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第9話:社畜、魔王との最終決戦で“転職”を選ぶ

 魔王が、立ち上がった。


 その動作は静かだった。怒鳴りもせず、叫びもせず、ただゆっくりと椅子から離れて、亮たちの前に立った。それだけなのに、部屋の空気が変わった。石の床が、かすかに沈んだ気がした。


「来たか」


 低い声だった。


「我はエターナル・ブラック・カン・パーニ。……貴様か」


 魔王の赤い目が、亮の金色の髪を見た。ただ見た、というだけで、その視線には重さがあった。風が止む前の、静電気のような感覚が肌を走った。


「貴様も……《残業散過服オーバードライブ》の持ち主か」


 亮は少し首を傾けた。


「……知ってるんですか」


「知っているとも。これが、そうだ」


 魔王はネクタイを緩めた。黒いスーツの前が、わずかに開く。


「私も、持っている」


 コーポが息を呑んだ。


「……魔王も、《オーバードライブ》を……」


「驚くことではない。あれは、限界まで働き続けた者にだけ宿るスキルだ。我が魔界で休んだことがないなら、持っていて当然だろう」


 亮は一秒ほど黙った。


「……はあ」


 どうでもよさそうな返事だった。


 ホワイトが前に出た。


「魔王! お前の行いも今日で終わりだ! 世界に闇を撒き散らし、人々を苦しめた罪……ここで償わせる!」


「償う」


 魔王はゆっくりと繰り返した。


「……苦しめた、か。私は彼らに、働く機会を与えてきた。それの何が罪だ」


「それを苦しめると言うんだ!」


「違う」


 静かな声だった。静かなのに、ホワイトの声が止まった。


「働くことは尊い。仕事とは使命だ。夢だ。それを理解できない者が、休息などという概念に逃げ込む。私はただ、世界にその真理を教えてきた」


「……真理じゃない」


 亮が言った。


 全員が、亮を見た。魔王も見た。


「……何?」


「それ、真理じゃないですよ」


 亮の声は、平坦だった。怒ってもいない。熱くもない。ただそう思った、というだけの声だった。


「仕事が夢だとか使命だとか、それは分かる。でも使命のために人が壊れたら、何のための使命なんですか」


「壊れる者は、元から弱い。強くなれなかった者の末路だ」


「……そうですね」


 亮は、少し間を置いた。


「自分もそう思ってました。ずっと」


 魔王は何も言わなかった。


「弱いから疲れる。弱いから休みたくなる。弱いから、続けられない。ずっとそう思って、そのまま死にかけてました」


 石の床に、静寂が落ちた。


「……それで」


 魔王が、かすかに口を開いた。


「それで、お前は何を言いたい」


「別に何も」


 亮はため息をついた。


「ただ、もうそれでいいかなって、今は思ってないというか」


 魔王は、しばらく亮を見ていた。


 その後、ゆっくりと目を細めた。


「……続きは、体で語り合おう」


 魔王が、気を解放した。



 それは、音として来た。


 どん、という衝撃が、空気を伝わって全身に叩きつけられた。音ではない。圧力だ。魔王の体から溢れ出した黒いオーラが、波のように広間を満たした。


 ホワイトが、吹き飛んだ。


 コーポが、壁に叩きつけられた。


 二人同時に、石の壁に体をぶつけ、そのまま動かなくなった。


「ホワイト! コーポ!」


 亮は叫んだ、わけではなかった。ただ、名前を呼んだ。それだけだった。


 気の奔流の中で、亮の道着が揺れた。


 ぴり、と音がした。


 肩の布が、裂けた。


 《残業散過服オーバードライブ》が、反応した。


 体の内側から、熱が来た。静かに、しかし確かに。金色の光が皮膚を透かして漏れ出してくる。


 亮を中心に、空気が揺れた。


 広間の石壁に亀裂が走った。天井から塵が落ちた。足元の床が、ひびを入れながら陥没した。


「……ほう」


 魔王が、かすかに目を細めた。


「それがお前の《オーバードライブ》か。なるほど……なるほどな」


 次の瞬間、亮の気の奔流が魔王の腕を掠め――スーツの袖が、一部破れた。


 それとほぼ同時に、魔王の体から溢れるオーラの量が変わった。増えた。さっきより、明らかに密度が違う。空気の重さが、段違いになった。


「……スーツが破けると強くなるんですか」


「お前と同じだ」


 亮は少し考えた。


「……仕組みが同じなんですね」


「そうだ。破けるたびに仕事力が上がる。私はこの魔界で、何千回も何万回も」


 魔王は言葉を切った。


