第28話 幻のような記憶
これは今となっては幻のような、遠い昔の記憶。
夜の闇に、ビルの明かりが星のように輝いている。楽しげなカップルの声を憎らしく思いながら、真白はベンチに体を沈めていた。
嫌なことがあった。とはいえそんな日が来ることは覚悟の上で、風俗を始めたはずだった。店の規約で禁止されているが、守る客ばかりではない。それでも若干二十歳の真白には、あまりに悲惨な体験だった。
(それが嫌ならまともに働けって話かもしれないけどさぁ……)
真白は十八歳のとき、衝動的に実家を飛び出した。まだ世間をよく知らない真白にも、金がなければ生きていけないことはわかっている。あまり深く考えず、簡単に大金を手にできそうだと思いデリヘルを始めた。今までは規約を守る客にしか当たったことがなく、楽勝だとすら思っていた。
今回のようなことを、真白も想定していなかったわけではない。けれど昔から喧嘩に明け暮れ、男子にも勝利していた自分ならなんとかなると思っていた。大人の男をなめていたとしか言いようがない。
(とっとと忘れよ。今日どこで寝ようかな……)
家のない真白は、友人の家を点々としていた。昨日まで居候していた友人の家は、友人が彼氏と同棲したいと言うので出ていった。
このままここで寝たら風邪をひくだろうか。その前に警察に声をかけられるだろうか。二十歳なら補導はされないだろうが、幼さの残る真白の顔は高校生に見えるかもしれない。誤解を解くのは面倒であり、そもそも警察にはあまりいい思い出がない。
真白は水色のワンピースのポケットをまさぐり、小さな紺色の財布を取り出す。ヨレヨレの紙幣を数えると、ホテルに泊まれる程度はありそうだ。
(ビジホよりラブホの方が安いか? いや、ネカフェでいいか)
真白は財布をポケットにしまい、デニムジャケットを羽織り直してベンチから立ち上がる。しかしその瞬間、頭頂部に何かが思い切りぶつかった。
「ぶっ……!!!」
息を吹き出すような音と共に、真白の隣に見知らぬ男がうずくまる。男は顎を押さえ、目に涙を浮かべていた。石頭の真白に、大したダメージはない。
なぜ男の顎が真白の頭の上にあったのか。あまり深く考えず、真白はじっとりとした瞳で男を見下ろした。
「あ、ごめん。大丈夫?」
発した声は、自分でも笑ってしまいそうなほど感情がなかった。こんな時間に声をかけてくる男の目的など、一つしか思いつかない。真白は適当に男をあしらい、早くネットカフェに向かうつもりでいた。
男は真白を見上げ、情けなく笑いながら自身のマッシュヘアを撫でる。
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
男の素直な言葉に、真白は一瞬目を見開く。この男は、真白が本気で心配したと思っているのだろうか。
「……なにか用?」
その和風とも中華風とも取れない服装の男に、真白は少しだけ興味を持った。家に泊めてもらえないかという打算もあったかもしれない。身の危険がないとは言い切れないが、先ほど相手をした客よりは弱そうだ。
男はよろよろと立ち上がり、穏やかな瞳を真白に向ける。
「用ってほどじゃないんだけど……。泣いてるみたいに見えたから、心配になって」
「は? 泣いてないけど」
真白は訝しげに男を見る。やはりナンパ目的だろうか。
「そっか! それなら良かった」
心の底から放たれたとわかるその言葉に、真白は再び目を見開く。この男の辞書に、疑いという言葉はないのだろうか。
「あんた一人?」
「え? うん。一人だよ」
真白は男から視線を外し、一際目立つ商業施設に目を向ける。
「時間ある? 暇ならちょっと付き合ってほしいんだけど」
「僕でよければ! ……あ、でもお金は持ってなくて……」
「あんたが何も買わないならいいけど」
「じゃあ大丈夫!」
真白が商業施設へ足を進めると、男はにこにこしながら後ろをついてくる。手を出してくる様子はなさそうだ。
「あんた名前は? 私は真白」
「紫蘭だよ」
「ふーん。日本人?」
「日本ではある……かな?」
あいまいな返事に、真白はハーフか何かだろうと勝手に結論付ける。ただ無音を作りたくないだけで、質問自体に深い意味はなかった。




