第35話 写真フォルダに残されたメモ
蓮の記憶の中の「母親」は、常に忙しい人だった。けれど、母との思い出がないわけではない。
長い時間を共に過ごした記憶があるのは、小学生に上がる前までだ。幽霊が見える蓮を、母である真白は不審がることも、不気味がることもなかった。ただ「他の人には見えていない」「なるべく目を合わせるな」と、対処法だけ教えた。
蓮がもっともよく覚えている出来事は、蓮がまだ三歳のときのことだ。何の前触れもなく、蓮に“自在に空間を繋げる能力”が発現した。
蓮は目の前に突如現れた扉を、ただ興味本位でいじっていた。よくわからないままダイヤルを回していたとき、急に扉が開いた。扉の向こうは真っ赤な炎が燃え滾り、熱気が立ち上っていた。蓮は後になって、この世界が地獄だと知った。
炎の中から、ほとんど骨と皮だけの人間が蓮に手を伸ばしてきた。そのときの蓮に扉を閉めるという発想はなく、泣き叫ぶことしかできなかった。蓮は急いで台所に向かい、食事を作っていた真白に抱き着いた。
真白は持っていた包丁を地獄の亡者につきつけ、無理やり追い返して扉を閉めた。真白の全身から滝のように流れる汗が、熱気のせいなのか、冷や汗だったのか、蓮にはわからない。
泣きながら謝った蓮を、真白は叱ることなく力強く抱きしめた。
「びっくりしたね。怖かったね。でも、その力は悪い力じゃないんだよ。いいことに使えばいい力になるし、悪いことに使えば悪い力になる。少しずつ、使い方を覚えていこうね」
真白の声は冷静だった。まるで、蓮に特殊な力があることを知っていたかのように。しかし蓮の頭を撫でた真白の手は、小さく震えていた。
蓮はこの時の母の温度を、今でもよく覚えている。強くて、優しくて、温かかった。
蓮が小学校に上がると、真白は夜の仕事をするようになった。それまでは在宅でできる軽作業をしていたが、きっと給料が少なかったのだろう。
蓮の食事は真白が用意していた。出勤前に蓮の夕食を作り、帰宅後に朝食を作る。蓮は子供ながらに、真白が忙しいことを理解していた。それが自分のためだということもわかっていた。だから、「授業参観に来てほしい」というわがままは、一年生の初めての授業参観のときしか言わなかった。結局、真白が学校に足を運ぶことはなかった。
蓮は自分の家が普通ではないことを理解していた。多くの家には父親と母親がいて、家族で食事をとり、バラエティー番組を見て、遊びに勤しみ、「宿題やったの?」と怒られる。蓮にそんな“普通”はなかった。
周りと話が合わず、同級生にからかわれたこともある。近所の大人に「かわいそう」と哀れみの目を向けられたこともある。しかし蓮は、自分が不幸だと思ったことはなかった。生活にも学業にも支障はなく、たまに顔を合わせる母は、物わかりのいい自分を褒めてくれた。
とはいえ、母とすれ違いの生活が寂しくなかったわけではない。蓮は母との時間を作る努力をした。食事を作ることも、起業もその一環だ。結果的に、母との時間は増えなかったけれど。
真白と蓮のコミュニケーションは、基本的に置き手紙だ。連絡事項をメモして、いつも同じ場所に置く。帰宅した相手は、そのメモに返事を書いてまた同じところに置く。そうしようと話し合ったわけではない。気づいたらそうなっていた。
それで問題が起きたことはない。むしろ口頭で伝えるより合理的だ。
蓮は暗くなった海を眺めながら、スマートフォンの画面をつける。写真フォルダには、今までに書き合ったメモの写真が全て保存されている。
これはメモの内容を後でもう一度聞かれたときに、すぐに答えられるようにするものだ。それ以上も、それ以下もない。そのはずだった。
(……思い出、か)
蓮はようやく、自分がこのメモに縋っていたのだと気づいた。