「……何万回も、このスーツを着て、働いてきた」


 その声は、静かだった。感情が薄い。ただ事実として言っている。


「一度も休まなかった。だからこそ、今ここに立っている」


 亮は、何も言わなかった。


 かわりに、少し右手を上げた。


 握ってもいない。力を込めてもいない。ただ、上げた。


 それだけで、広間の空気が鳴った。


 魔王が、動いた。


 黒いオーラが、一気に膨れ上がった。答えの代わりだった。言葉ではなく、力で返してきた。波のような圧力が広間を走り、亮の道着を直撃した。


 どぉ、と鈍い音がした。


 亮の道着の肩が、大きく裂けた。


 《残業散過服オーバードライブが、反応した。


 体の内側から熱が来た。さっきより深いところから来た。金色の光が皮膚を透かして溢れ出し、亮を中心に空気が爆ぜた。


 その気の奔流が、広間を一瞬で満たした。


 どん、と音がした。


 魔王のスーツが、また一枚、袖ごと剥がれた。


 魔王の体から、先ほどとは段違いのオーラが溢れ出した。広間の壁が、ひびを入れながら外側に向かって膨れた。天井の石が剥がれて落ちてきた。


 そのオーラが、亮の道着を直撃した。


 どぉ、と鈍い音がした。


 亮の道着の胸元が、大きく裂けた。


 亮の体から、光が弾けた。


 金色だった。しかし今までの金色とは違う。もっと鋭く、もっと密度が高い。太陽が真下から照りつけるような、正面から目を向けられない光だった。


 魔王のスーツが、また一部、弾け飛んだ。


 魔王の仕事力が上がった。


 その波が、亮の道着を掠めた。


 道着が裂けた。


 亮の光が増した。


 魔王のスーツが破けた。


 魔王の力が上がった。


 亮の道着が裂けた。


 共鳴が、始まった。



 亮の道着が破ける。


 魔王のスーツが破ける。


 道着が破ける。スーツが破ける。道着が破ける。スーツが破ける。


 もはや音が追いつかなかった。光と衝撃が交互に弾けて、広間の壁が消えた。天井が消えた。魔王城そのものが、ひびを入れながら崩れていった。


 二人のオーラが、空に向かって伸び始めた。


「……世界が」


 ホワイトが、石の瓦礫の中から顔を上げた。


「世界が……揺れてる……!」


「佐藤さん……!」


 コーポが立ち上がろうとして、また壁に押しつけられた。二人のオーラが作り出す圧力が強すぎて、立っていられなかった。


「このままでは……!」


 コーポの声が変わった。普段の落ち着きが消えて、かすかに焦りが滲んでいた。


「二人のオーラが臨界に達すれば……特異点が生じる……! ブラックホールが……!」


 ホワイトが目を見開いた。


「ブラックホール……?」


「重力崩壊が起きる……! このままでは世界が……!」


 その言葉が聞こえたのか聞こえていないのか、亮はただ正面を見ていた。魔王も、ただ正面を見ていた。



 空気が変わった。


 引き寄せられ始めた。


 最初は小さな変化だった。広間に落ちていた石の欠片が、亮と魔王の間に向かって滑り出した。次に、壁に立てかけていたコーポの杖が宙に浮いた。ホワイトのマントが、一方向に激しくなびいた。


 それから、もっと遠くのものが来た。


 書類が飛んできた。


 山積みにされていた書類の束が、白い瀑布のように二人に向かって降り注いだ。算盤が転がってきた。荷物を積んだ馬車が、道ごと引き摺られてきた。遠くの街の屋台が、食べ物ごと宙に浮いて流れてきた。農夫が畑に押し付けていた鍬が、空を切り裂いて飛んできた。


 世界中の仕事が、引き寄せられていた。


「世界が……壊れる……!」


 ホワイトの声が、震えていた。


「どうすれば……どうすれば止まる……!」


 答えられる者は、誰もいなかった。



 その中で、亮の手に、何かが触れた。


 書類だった。


 大量に飛び交う書類の中の、一枚だった。


 触れた瞬間、亮は少し、動きを止めた。


 何か、違う感触だった。


 書類を見た。


 すり切れた紙で、文字が薄くなっている。でも読めた。仕事の内容が書いてあった。どこかの誰かが、毎日やっていた仕事の記録らしかった。


 なんでそれを見た瞬間、そう思ったのか、自分でも分からなかった。


 でも、思った。


 ──これ、やってみたい。


 それは、今まで一度も感じたことのない感覚だった。


 仕事とは、こなすものだった。ノルマを達成するためのものだった。上司に怒鳴られないためのものだった。生活費を稼ぐためのものだった。続けていれば慣れる、慣れれば楽になる、楽になったらまたノルマが上がる——それが仕事だと思っていた。


