3 雨と微熱
ほんの少し雨が落ちて、見上げてみると歩道橋の上の街灯が水の軌跡を照らしている。
すぐにその数が増していき、暗くなりはじめた空を背景にして光る。
(こうやって見ると、東京もキレイだな)
そうサンジは思った。
青山の仕事が一段落して、つい最近まで別口の仕事で地方を回っていたのだ。
ある日の仕事のあと、接待というほどでもないが一軒だけあったフィリピンパブに連れて行かれ、ホステスたちからつまみの焼きおにぎりをねだられた。
(待機の間は飲み食いができないんだろうけど、ボランティアかっていうくらい食わせた、何やってんだろうな、おれ)
(渋谷なんて、ごみごみしてて好きじゃなかったが)
とりあえず夜になっても通りが明るくて、人が歩いているのはいい。
サンジは雨を避けてコーヒーショップに入り、ガム抜きのラテを飲んだ。
東京に戻ってきて、ひととおり馴染みの酒場に顔を出すと、もうすることがなかった。
職場ではより厳しい業務がはじまっていたが、それはなんとでもなる。
(べつに殺されるわけじゃなし、もっと忙しくなってもいい、余計なことを考えないように)
なにもないよりはいい。
ひところ、昔のことを思い出していた。
それはあまりに「人間的な」物語で……そればかりでは息がつまってしまう。
自分にとって大切な部分ではあるけれど、もうずいぶん遠い話になった。
凝り固まらずに、身の回りのものを生まれて初めてのように見ていたい。
ひとにはうまく説明できないが、サンジのもって生まれた性質のひとつだ。
(毎日見ているものだって、その何もかもをわかっているわけじゃないし)
(あなたは、もっとラクをしたほうがいいのよ)
誰か、女の人に言われた言葉だ。
(毎日毎日、そんなふうにものを見ていたんじゃ疲れるでしょう)
(あなたって毎分毎秒、違う人になっているみたいで怖いのよ)
自分は、自分のことしかわからない。
特別な人間だとも思っていない。
ただ、彼女にとって自分の存在がそれほど負担になるなら、悪いと思った。
(目の前にいつもあるものは、そんなものだと思っていればいいじゃない……)
正直、レイカの顔はよく憶えていなかった。
キレイだった印象はあるけれど、よく変わる表情のせいかはっきりとした像を結ばない、そういう種類の顔。
セールスではないほうの営業で呼ばれて、大きなラウンジのある店に来てみた。
すぐ目の前に立っていたのがレイカだった。
なにかその場所にはまり切れていない感じはする。
足下にあったカバンを持ち上げて歩き出そうとしていて、それはほかの客のものだった。
席につくと、背が百五十八にしてはひとつひとつが大きめな、きれいに揃った歯と薄い唇を見せて笑う。
紅いひらひらしたドレスを着ていて、話の内容はたよりない。
いろいろな客がいてタイヘンだというようなことを言うので、仕事だからしかたないじゃねえかと諭したら、もっとシットしてよと答えた。
まだこれで会うのが三回目なのに、なんでサンジが嫉妬すると思うのだろうか、まあいい。
長く伸びた白い腕をさすってみる。
学校で何をやってるんだ? 保母さんか、ピアノの先生になろうと思ってるんだ。
アーリータイムズをはんぶん空けていた。口が飽きたので、ソーダ割りにしてもらう。
いくらでも飲める……強いというか、感覚がなくなっているのだと思う。
ステージ上で女の子が交替で踊り、それを見ながら飲む形式の店だ。女の子が裸になるが、別になんとも思わない。
そういう店は好きではないが、知っているレイカがいるので、まあ楽しい。
考え方や話し方は少し奇妙だが、適当に軽く性的で、まあまあ普通の女の子。
自分が惚れて夢中になる相手ではないのかもしれないが、そうがつがつしていなければ、長くつき合えるかもしれない。
そうやって少しずつ好きになっていくことも、時々はある。
(そんな遊び人のつもりはなかったんだけど、みんな行っちまうからか……)
二日後、きょうはレイカが水商売の店に出る日ではない。
「なんか食べにいくか」
食事だけして別れようと思った。
居酒屋とかわらないような気がするのだが、創作割烹という店に入った。
「メニューがいろいろあって好きなんだ」
「このすき焼き鍋、食べようか」
「お肉、太らない?」
おまえ、何も知らないんだな。
サラダとか冷たい食事をとっていれば痩せるってもんじゃないんだよ。
適当に熱や脂のあるものも食って、体内で燃焼させたほうがいいんだ。
要するにバランスの問題だけどな。
「へぇ、そういう勉強もするんだ」
「普通に生きてれば、自然と耳に入ってくるだろ、長年のうちには」
レイカのすらりと伸びた腕がテーブルの上を行き来する。
肉や刺身、野菜をとって口の中に入れていく。
(一緒にものを食べるのは恥ずかしいなんて女もいた)
(男女が食事を共にするとき、そこには性的な香りがしてどうとか書いてる作家もいたな)
自分はそこまで思わないが、あまり見過ぎないようにしようと考えた。
バーボンのソーダ割りを飲む。
レイカは服のこと、爪のこと、つぎに観ようと思っている映画のことを話す。
サンジは彼女のひとさし指のリングを見ている。
(あれって、ふだんの生活に邪魔じゃないのかな、いつもはしてないか)
話の内容は聞いていて、ときどきこちらの話もしたいと思うのだがなかなか入れない。
(月のプリマドンナ、草原のヴィオラ)
それは頭の中でメロディーがついて、歌になっていた。
彼女と話しているあいだ、ずっとそのリフレインが鳴っていた。
自分の話はほとんどできなかったけれど、これでよかったか。
クルマを拾ってやろうとしたが、まだ地下鉄があるからとレイカが断った。
レイカは「まっすぐ帰るんだよ」と言った。
「おれがそれ言われなきゃいけないのか?」
返事をするかわりに白い歯を見せて、彼女はサンジの視界から消えた。
(アリスの猫みたいだな)
『不思議の国のアリス』で「にやにや笑いだけ残して消える」とある。
若い女と過ごした時間の微かな熱だけが残った。
(JRでぐるっと廻って、ヨウジんとこ行くか)
言いつけを守る気はさらさらない。
(世界中の酒場が、締め出してくれるといいんだけどさ……)




