5 Long distance call
ヨウジは開店前の『マーサ』のカウンターに立っている。
自分のやっている麺屋、新しく準備しているバー、あちこち動いているが今日はこの店のママで妻の明子に呼ばれた。
以前、仕込みを手伝っていた時期もあったがバーテンダーとして入るのは初めてだ。
まだお客が来る前に、シェーカーやグラスの位置を確認している。
(きれいに片づいてる、やっぱり女の子は感覚が違うのかな……)
最初はここへ同業者として、客として来ていて、ユカリという女性に会った。
いろいろとあって、いま彼女はカリフォルニアにいる。
ヨウジとの間に生まれた子どもを育てて暮らしている。
さまざまな事情があって、彼女と結婚することはできなかった。
ヨウジ自身は『マーサ』を経営している明子と生活を共にするようになった。
誰か他人に説明するとしたらそういう話になるだろうか。
からだをあずけるようにして重い扉を開け、明子が入ってきた。
「急にごめんなさい、あんたしかヘルプ頼む人いなくて」
「お疲れ」
明子は、化粧など身支度は済ませてきたようだ。
コートとバッグをクローゼットに置きに行った。
その背中にむかってヨウジは話をつづける。
「新店ができるまではカラダ空いてて、よかったよ」
「本当にそうだよ、たぶん三・四日だと思うんだけど」
「コウちゃんが急に休むなんてめずらしいな」
「初めてじゃないかな? 詳しくは訊かなかったけど身内の不幸とかみたい」
コウは新幹線に乗っていた。
実家のある中部の地方都市に向かっている。
母親から電話があったのは昨夜だった。
りりぃがねえ、もうだめかもしれない、あんた一度、顔を見にくる?
コウが小学生の時に実家で飼いだした犬の名前だ。
近いうちに帰ろうかなとは思ってたんだ……そうだねえ、会社に訊いとくよ。
水商売をしていることは、両親には報告していなかった。
縫製の会社を辞めて派遣社員をしている、残業が多い業種だと説明していた。
だから、会社にことわっておくと母親には言って……次の日、明子に頼んで休みをもらうつもりだった。
そう急なことではなく、来週か、その次くらいに考えていた。
けさ起きたら気が変わったというか、いつのまにか明子に電話をかけていた。
自分はそういうふうに気まぐれで動く性格ではない。
そう思って、何年も生きてきたのだけれど……。
ちょっと実家に帰らなきゃならない用事があって……すみませんが今日から二・三日いいですか?
明子はそういう時に細かい事情を詮索することはない。
ふだん真面目に勤めているコウが言うのだから、それなりのことなのだろうと判断した。
わかった、何日かだったらうちの人にヘルプしてもらうから……戻ってこれる日にちがわかったらまた連絡してね。
(うちの人、うちの人、うちの人……)
明子の声が耳元に残っている。
(なんだかなぁ)
べつに最初から、自分には関係ないんだとコウは思った。
実家で待っているりりぃのことに、考えを移そうとした。
ある日、父親が家族に相談もせずシェパードの子犬を買ってきた。
なにか仕事関係の義理だったのではないだろうか。
小鳥や熱帯魚以外の大きな動物を飼うのは初めてだったから、最初は怖かった。
飼いだしてみるとコウに一番なついて、りりぃという名前もコウがつけた。
牝だと思っていたのはペットショップの手違いで、牡だったとあとでわかった。
変える気はしなくて、そのまま呼んでいた。
地元の短大を出て東京に来る時まで、ずっと一緒だった。
人間でいえばかなりの高齢だから、弱ってきたのはしかたがない。
定年になった父親が散歩に連れていこうとするが、動けないらしい。
(まだ)
(まだ、死なないよね)
(うちに帰って、りりぃが死ぬまでは一緒にいようかな……)
(田舎じゃ縫製の仕事もないかなぁ)
自分でもうすうすはわかっているのだが、気持ちが逃げている。
仕事から、恋愛から、自分自身から。
(そう言ったって、レンアイにも何にもなってないけど)
(ヨウジさんとは、ただ一緒にいると落ち着くなと感じただけで)
(ほかに誰か見つけようかなとも思ったけど)
(無理に恋愛とか結婚とか……したいわけじゃないし)
もう三十歳になるまで何年もないのに、自分は幼いのかなと思った。
男性とつき合ったことがないわけではない。
初めてそういう仲になったのは、コウをおまえ呼ばわりして買い物を言いつけるような男だった。
一度でも寝たら自分の女だと決めていたのだろうか。
年齢に関係なく、そういう面で驚くほど古風というか横暴な男は多い。
(だから、正反対のヨウジさんに惹かれちゃったかもなぁ)
(いま思うと、あの男も幼稚っていうか、かわいいもんだったけどね)
コウはひとりで苦笑いをうかべた。
わざと悪ぶっているようで、自分でもおかしい。
もうすぐ駅に着く。
そこから乗り換えて、またクルマに乗って、実家まではけっこう遠い。
(とにかく、りりぃの顔を見て、二・三日うちにいて……その間はなにも考えないでいよう)




