7 マリーゴールド
朝、サンジは通勤で地下鉄に乗ろうとしていた。
定期が切れていてカードに入金もしていなかったので、券売機の前に並ぶ。
すぐ前にいた中年の女性の番がきた。
彼女は持っていたいくつかの荷物を券売機手前のカウンターに置いた。
それからそのうちのひとつをまた取り上げ、中の財布を探しはじめた。
サンジのほうはもう手の中に硬貨を用意している。
(順番がくれば、機械の前に三秒もいないけどな、おれは)
まだ時間には余裕があった、焦っても仕方がない。
そこへ、大きなバッグを背負った若者がやってきた。
彼は機械の前で手間取っている中年の女性を憎々しげに見て、舌打ちをした。
その雰囲気が伝わったようで、彼女が荷物の中を探る手がせわしくなる。
やがて彼女はカウンターの上の荷物を少し横にずらし「お急ぎの方、どうぞ」と言った。
若者は「最初からそうすりゃいいんだよ」と荒っぽい言葉を口にする。
少し離れて並んでいたサンジには気づかなかったのか、先に機械の前に立った。
(ずいぶん不作法なやつがいるもんだな)
自分の身の回りの若い人間はみんな物腰がやわらかいので、この程度でもかなり粗暴な態度に感じる。
プラットフォームで電車を待っていたら、どこで寄り道をしていたのか、さっきの若者が走ってきた。
ちょうど電車が来たところで、彼は無言でサンジの肩を横に押しやり、乗り込もうとした。
考える前に手が動いて、若者が背負っているバッグに手をかけてしまった。
そう乱暴にしたつもりはなかったが、彼は引き倒されて転倒する形になった。
「なにするんですか」
言葉だけは敬語になったけれど、逆上してなぐりかかってくる可能性もある。
サンジは間合いを取りながら、眼に力をこめて言った。
「もうちょっと、行儀よくできないのか」
若者がとびかかってくる気配は、感じられない。
怯えさせてしまったようだ。
彼は顔を赤くし、涙をにじませて抗弁しはじめた。
「ぼくがなにしたっていうんですか……たかがあれくらいのことで」
(それはないだろう、でも警察を呼ばれたら過剰防衛になるか)
(このままじゃ、おれのほうが非常識な男にされちまうな)
「礼儀を守らないと、自分が危ない目に遭うってことだ……気をつけて」
もう電車に乗る気をなくして、サンジは出口に向かった。
若者はまだ座り込んだまま、小声で言った。
「ひとごろし」
(あの程度のことで新聞に載るような事件になったりするんだ、気をつけよう)
そう考えながら、サンジは意外に感じていた。
自分はおよそ暴力的な人間ではないし、正義感を振りかざすタイプでもないと思っている。
しかし、最低限のルールを守れない者に対して、ただ我慢していることはない。
そういう面も自分にはあったのだろう。
(手が出ちゃったんだから、仕方ねえや)そう思った。
それはいいとして、いったん身体に漲ったものがなかなか消えていかない。
(仕方ないから、今日は午後から出るか、休みにするか……)
ふだんは真面目に出勤していてそういい加減なことはしないのだが、このまま仕事場に入る気がしない。
会社に電話して、急用ということにした。
あまりいいことではないが、思いがけず一日休みができた。
ひさしぶりに昼間から居酒屋で時間をつぶそうと思った。
ここのところ一・二年は真面目に働くばかりでそんな機会もなかった、たまにはいいだろう。
浅草へと向かう、いくつか知っている飲み屋が開いているはずだ。
血が上った頭をゆっくり冷まして、明日からまた頑張ればいい。
電話があって、会社から折り返してきたのかなと思って着信を見ずに取った。
「金魚は買ってきてね、カラーチャートも持って」
レイカの声が、そんな言葉をサンジの頭の中に送りこんだ。
金魚? カラーチャート? もうひとつあれば三題話になるところだが……。
カラーチャートというのは印刷用の色見本だ。
ビニール袋の中の金魚にその切れ端をあてて、自分が言うのか。
(M55、Y95ってところだね)色の名前はマリーゴールド。
そんな約束はしていない、何かの冗談だろうか。
「どうした、それってなんなんだ」
「ああっ」切れた。
最後の声は、生々しく不快さを表したものだった。
まるでサンジのほうが理不尽なことを言ってきたとでもいうように。
サンジはいまのやり取りはなんだったのかと思った。
(きのうTVかなんかでそういう台詞があったとか)
(単なるかけ間違いかな)
金魚を持った男と待ち合わせるレイカの姿。
それでなくても彼女がこの時間に電話をかけてくること自体、少しおかしい。
サンジがいつもなら普通に出勤しているのを知っているはずだから。
(これ以上、考えても仕方のないことか)
(朝の事件と一緒で、きょうは厄日とかそういうもんなのか……)
地下鉄を降りて地上へのぼっていく。
(ちょっと晴れた)
浅草はふだんと変わらず、ゆったりとした風が流れている。
(おれのほうがどこかヘンになっていて、世の中から切り離されてんのか)
そんな考えも浮かんだ。
(以前とはちがう、そんなことはない。ゆうちゃんの店に行ってひと息いれたら、うちに帰ってよく眠ればいいんだ……)
伝法院通りを歩いていく。