 やってみたい、などという感覚は、どこかに置いてきたものだと思っていた。


 亮は、その紙を握りしめた。


 頭の中で、何かが揺れた。


 古い記憶だった。


 子供の頃。あの頃は、なりたいものがあった。夢があった。「将来、何になりたいか」という問いに、迷わず答えられた。そのくらい、はっきりと、やりたいことがあった。


 いつから、なくなったのだろう。


 仕事は辛いものだと覚えた瞬間からか。残業が続いたあの夏からか。怒号の下で書類を処理し続けた夜からか。


 亮は、静かに目を閉じた。


 ──そうか。


 心の中で、誰かが言った。自分の声だった。


 ──俺、子供の頃、なりたい職業があった。


 仕事とは、確かに夢だったんだな。


 その瞬間、世界が変わった。



 ブラックホールが、消えた。


 音もなく、ただ、消えた。


 引き寄せられていた書類も、算盤も、馬車も、鍬も、全部が静かに降りてきた。落ちてきた、というより、そっと地面に戻ってきた、という感じだった。


 空が、変わった。


 魔王城の上に広がっていた黒い雲が、端から晴れていった。灰色が薄まって、青が見えてきた。本物の青だった。亮が日本にいた頃に、たまに空を見上げると見えた、あの青だった。


 ホワイトが、口を開けたまま空を見上げた。


 コーポが、静かに目を細めた。


 二人のオーラが、ゆっくりと収まっていった。


 その沈黙の中で、魔王が笑った。



「……ふははははは」


 低い笑い声だった。しかし今までとは違う。何かが溶けたような、少し体の力が抜けたような笑い声だった。


「仕事力の……質が変わったな」


 魔王は、亮を見た。


「闇の仕事力ではない。お前の中のものが、変わった」


 亮は何も言わなかった。


「久しぶりだ。久しぶりに……全力が出せそうだ」


 魔王のオーラが、また膨れ上がった。しかし今度は違った。黒いだけではなかった。深い黒の奥に、かすかに何か別の色が滲んでいた。


「お前は……24時間、戦えるか!!」


 その声は、広間に響いた。


 亮は、少しだけ間を置いた。


「……もう、戦わない」


 静かな声だった。


 魔王が、止まった。


「何?」


「戦わない」


 亮は、手に持っていた書類を見た。


「俺は……戻ったら、転職する」


 一瞬、静寂があった。


 それから、亮の体から、何かが放たれた。


 光でも、オーラでも、熱でも、衝撃でも、なかった。


 ただ、それは確かに放たれた。


 空気を変えるような、確かな意志だった。


 魔王の体が、揺れた。


「ぐ……」


 低い声が、漏れた。


「ふ……ぅ……」


 魔王の膝が、かすかに折れた。


 ゆっくりと、倒れていった。


 崩れるように、しかし静かに、魔王は石の床に片膝をついた。


「……ぐ」


 魔王は、口を開いた。


「ワシを倒しても……闇はまた訪れる……」


 かすれた声だった。しかし、落ち着いていた。


「お前は知らんであろう……ワシよりも大いなる黒……深き闇……深淵なるもの……」


 魔王は目を閉じた。


「シーホン・シュギーの……存在を……」


 その言葉を最後に、魔王の体が小さくなっていった。


 オーラが消えた。赤い目の光が薄れた。黒いスーツの皺が伸びて、ただの布になった。


 魔王は、眠るように静かになった。


 死んでいない。ただ、戦う力が尽きた、という感じだった。



 静寂が、広間に落ちた。


 それから、ホワイトが声を上げた。


「……世界が、救われた……!」


 震えていた。声だけでなく、体ごと震えていた。


「世界が……救われた……!!」


 その場に膝をついて、両手で顔を覆った。嗚咽が、石の床に落ちた。


 コーポが、静かに目を伏せた。


「……本当に、終わったのですね」


 その声も、微かに揺れていた。


 亮は、二人の様子を眺めた。


 特に何も言えなかった。


 手の中に、あの書類がまだあった。


 世界中から引き寄せられてきた、誰かの仕事の記録。


 亮はそれを丁寧に折って、スラックスのポケットに入れた。


 金色の光が、少しずつ、静かに引いていった。


 晴れた空が、広間の崩れた天井の隙間から差し込んでいた。


 亮は、その光の中で、少しだけ目を細めた。


「……まあ」


 つぶやいた。


「……いいか」


 それが今はなぜか、言い訳ではなく、本当にそう思えた。


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