第106話 格子越しの手
閻魔……いや、紫蘭の言葉に、蓮は妙に納得する。紫蘭の考えが人間寄りだと感じたことが、今までに何度かあるからだ。
普通の冥界の住人の一日は、人間の数秒程度と同じ感覚しかない。しかし紫蘭は一日を、人間と同じ一日の長さに感じている。
その状態で、彼は二千年以上を生きている。変えたいと思うのは当然のことかもしれない。
(俺を転生させたくないのは、ただ一人になりたくないからか……)
蓮が回収課に属する条件とした、「死んだら他の人間と同じように転生させろ」という言葉。それを渋ったのは蓮を閻魔にするためではなく、蓮まで死んだら一人になってしまうからだと、蓮は今になって察する。
「……そうか」
蓮は格子越しに、紫蘭の手に自分の手を重ねる。格子にこつんと額をつけ、蓮は小さくつぶやく。
「……あんたも、同じこと考えてたんだな」
紫蘭がきょとんとした顔で蓮を見る。同じといっても、蓮は世界の理を変えようとはしていない。同じなのは、行動ではなく感情の方だ。
「俺も……父さんと母さんと、一緒に生きたかった」
蓮は今まで、親のことは意識的に考えないようにしていた。考えると、寂しくなってしまうから。
それでも、ふと考えてしまう瞬間はある。そのたびに心の穴が開き、蓋をしてなかったことにする。蓮はずっと、両親がいる人がうらやましくて仕方がなかった。
紫蘭の言うように世界の理を変えたら、父親と共に過ごせるだろうかと蓮は考える。魂のバランスが崩れて世界が融合し、冥界も六道もなくなれば、魂は帰る場所も巡る場所もなくなる。紫蘭の言う通り、紫蘭と蓮は永遠を共にできるかもしれない。
しかし蓮はその考えを、脳内で容赦なく踏みつぶした。
「あんたのやり方には賛同できない」
強く放った蓮の言葉に、紫蘭の顔が強張る。もしかしたら、蓮が味方になることを期待したのかもしれない。
蓮は格子から距離を取り、紫蘭を睨む。紫蘭から“閻魔”の笑顔が消え、硬い表情で蓮に視線を返す。
「……どうして?」
「世界のルールを変えて、俺からも死の概念がなくなる可能性がないとは言い切れない。が、俺たちの都合だけで世界なんてでかいものを変えるリスクは負えない。魂が全部消滅するかもしれないし、そうなったら取り返しがつかない。そもそも人間同士だって、人それぞれ寿命は違うんだ。完全に同じ時を生きることは不可能なんだよ」
蓮は眉間にしわを寄せ、険しい表情で紫蘭を見る。
「……博打に出るには、この世界には大切なものが増えすぎた。あいつらの魂の行く末を、俺は捻じ曲げたくはない」
紫蘭は下を向き、そろった前髪が表情を隠す。そのリアクションを見ても蓮が言葉を撤回することはないが、少々強く言い過ぎたかもしれない。
蓮が言葉をかけるべきか悩んでいたとき、格子からミシッと音がした。
「賛同してもらえないものは仕方がないね。僕と蓮くんじゃ、歩んできた人生が違うから」
蓮は咄嗟に格子から数歩下がる。その直感は正しかったようで、蓮の目の前の格子がみるみるうちに溶けていく。金属と思われるそれは液体となって落ち、やがて格子に人が通れる程度の穴が開く。
蓮はまさか、こんな特別な牢が簡単に破られるとは思わず、完全に油断していた。紫蘭は穴から牢を出て、あっという間に蓮に近づく。
紫蘭が蓮の腕をつかむ。紫蘭は笑みを浮かべながらも、残念そうに目元を歪める。
「この手は使いたくなかったんだけど……ごめんね」
掴まれた腕から、蓮の体が徐々に熱くなる。危ないと気づいたときには遅く、蓮の心臓がドクンと強く脈打った。
「ぐっ……あ……っ!」
息が苦しくなり、蓮は服の胸元をぎゅっと握る。呼吸が速くなり、全身から汗が噴き出す。
紫蘭は蓮を掴む手と反対の手を空間に翳す。その手の先から、見慣れた黄金の扉が突如出現した。
「は……?」
蓮は何が起きたかわからず、体の反応のままに声を出す。紫蘭は苦しげに眉を歪め、口元だけ笑みを浮かべる。
「僕はね、蓮くんが思ってるよりたくさんの力を使えるんだよ。例えばこうやって、他人から力を引き出して使うこともできる。そんな僕でも、蓮くんの扉の力は持っていない。六道の門を開くことはできるけど、それは決まった場所にある決まった門を開くだけで、自在に大きさと場所を指定できるわけじゃない。こうやって入り口を限界まで大きくして、この世界と他の世界を融合することはできない」
「んな……はぁ!?」
蓮は紫蘭の目的を察し、目を見開く。しかし紫蘭の力は止まらない。金庫扉はどんどん大きくなり、地下の壁を埋め尽くすほどになろうとしている。
蓮は紫蘭が合わせたダイヤルの座標が、人道……蓮たちの住む世界であることに気づいていた。
「やめろ……! おい、親父!!!!」
蓮は掴まれた腕を引っ張りながら、必死に紫蘭に向かって叫ぶ。紫蘭はふっと微笑み、寂しげな黒い瞳を蓮に向ける。
「ごめんね、蓮くん。僕にとって大事なものは、もう君と僕しかないんだ」
紫蘭が扉の取っ手に手をかける。一見重そうな金庫扉は、実はさほど重くはない。紫蘭が手を引いたら、簡単に開いてしまうだろう。
蓮は必死に紫蘭に手を伸ばす。しかし紫蘭は蓮から目を背け、扉に顔を向けている。もう自分の声は届かないのだと、蓮は諦めそうになった。
しかし次の瞬間、黒いものが視界の端で弧を描く。紫蘭を狙ったと思われるそれは、紫蘭が蓮から手を放すと同時に空を切る。金庫扉が消え、蓮は息苦しさから解放される。
「っ……はぁ……」
蓮はその場に膝をつき、荒い呼吸を整える。気づいたときには、目の前に黒いロングコートがなびいていた。
「沙斗琉……」
蓮が弱々しく、ロングコートの人物を呼ぶ。沙斗琉は大鎌を肩に担ぎ、いつも通りの不敵な笑みを浮かべていた。




