第33話 違っていてほしい
嗅ぎ慣れた消毒液の匂いの中、いつもとは異なる景色の廊下を蓮は早足で歩く。普段は表情の乏しい蓮に、珍しく焦燥の色が浮かんでいる。後ろを歩く沙斗琉も、同じく余裕がないようだった。
蓮は慣れた手つきで部屋の扉をノックする。扉は既に開いており、カーテンで仕切られた複数のベッドが見えている。
蓮は部屋に足を踏み入れ、一番奥まで迷わず進む。目的の人物のベッドは、来客を見越したようにカーテンが開かれていた。
「葵」
「あ、蓮! 沙斗……」
「オレはいないことにして。周りには見えてないから」
「あっ、そうだった。ありがとなー来てくれて」
葵はいつも通りの笑顔で右手を上げる。左腕にはギプスがはめられ、首から白い布で吊っている。痛々しい姿ではあるが表情は元気そうで、蓮は少し安心した。
「クッキー持ってきたけど、食うか?」
「食べる! 開けて開けてー」
蓮はコンビニで購入したクッキーの箱を開ける。個包装の袋を破り、葵に手渡した。
「ありがとー! いただきまーす!」
「どこ怪我したんだ?」
葵はクッキーをさくりと噛み、口をもごもごさせたまま視線を左腕に向ける。
「左腕が折れてて、あと足の……この骨なんて言うんだ? 膝から足首までのさ」
「腓骨か? 脛骨か?」
「細い方」
「腓骨」
「そうなんだ? まあ、そこにひびが入った」
葵はあっけらかんとしているが、決して軽傷ではない。蓮はとても葵と同じ調子ではいられず、眉間にしわを寄せた。
「何があった? 車にぶつかったとは聞いたけど」
「人追いかけようとしたら、曲がってくる車に気づかなくてぶつかった。青信号でも周り見なきゃダメだな~」
「誰もがルールを守るわけじゃないからな。で、誰を追いかけてたんだ?」
蓮が尋ねると、葵が珍しく視線を逸らす。葵はクッキーを一口かじり、言葉を選ぶように「う~ん」と唸る。
「蓮に言ったら怒られると思うんだけどさ」
「言え」
「怒らない?」
「内容による」
「だよなー」
葵は蓮と沙斗琉に、近づくよう手招きする。幽霊関連だと察した蓮と沙斗琉は、葵に顔を近づけ耳をそばだてる。葵は内緒話をするように小さな声で話した。
「実はさ、見ちゃったんだよ。蓮が言ってた、幽霊が縛られるってやつ」
「……首突っ込むなって言わなかったか?」
「そう言われたから、オレも最初は蓮に連絡しようと思ったんだ。でも犯人らしき人を見つけて、追いかけなきゃって思って」
「首突っ込むなって言わなかったか??」
「そうなんだけどさ~。……でもオレ、あの人知ってるんだよ。記憶違いじゃなければ」
蓮と沙斗琉が顔を合わせる。事件が発生してすぐなら、有益な情報だと飛びついたかもしれない。しかし今の蓮は、続きを聞くことに不安を感じていた。
「……俺も知ってる人間か?」
蓮は意識的に声を落ち着かせる。葵は少し険しい顔でうなずいた。
「蓮は、あんまり話したくないかもしれないと思って、オレから話を聞けないかなって……。まあ、そもそも記憶違いかもしれないんだけどな? 二回くらいしか会ったことないし」
「違ってもいい。教えてくれ」
「うん……。嫌な気持ちにさせたらごめんだけど」
葵は不安げに眉尻を下げる。蓮は言葉の続きを察しつつ、ほんの少しだけ、違っていてほしいと願った。
「あの人……蓮のお母さんだと思う」




