第30話 色あせた書き置き
遠い昔の、幻のような記憶。しかしそれが幻ではなかったことは、息子の力と、真白の手の中にある紙切れが証明してくれている。
ホテルで紫蘭の正体を聞いた。けれど真白にはどうでもよかった。それが真実だろうと嘘であろうと、目の前にいる紫蘭は紫蘭でしかない。
ベッドで体を温め合い、抱きしめられながら眠り、目が覚めたとき、紫蘭はいなくなっていた。
財布に挟まっていた書き置きに、真白は二十五年経った今でも縋りついている。
(……馬鹿みたい)
真白は色あせた紙切れとなった書き置きを見ながら思う。短い謝罪の後に書かれた「絶対に迎えに行く」という文字に、どれほど期待をかけたことだろう。
信じていた。信じたかった。信じられると思った。
真白はワンピースのポケットから、小さな紺色の財布を取り出す。ファスナーが壊れたそれに、真白は紙を折りたたんでそっとしまう。中からもう一枚の書き置きが覗いたが、それは見ないふりをした。
財布をポケットに入れ、落ちないことを確認する。あの日も着ていた水色のワンピースは、夜闇の中では真っ白に見えた。
真白はライトアップされた女神像に目を向ける。この女神の名のように、自由になれたらどれほど楽だろう。言葉の呪縛から放たれ、一見何の不調もないこの体から、本当に病気が消え去ったなら。
真白が振り返ると、辺りには人に交じって歩く浮遊霊の姿がある。視界を広く捉えると、浮遊霊たちの足元から一斉に鎖の花が咲いた。
これも記憶が幻ではない証明の一つだ。紫蘭と出会ったあの日から使えるようになった、特別な力。特に使う理由もないからと、息子にも教えず長年放置していた。
霊たちが混乱しているうちに、真白は肩で息をしながら駅に向かう。見るだけとはいえ、力を使うにはそれなりに体力を消耗する。
それでも真白は止まらない。書き置きを現実にする方法が、他に思いつかなかった。たとえ、もう一つの宝物に見放されようとも。
痛む体を引きずりながら真白は歩く。この未練を断ち切らなければ、きっと真白の魂も、この地に縛られることになるのだろう。




