第8話:魔王城が会社すぎて嫌な記憶が蘇る
風が、止んでいた。
ホワイトは、その場に座り込んだまま、動けなかった。
石の道の上に、涙の跡が残っていた。レートとサビスが消えた空間を、ずっと見ていた。
「……レート」
声が、割れていた。
亮は何も言わなかった。コーポも、ノワールが立っていた場所を静かに見ていた。
闇の海の波が、打ち寄せた。
そのときだった。
突風が、吹いた。
前触れもなかった。ただ、強い風が一方向から吹いてきて、全員の髪と衣を揺らした。
闇の海の向こうから、何かが来た。
オーラだった。
黒いオーラが、波を割るように近づいてくる。その密度が、さっきのサビスとは比べ物にならなかった。空気が重い。息をするだけで、肺に圧力がかかるような感覚だ。
人影が、現れた。
サビスだった。
しかし、さっきのサビスではなかった。全身から溢れ出すオーラが、体の輪郭を曖昧にするほどだった。目が、赤く光っている。
「……まさか」
コーポが、声を漏らした。
「生きて……戻ってきた……?」
「ああ」
サビスが答えた。
その声は、落ち着いていた。さっきより、ずっと落ち着いていた。
「レートは無事だ。俺が転移した先に置いてきた」
ホワイトが顔を上げた。
「レートは……無事、なのか」
「ああ」
ホワイトの肩から、力が抜けた。
サビスは亮を見た。
「俺には、スキルがある」
静かな声だった。
「死ぬと、強くなる」
誰も言葉を返さなかった。
「爆発で死んだ。そして戻ってきた。今の俺は、さっきより遥かに強い」
サビスがゆっくりと前に出た。
「これならお前にも勝てる……!」
亮はサビスを見た。
確かに、さっきとは違う。オーラの圧力が、肌に触れるだけで分かる。
サビスが踏み込んだ。
拳が、亮の腹に叩き込まれた。
「…………」
亮は、下を見た。
「……ちょっと痒いんだけど」
サビスの顔が、歪んだ。
「なぜだ……これだけの力で……!」
「痒い、というか、くすぐったい感じですね」
「くすぐったい……!?」
サビスが連続で拳を叩き込んだ。亮は特に避けもせず、ただそこに立っていた。
「……うーん」
亮は少し考えた。
やめてほしい、と思った。くすぐったいのは、あまり好きではなかった。
亮は右手を、ゆるく横に振った。
サビスの体が、吹き飛んだ。
今度は闇の海の方向ではなく、崖の上、空の方向へ。弧を描いて飛んでいって、遠くの荒野に落ちた。土煙が、遠く上がった。
「……」
そのとき、空が変わった。
魔王城の方向から、黒い雲が広がってきた。さっきまでの赤みがかった空が、みるみるうちに覆われていく。雷が走った。低い唸りのような音が、遠くから響いてきた。
「……魔王が、動き出した」
コーポが、静かに言った。
ホワイトが立ち上がった。膝の汚れを払って、剣の柄に手をかけた。
「行くぞ」
誰も異論を言わなかった。
魔王城への道は、《搾取玉》が開いた通路を渡ることで続いていた。
城門をくぐった瞬間、全員の足が重くなった。
城の中は、予想と違った。
石造りの廊下ではなく、どこかで見たような光景だった。蛍光灯の光。整然と並んだ机。積み上げられた書類の山。壁には「目標達成率」と書かれた巨大な表が貼られていた。数字の列が、床から天井まで続いている。
「……なんだここ」
亮はつぶやいた。
「魔王城です」
「……どう見ても会社じゃないですか」
「魔界のブラック企業、とでも言うべき場所です」
コーポが淡々と答えた。
廊下の奥から、魔王兵が走ってきた。大量だった。甲冑を着ているが、全員が書類の束を抱えている。目の下にクマがある。肩が落ちている。
「侵入者ゾス!!」
「排除するゾス!!」
魔王兵たちが突進してきた。
亮は歩き続けた。
魔王兵が、次々と吹き飛んだ。亮がすれ違うたびに、なぜか全員が壁に叩きつけられて動かなくなった。亮は特に何もしていなかった。ただ歩いていただけだった。
「……」
ホワイトが立ち止まった。
「佐藤さん、何かしましたか」
「いや、何も」
「何もしてないのに……」
「歩いたら吹き飛びました」
「……」
コーポが、ホワイトに小声で言った。
「この人、世界の理を壊してない?」
「……俺もそう思ってた」
ホワイトが小声で返した。
亮は気づいていなかった。
廊下を進むにつれて、書類の量が増えていった。壁も床も天井も、書類で埋め尽くされている箇所があった。ファイルの背表紙に「残業申請却下」「有給消化禁止通達」「ノルマ未達成始末書」と書かれていた。
「……」
亮は黙って歩き続けた。
やがて、巨大な扉の前に出た。
黒い扉だった。高さは十メートルを超えている。表面に魔法陣のような紋様が刻まれていて、鈍い赤い光を放っている。重さだけで、人を押しつぶすような圧迫感があった。
扉が、ゆっくりと開いた。
内側から、開いた。
広い部屋だった。
天井が見えないほど高い。床は黒い石で、足音が大きく反響する。奥に、一脚の椅子があった。椅子の背もたれが、まるでマントのように広がっている。
その椅子に、一人の人物が座っていた。
黒いスーツ。目は赤く光っている。立っていないのに、ただそこにいるだけで、空気が変わった。
その人物が、ゆっくりと立ち上がった。
「来たか」
低い声だった。落ち着いていた。怒鳴らない。ただ静かに、しかし確かな重さを持った声だった。
「エターナル・ブラック・カン・パーニ」
魔王が、名乗った。
それからゆっくりと亮を見た。
亮の金色の髪を、じっと見た。
「貴様……その金髪……」
わずかに、目が細くなった。
「まさか伝説の……"超残業戦士"か……!」
亮は少し考えた。
「……超残業戦士って何ですか」
「……知らぬのか」
「知らないです」
魔王が、また黙った。
ホワイトが剣を抜いた。コーポが杖を構えた。
亮は魔王を見た。
魔王は亮を見た。
お互いに、何も言わなかった。
しばらくの沈黙の後、亮はぼそりとつぶやいた。
「……早く終わらせて、寝たいんですけど」
魔王の目が、かすかに動いた。




