6 レディー・ドラゴン
りりぃは、食事を摂りはじめた。
「あんたの顔を見たら、元気が出たみたい」
母親に言われて、コウは答える。
「よかったよ……お母さんの電話じゃ、いまにもって感じだったから」
先週までは食物が喉を通らなくて、獣医に点滴を打ってもらったりしていた。
それが効いたというのもある。
コウの顔を見て十年前に戻った気もしているのかもしれない。
いずれにしてもひと安心だ。
「それにしても、すぐ帰ってくるとは思わなかったよ」
「ちょうど仕事の切れ目だったんだ」
母親が顔をじっと見ていて、コウはみんな見抜かれているような気がした。
嘘というほどのことでもないのだけれど。
「せっかく帰ってきたんだから、お友だちに電話すれば」
「べつにいいんだけどさ、ふだん連絡とってないし」
「あんたも、さばさばした子だからねぇ」
「いま誰がこっちに残ってたっけ、それもわかんないや」
さすがに、同級生の何人かについては知っている。
地元で結婚して、子どもをもっている人。
新幹線の駅がある市内まで勤めに出ている人。
どちらにしても忙しいだろうから、コウの性格では、平日に呼び出したりはできない。
「こんどの土日まで、いたらいいじゃないの」
「そうもいかないなあ、もう戻ってこなくていいって言われたら困るし」
両親はいつも穏やかで、けっして声を荒げることはしない人たちだ。
自分のうちがそうなので、それが当たり前だと思っていた。
中学生の時、友人の家で驚かされたことがある。
その家庭では、夫婦同士、親子同士でけんかでもしているようにどなりあうのが普通だった。
べつに仲はよかったようで、少しうらやましい気もした。
それが、世の中にはいろんな人たちがいるんだなあと思った最初だったかもしれない。
「ちょっと散歩してくるわ、裏の山でも」
「今日はお鍋するからね、お父さんも五時には帰ってくるから」
父親は町内のボランティア活動に出かけている。
なにか用事をつくって出ていないと、ただうちにいるのには慣れないらしい。
裏の山というのは、山というほどでもない、小高い丘のような林のような、そんな場所だ。
小さいころの遊び場所で、りりぃを飼ってからは散歩に連れていくコースでもあった。
近所の主婦がコウを見て、声をかける。
「やっぱり、東京にいるとあかぬけるねぇ」
「なに言ってんのよ、ぜんぜんダメだよ、あたしなんか」
謙遜はしたけれど、そうなんだろうなと思った。
お洒落というのではなく、そこそこいいものを何でもなく着るようにはなっている。
そんなに田舎でもないと思うが、地元にいるとなかなかそうはなれないのだ。
たまに『市内』に行って購入してきた服を、晴れ着のように着る感覚になる。
(いま以上には、ひらけないよねぇ)
(あたし、東京の子になったのかな? どうしてもなりたかったってわけじゃ、ないよね……)
ジロウは『マーサ』のカウンターで客の側に座っていた。
彼は、もともとはヨウジたちと仕事をしていた場所で中華バーを経営している。
「マーサで仕事してるから、たまに来れば」とヨウジが電話をくれたのだ。
お互いに忙しく働いているので、最近は話もしていなかった。
「じゃあ、あとで寄ってみるかも」とジロウは答えた。
妻のサキが「男の人同士のつき合いも大切なのでしょ」と送り出してくれた。
「外に飲みに出るってことも、あまりないですもんね」
「ああ……たまにはいいだろ」
カウンターにヨウジが立っていて自分が向かい合っているというのは、ジロウの記憶にない。
ヨウジにそう言って「たぶん初めてですよ」とつけ加えた。
「そういや、そうかもしんないな……玲ちゃん、元気か」
ジロウの娘の名前だ。
「元気どころじゃないですよ、走り回ってますから」
ヨウジにもほとんど同じころ産まれた娘がいて、いろいろな事情で離れている。
だからヨウジに振られなければ、ジロウは子どもの話をしない。
「そうか、こんど遊びに行かせてもらおうかな」
テーブル席を片付けおわった明子が声をかける。
「ほかのお客も帰ったし、こっちに出てきて一緒に飲めば」
「いや、せっかくだし、なんか新鮮だから、これでいいよ……何を飲まれますか」
「おれ、相変わらず強くないですから……なんか軽めのを」
「そうですねえ」
明子が吹き出している。
「男二人で何やってるのよ」
ホワイト・ラムとレモンジュースに、ジンジャーエールを加えてステアする。
あらためて見るのも初めてのような気がするが、ヨウジの手つきは鮮やかだ。
「ボストン・クーラー」
「どうも」
カクテルというのは不思議だ。
アメリカで禁酒法が敷かれていた時代に、質の悪い密造酒を飲みやすくするために開発されたという。
しかし、混ぜ物だらけの濁った酒という感じはしない。
もちろん作り手にもよるが、水よりも澄んでいて、氷より冷たくなくてはいけない。
「……うん、うまいです」
「あたしはカミカゼ」
明子がジロウの隣に座った。
「それって、酒の名前ですか」
「あんたもお酒を出す店やってんだから、少し勉強しなさい……むかし流行ったカクテル」
「なんか、明子さんに合ってますねえ」
「そう、あたしはカミカゼ、あんたんとこはレディー・ドラゴン」
「へへ」
「そういう名前のカクテル、あったっけ」
明子に問われて、ヨウジは顔をあげ、頭のなかを追った。
「なんとかレディーっていうのは何種類かあるけど、ドラゴンはないかな……」
「こんど造ってみてくださいよ」
「そうだな……コウちゃんに頼んでみたらいいんじゃないかな、あの子、センスあるよ」
「行け、コウ、行ってやれ」
「でも」
いくらか元気を取り戻したりりぃが、立ち上がって散歩に行きたそうにする。
「また具合悪くなっちゃってさ、あたしのせいだったらいやじゃない」
「りりぃはおまえと行きたいんだ、行ってやれ」
おとなしい父親が、めずらしく強く促す。
「じゃあ……行けるとこまで行ってみようか、ねぇ、りりぃ」
年老いた犬は、眼を輝かせて尻尾を振っている。
コウは、きのうは一人で歩いた裏の山に、りりぃを連れて向かった。
「動けなくなったら、携帯でおれを呼べばいいからな」
父親は、コウとりりぃを見送っている。
(一緒に行けばいいじゃん? あたしとりりぃ二人にしたいのかな)
走り出しそうになるりりぃを抑えながら、ゆっくりと坂を上っていった。
頂上というかんじはしないのだが、少し林を切り開いて整備した広場に出る。
コウはりりぃの背中を撫でて座らせた。
「ごくろうさん……お休みしようね」
自分も膝をかかえて座り、りりぃと向かい合った。
「まだまだ大丈夫だよねぇ」
後ろに手をついて、空を見上げた。
秋の空は淡いけれど深い蒼で、どこまでも高い。
東京よりずっと空気が澄んでいるから、なおのことだ。
しばらくそうやって空を見ていた。
視線を戻すと、りりぃは揃えた前脚の上に顎をのせて眼を閉じている。
「やっぱり、疲れちゃったね」
コウはりりぃの背中に手を当てて、呼吸を確かめた。
(大丈夫、大丈夫……)
ずっと涙が溢れていた。
悲しいことは、なにもない。
コウは、流れるままにしておいた。




