4 経営者ヨウジ
ヨウジは週に二回、自分が経営している店の厨房に入ることにしていた。
ずっと一緒に仕事をしていたジロウと共同開発した、オリジナル麺の店だ。
調理は雇っている人間にまかせているのだが、長い間ほうっておくと作っている人間の癖がついて、味や食感が変わってしまう。
それをチェックしに来る。
ふだんは、もともと本職だったカクテルの店を別の場所に出そうとしていて、その準備をしたりしている。
(いっぱしの実業家だね)
妻の明子に言われた。
(あたしは、男の人には無理しなきゃいけない時もあると思ってる)
ヨウジは神妙に聞いた。
(だから、おおいに無理しなさい、でも)
(でも……何だよ)
(あんまり心配させても、ダメだからね)
(そりゃ、難しすぎるよ)
開店の時から雇っていた人間を店長に昇格させていた。
ヨウジより四つ年上で、技術も性格もしっかりしていて信頼できる。
(マツダさんにまかせとけば、もうチェックの必要もないかな……)
そう考えることもあるが、けじめもあって店に出ることにしていた。
あとは見習いの若い職人と、交替で数人のウェイトレスを雇っている。
大繁盛とまではいかないが、黒字にはなっている。
厨房の様子に目を配っていたヨウジの視線が、見習いのケンタの手元で止まる。
ヨウジが口を開く前に、マツダが彼の横に立った。
「おまえ、何してるんだ」
「何って、麺を茹でて」
「注文が来てないのに麺を茹でてどうするんだ」
「いま暇だから先にやっとけば、油かけてもどすから一緒じゃないすか」
そういう製法なのだが、作り置きでは味が変わってしまう。
「誰がそんなこと指示したんだよ」
温厚なマツダだが、味に関わることだから当然厳しい。
仕事の上では、口調が荒くなることもある。
「オレはただ、気を利かせたつもりで……」
「口答えしていいって誰が言った」
そこでヨウジが口を挟むことにした。
「なあ、ケンタくん、うちは何も堅苦しいことはいわないけど」
まだ二十歳をひとつかふたつ越えたばかりのケンタは、一文字に口を結んでうつむいている。
「ひとつは清潔にすること、これはできてるな」
「当たり前です」マツダのほうが答える。
「もうひとつ、麺の製法と手順、これだけは守ってほしいんだ、うちみたいな小さな店はほかに何も取り柄がないんでね」
「ほら、社長のおっしゃる通りだろう」
社長と呼ばれるのはまだ慣れない。
くすぐったくて苦笑いが出そうになるが、明子によく忠告される。
(あんたが堂々としてないと、相手のほうが居心地悪くなるんだからね……)
「すいませんでした」
ケンタは頭を下げて、茹でていた麺をダスターに捨てた。
ヨウジは後片付けまで手伝っていくつもりだったが、マツダが固辞した。
「じゃあお言葉に甘えて、帰って伝票をやるよ、あと頼みます」
「お疲れさまでした」
「ケンタ、仕事はできるんでしょう?」
その日は早番で先にケンタを帰らせていた。
「うちが初めてじゃないし、のみこみは早いんですが……時々ああやって勝手に動くんで」
「いいとこを伸ばしてやってください……マツダさんに何もかもお願いして、申し訳ないんですけど」
「いえ、私の責任ですから、心得てます」
マツダの態度はまだ硬い。
もう少しうちとけてもいいが、それは徐々にでいいだろう。
ヨウジは手を振って店をあとにした。
「社長」
通りをひとつ隔てた角のところで、誰かに呼ばれた。
店以外でそう呼ばれることはほとんどないので、少し身構えた姿勢になる。
見ると、私服姿のケンタだった。
「なんだ、まだこんなところにいたのかい」
「きょうはどうもすみませんでした」
「そんなこと、店の中で済んでることなんだから気にするな」
「……社長、聞いてもらいたいことがあるんですけど」
店やマツダへの不満だろうか、ここで直に聞くべきか……忙しいからと言ってあらためたほうがいいか。
ヨウジはほんの一・二秒の間に、そんなことを考える。
少しは経営者が板についてきたようだ。
「うーん、なんだろう、長くかかるならまた別の日に聞くけど」
「こんど、ショットバーを始めるっていうじゃないですか」
「……ああ、おれはもともとそっちが専門なんでね」
「オレをそちらのほうで使ってもらえないでしょうか」
(まだ子どもなんだなあ)
そう思った。
ヨウジの都合を聞かずに、自分の用件を話し始めてしまう。
麺をつくる、バーで酒を出す、それ以前にもう少し大人になってもらわなければいけない。
さまざまな客が集まる酒場で働いてみたいのなら、なおさらだ。
それと、普通に考えて人事は『社長』の裁量なので、従業員が直訴するべきではない。
悪くとれば、小さな組織だからといって軽く見られていることになる。
(おれも、ずいぶんいろんなことを考えるようになったもんだ……)
「それは正直にいうと、まだわからない話なんだ。
とりあえず、いまの店で頑張っていてくれないかな、考えとくからさ」
ケンタはヨウジの言葉を聞いて、少し考え込んでいた。
大人に適当にはぐらかされたと感じているのかもしれない。
「じゃあ、おれ行くぞ、また落ち着いて話に来いよ」
「あっ、お疲れさまです、どうもすみませんでした」
ヨウジは、駅前のコーヒーショップに立ち寄った。
最近はひとりでぼうっとしている時間もそうないので、束の間の休憩だ。
(カネを回すだけで大変なのに、いろいろと用があるもんだ)
(ひとの教育まではできないな、一人前に、自分でなってもらわないと……)
(そこまで考えたことはなかった)
(疲れるけど、これが店を経営するっていうことか)
亡くなった『GG』のマスターの顔が浮かぶ。
気楽そうに見えていたけれど、あの人はすごく度量があったんだなと思う。
十分か、五分でいい、なにも考えないでいよう。
そう思った。
ぼんやりと通りの向こうを見ていたら、またケンタの姿が目に入った。
女の子と待ち合わせていたようだ。
(あれは……うちで雇っている優奈か)
アルバイトをしているウェイトレスのうちのひとりだ。
ふたりは連れ立って歩き始める。
(なんだ、女の子とつき合いだして、そば屋の見習いじゃかっこ悪いってか)
(若いやつはいいよな、気楽で)
そういうヨウジは、やっと三十一になったところだ。
帰ることにして、上野駅に浅草口から入る。
(待った?)
ぼうっと立っていたら後ろから、ユカリが、脇の下から顔を出すようにして現れた……。
この場所に染み込んでいる記憶のひとつ、明子と結婚する何年も前の話だ。
忙しさで思い出すこともなかったが、ちくりと胸の中が傷んだ。
(ここらへんじゃ、いろいろありすぎたから……)
思い出をたどることはせず、小走りにホームへ向かった。




