ」
真白は悪態をつきながらも、封筒を大事そうに握りしめる。
「病院戻ってから読むよ。ここで読むには多すぎるから」
「ああ」
蓮は穏やかな黒い海を見つめる。水面に映る夜景は、ゆらゆらと霞んで見えた。
「……手紙を書くことを、閻魔に提案したのは俺だった。たとえ会えなくても、文字で十分つながれると思ったから。けど、ただの置き手紙をお守りみたいに持ち歩いてるって母さんが言ったとき、手紙ごときじゃ未練は晴れないと思った。少なくとも、俺はそうだ」
「……そうかもね」
真白がスカートのポケットから、小さな紺色の財布を取り出す。その中には色あせてボロボロになった紙と、比較的新しい、手帳を破ったような紙が入っていた。
蓮は新しい紙の方に見覚えがあった。真白がそれを取り出して広げると、予想通りそこには蓮の字が書かれている。
「これ、返事できなくてごめんね。絶対私のことだってわかってたんだけど」
「まあ、犯人が自分から名乗り出ることはないだろ」
「そうなんだけど……。蓮からの書置きには絶対返事するって決めてたから」
「そうなのか」
「会えない代わりのコミュニケーション手段だと思ってたから。それじゃダメなのは、わかってたんだけど」
蓮はちらりと真白に目を向ける。閻魔が綺麗だと言った横顔は、蓮には懐かしさしか湧いてこない。
「蓮に不自由させないようにって、夜の仕事に戻ったはずだった。でも稼ぐことに一生懸命で、蓮との時間は全然なくて、それもしょうがないって思いながら働いた。蓮が将来大学とか行くなら、お金がないと困ると思って」
「……悪かったな。大学行かなくて」
「それは蓮が決めることだからいいの。でも知らないうちに自立していく蓮を見てたら、私なにやってるんだろうって思えてきた。蓮が一人で起業して、高校も自分のお金で行って、金も職もある状態で家を出て……。私、何のために蓮との時間を削ってまで働いてたんだろうって」
蓮は無意識に真白から目を逸らす。
「俺は、母さんを楽にしたくて……」
「わかってるよ。でもいざ働く時間を減らせるってなったとき、もう蓮との接し方がわかんなくなってた。自分の親との関係が崩壊しているから、子供との接し方とかわかんなくて、逃げてた部分もあった。そのまま自堕落に過ごしてたら、病気が見つかって、治療で延命はできるけど治る見込みは薄くて、溜めてた感情が爆発した。寂しさをあいつが迎えに来ないせいにして、叶わない約束に縋った。どうせ来ないあいつより、私は蓮との時間を大事にしなきゃいけなかったのにね」
「……」
蓮はこのとき、真白の本音を初めて聞いた。蓮から見る真白はいつも忙しそうで、立派な大人で、迷惑をかけてはいけない人だった。
「……今、わがまま言ってもいいか?」
「いいよ。百個でも二百個でも」
「そんなにないけど」
蓮は真っ白に光るレインボーブリッジに目を向ける。二つの土地を結ぶ架け橋は、星を覆い隠すほど強い輝きを放っている。
「クレープ食べたい。甘くないやつ」




