第34話 思い出の大きさ
きらきらと光る波を、蓮は柵にひじを置きぼんやりと眺める。東京タワーの向こうに見える空は、憎らしいほど晴れ渡っていた。
沙斗琉は何も言わずに蓮の隣に佇んでいる。もうかれこれ三十分はこうしていた。
「そろそろお昼食べたら?」
沙斗琉が柔らかいトーンでそう言うと、蓮は景色に目を向けたまま「ああ」と答える。その声は明らかに上の空で、沙斗琉の言葉が届いているのか定かではない。
「オレが生きてたら、なんか買ってくるんだけどねー」
沙斗琉が海に背を向け、柵にもたれかかる。商業施設前の広場では子供たちが駆け回り、その光景は平和そのものだった。
「……怒らないのか」
蓮が独り言のようにつぶやく。沙斗琉は蓮に目を向けず、青い空を見上げた。
「怒らないよ。……オレも、わかってたから」
蓮が不思議そうに沙斗琉を見る。沙斗琉は視線だけを蓮に向け、自嘲気味に微笑む。
「何回か会ったんだ。ここで、真白さんと」
「そう……なのか」
「うん。直接聞いたわけじゃないけど、蓮のお母さんだって気づいてた。似てるよね。話し方とか、考え方とか」
「……そうか」
蓮は再び波の向こうに目を向ける。すぐ近くで話しているはずの親子の声は、どこか違う世界のもののように聞こえていた。
「怒らないの?」
「なにが」
「きみのお母さんと会ってたのに、黙ってたから」
「言う義務はないだろ」
「そうだけどさー。……真白さん、蓮が買った本読んでたよ。楽しそうだった」
「……そうか」
本日何度目かの沈黙が訪れる。蓮は今になって、イヤホンをつけ忘れていることに気づく。一人でぶつぶつと喋る様子は、周囲には不審に映っていたかもしれない。しかしポケットからイヤホンを取り出すのも億劫で、蓮は諦めて海を眺めた。
「そんなに、話したことはないんだ。母親と」
「……うん」
「大した思い出はない。けど、犯人があの人じゃなければいいと思ってた」
「うん」
沙斗琉はただ優しくうなずく。蓮は柵に置いたひじに顔を埋めた。
「地縛霊が増え始めた八カ月前は、ちょうど母親が入院したころだった。髪が長い女性って目撃情報とも一致して、閻魔との接触もあった。それなのに、俺はあの人を容疑者に入れなかった」
「……うん」
「俺が最初から母親を疑ってたら、怪しいと思った時点で問い詰めてたら、葵は怪我せずにすんだかもしれない」
「それは結果論だからわかんないけど……」
「可能性の話だ。……俺は、甘かった」
沙斗琉が柵から背を離し、海の方を振り向く。青い空には、海鳥たちが楽しげに羽ばたいている。
沙斗琉は柵にひじをかけ、少しだけ意地悪そうな顔で蓮を見る。
「責めてほしいの?」
「……そうかもしれない」
「それはできないなぁ。オレも同罪だもん。オレも真白さんかもって思ってたのに、何もしなかった」
沙斗琉はカラッとした笑みを浮かべ、顎にひじをつき遠くのビルを見る。
「きれいな人だよね、真白さん」
「そうか? 目つき悪いだろ」
「蓮と一緒だね。猫耳が似合うタイプ」
「絶対つけないだろうな……」
「嫌がることもなさそうだけどね。カチューシャつけられても、無視してポップコーン食べてそう」
「食い意地はってんだよ、あの人」
「うん。だいたいなんか食べてるよね。甘いものが好きなのかな?」
「たぶんな。小さいころ、金がなくてもクレープだけは買ってくれた」
「息子はわがまま一つ言わなかったって聞いてるけど」
「んなわけねーだろ……。授業参観来てほしいとか、スマホ買ってくれとか、ネット契約してくれとか、それなりにわがまま言ったぞ。あの人が帰ってくるまで起きて待とうとして、結局眠くなって諦めた」
「それは、“大した思い出”じゃないの?」
蓮がきょとんとした顔で沙斗琉を見る。沙斗琉は蓮を見ず、遠くに視線を向けたままだ。
「思い出の大きさって、他人が決めるものじゃないでしょ? 本人にとって価値のあることなら、それは“大した思い出”だよ」
蓮は戸惑いながら、目を伏せる。しばらくして、蓮は再び柵に置いたひじに顔を埋めた。
沙斗琉は優しく、蓮の背中をぽんぽんと叩く。蓮がこの手の感触を感じているのか、沙斗琉にはわからない。
蓮はしばらく顔を上げなかった。晴れ渡った空は、直視するには少し眩しすぎた。




