第27話 声のかけ方を知らないまま
痛いくらいの日差しが照り付け、黒服に優しくない季節が本格的に訪れる。蓮は袖が短くなったパーカーを着て、飾り気のない廊下をぺたぺたと歩いた。リュックと背中の間に流れる汗が、じっとりと不快感を増している。
蓮は無機質な扉をノックし、どうせ返ってこない返事を待たず扉を引く。開いた窓から響くセミの声が、冷房の存在を疑うほどの暑さをもたらした。
いつものように本を置いて帰るつもりで、蓮はずんずんと部屋の奥へと足を進める。歩きながら本を取り出し、ベッドの手前で顔を上げたところで、蓮はこんもりと盛り上がる布団に気づく。いないと決めつけていた人物は、珍しく規則を守っているようだ。
蓮はベッドに近づき、枕元をちらりと見る。小さく寝息を立てる母は、最後に目にした八カ月前と何も変わらないように見える。メールで「入院することになった」と伝えられ、連帯保証人のサインをしに来たあの日と。
この艶やかな黒髪を見て、誰が余命一カ月だと信じるだろうか。
蓮はいつものように、購入した本を床頭台の右側に置く。左側の本は、日を追うごとに冊数が減っている。しばらく新しい本はいらないかもしれない。
左側の本をリュックに詰め、チャックを閉め片方の肩に背負う。そのまま出入口へと足を向けたが、歩き出すことなく、蓮は再び母に目を向けた。
蓮の母は、蓮と同じで見える人だ。それが昔からなのか、閻魔との接触が原因なのかはわからない。しかし、葵と違い人と幽霊の判別ができ、地縛霊増加率の高い有明に入院しているのだから、何か情報を持っているかもしれないと思った。
もしかしたら、母本人が犯人の可能性だってあるのだ。
よく考えたら、犯人の条件としては申し分ない。幽霊が見え、有明という千葉県に近い場所を拠点とし、閻魔と深く接触した。
真っ先に疑うべき人物だ。それなのに誰も疑わないのは、蓮に気を遣っている、あるいは、母に特殊能力があるなら蓮が知っているはずだと思っているからだ。
では、蓮が母を疑わない理由はなんなのか――。
(……なんだろうな)
世間的に見たら、蓮の母は母親として優秀ではないだろう。家事を一向にせず、息子と顔を合わせることもない。蓮も母に対して、感謝の念は持っていない。
それでも毎日食事を作り、実家を離れた今もこうして本を持っていくのは、いったいなぜなのだろうか。
(何を、期待してるんだろうな。俺は)
母に特別な思い出はない。趣味も好きな食べ物も知らない。なんと呼んでいたのかすら、思い出せないというのに。
(……一応、聞くだけ聞いてみるか)
蓮はリュックを下ろし、リュックに常に入れている手帳のページを一枚破る。地縛霊が増加していること、知っていることがあれば連絡してほしいことを書き、床頭台に置いた本に挟む。
昔から、紙に書くことが唯一のコミュニケーション手段だった。気づいたら、返事くらいは書いてくれるだろう。
蓮はリュックを背負い直し、出入口に足を進める。鳴きやまないセミの声は、度胸のない蓮を責め立てているようだった。




