第32話 まだ伝えていないこと
(はぁ……。ななりん最高だったなぁ)
ライブの余韻に浸りながら、葵はライブ会場を後にする。この日はアイドルグループ内のユニットの単独ライブだった。葵はななりんの担当カラーである黄色のシャツをなびかせ、台場駅へ向かう人の波に乗っていた。
一人でライブに行くのは久しぶりだ。いつも誰かと予定を合わせるのだが、平日である上、友人たちの推しはななりんとは別のユニットに所属している。葵が有休を取っている分の仕事は蓮に回るので、蓮を誘うわけにもいかなかった。
学生のころは、こうして気兼ねなくライブに行けるようになるとは思っていなかった。男手一つで葵と妹を育てた父は、決して収入が多い方ではない。それを理解していた葵は、小遣いをねだることもなく、周りの友人たちが持っている娯楽品をほとんど持っていなかった。憧れはあれど、仕方がないことだと思っていた。
その憧れを昇華できたのは蓮のおかげだ。蓮は葵と妹を家に招き、毎日のようにゲームで遊ばせてくれた。
高卒で就職先が見つからなかった葵に、手を差し伸べてくれたのも蓮だった。蓮が雇ってくれなかったら、今でも生活に困窮していたかもしれない。
葵にとって、蓮は人生の恩人だ。それを蓮本人に伝えるのは、さすがに恥ずかしくてできないけれど。
明日、明後日は休日だ。今日有休をもらった分、週明けの仕事を頑張ろうと思いながら、葵は人の波と共に赤信号で足を止めた。
車道を歩く人の姿が見え、葵は一瞬ぎょっとする。しかし車のライトに照らされたその人には影がなく、幽霊だと理解しほっと胸をなでおろす。
そのとき、向かい側で信号待ちをしている女性が目に入る。その人も、車道の幽霊を目で追っているようだった。
(あれ? あの人もしかして……)
ぼんやりと見覚えのあるその女性のことを葵が思い出そうとしたとき、突如、車道の幽霊の足元から鎖が現れる。驚く暇もなく、鎖は幽霊の足首に絡みついた。
(これ、蓮が言ってたやつじゃ……!?)
葵は一瞬霊の元に行くか迷うが、蓮が「首突っ込まずに連絡してくれ」と言っていたことを思い出す。葵はスマートフォンを取り出そうと、ズボンのポケットに手を伸ばす。しかし直後、向かい側の女性が踵を返す様子が見えた。
女性が霊を縛ったのだ。葵は直感的にそう思った。
信号が変わり、葵は女性を追いかけようと人の間を縫う。女性が葵の思っている人物なら、見失ってはいけないと葵は思った。蓮はきっと、あの女性と話をしたがらないだろうから。
冷静になれば、二度と会えないような相手ではなかった。しかし葵は、そこまで頭が回らなかった。
人の群れから抜け出し、葵は横断歩道を走る。無我夢中だった葵は、曲がってくる車の運転手がよそ見をしていることに気づかなかった。
クラクションの音もなく、強い光が葵を照らす。葵が気づいたときには、すでに車が目の前に迫っていた。
周囲の人々の叫び声は、衝撃の中にかき消えていった。




