9 父のビシソワーズ
コウは、月曜日には東京に帰ることにして、母親にそう告げていた。
最初は二・三日のつもりだったが、まる一週間いたことになる。
「あなたの顔を見たら、りりぃも元気になったしね」
「そんなことないよ、点滴が効いたんだよ」
日曜日の朝の食卓で、母親は白い冷製スープの椀を出した。
「これ、お父さんがつくったのよ」
「ええ?」
「イモの冷やし汁だ」
老眼鏡をかけて新聞を読んでいた父親が、無愛想に言う。
昨夜、遅くに父親が台所に立っていたのは知っていた。
父親が料理をする姿は記憶になかったので、何をしているのかと思った。
「これは、ビシソワーズでしょう」
「そうともいうな」
「市内のレストランに行った時、お母さんが美味しいって言ったら、あんなものおれでも作れるって言い出して」
「母さんは余計なこといわなくてもいいんだ」
「へぇー、お父さんの料理ねえ……いただきまーす」
飲んでみると、もともと難しい料理ではないが、うまくできている。
「なんか、キメが細かいね」
「レシピじゃ、炒めた具をフードプロセッサーにかけるって書いてあるのよ。
お父さんのは、じゃがいもをふかして裏漉ししてからスープに合わせるの」
「すごい、お父さん、習ったことあんの?」
「自己流だ……いいから、食え」
コウは両親の顔を見比べながらスープを飲み、ご飯を食べ、何か嬉しい気持ちになった。
自分がいない時、向かい合って食事している二人の姿を思い浮かべた。
(あまり意識したことはなかったけど、いい夫婦なんだろうな)
離れてみなければわからないものなのだ。
またスープを口にして、コウは初めて気がついたように思った。
(あたしが、ある時から何か澄んだ味の飲み物をと思い始めたのは)
(お父さんの血なんだ)
それはやや大げさだが、どちらかといえば父親の嗜好を継いだのだろう。
(これが、透明な味なのかもしれない……)
月曜日の朝が来た。
「お父さん、今度来たらレパートリー増えてるよね?」
「どうかな……元気でやってくれ」
「りりぃの散歩、お願いね」
「そんなのはいいから、早く行け」
父親は最後まで見送ることはせず、新聞を手にリビングに戻っていった。
母親が買い物のついでにと、市内までついてきた。
新幹線が出るまで一時間ほどだ。
「コウちゃん、喫茶店に入りましょうか」
「いいよ」
コウが女同士だと不作法になる癖は、母親とでもそうだ。
母親は、運ばれてきたコーヒーを両手で捧げ持つようにしてそっと飲む。
東京でもあまり見ない作法で、品がいいのかもしれないなと思った。
(あたし、お父さんとお母さんのこと、何も知らなかったんだ……)
「コウちゃん」
「ん? なに」
「わたしたちね、あなたのお仕事のこと、知っています」
どきりとはしなかったが、ここで来るかと思った。
(そうか、それで市内まで来たんだ……なるほど)
何と言われるのだろう。
「N町の加藤さん、覚えてるでしょう? あの人が出張で東京に行った時」
かすかに覚えている、両親よりいくつか下の、知り合いのおじさんだ。
普通のおじさんとしかいいようのない外見で、店に来ても気がつく自信はない。
「あなたが働いてるところを見たんですって」
「ごめんなさい」
コウは、先に謝ってしまった。
「うそをつくつもりはなかったんだけど、心配すると思って」
「いいのよ」
母親は続けた。
「べつにその、いやらしいようなお店じゃなくって、まじめにカクテルを作ってるんでしょう?」
「そうだよ」
「加藤さんもそうおっしゃってたし、言いふらすような人でもないから」
「うん……はずかしいとか、そういうお店じゃない」
「がんばりなさい」
「はい」
「どうせなら、コンクールで一位になるようなカクテルを造りなさいよ」
「いや、そこまでは……どうかなぁ」
ホームで見送るなんてあなたは苦手でしょうと母親が言った。
コウのさばさばした気性は彼女譲りだから、お互いにわかっている。
じゃあまた来るよとコウが言って、駅前で別れた。
母親が背筋をのばして歩いていくのを、コウは少しの間、見送った。
いろいろなことで弱気を出していた一週間前より、だいぶ気分が晴れた。
両親とりりぃは、思っていたよりずっとたくさんのものをコウにくれた。
そんな気がする。
(さあ、東京に帰るぞ)




