第7話:裏切りの刃と、社畜の新たな覚醒
魔王の城が、見えた。
丘の上に立った瞬間、全員が足を止めた。
遠く、地平線の向こうに、それはそびえていた。黒い。ただ黒い。空の色より深い黒で、夜の闇にさえ輪郭がはっきりと浮かんでいる。尖塔がいくつもあり、頂点には赤い光が灯っている。近づく者を拒むような威圧感が、ここまで伝わってきた。
「……あれが魔王城か」
ホワイトが、静かな声で言った。
「はい」
コーポが答えた。
「ただし、直接向かうことはできません」
「何かあるのか」
「あれを見てください」
コーポが、城の手前を指した。
城と丘の間に、黒い海が広がっていた。
海、と呼ぶには異質だった。水ではなく、黒い靄のようなものが液体のように揺れている。波が立つたびに、暗い光が滲んだ。底は見えない。触れたら何が起きるか、想像したくなかった。
「闇の海です。あれを越えなければ、魔王城には辿り着けません」
「越える方法は?」
「……実は、持っています」
ホワイトが懐に手を入れた。
取り出したのは、小さな玉だった。
握りこぶしほどの大きさで、表面が鈍く光っている。赤みがかった、くすんだ光だ。何かが内側で渦巻いているような、重たい輝きだった。
「《搾取玉》です」
「搾取玉」
亮は繰り返した。
「世界中の人々から搾り取られた労働エネルギーが凝縮されたものです。これを闇の海に投じることで、道が開けると言い伝えられています」
「……ずいぶんと物騒な名前ですね」
「そうですね」
コーポが淡々と答えた。
亮は搾取玉を眺めた。何か言いたいことがあったが、言葉にするのが面倒になってやめた。
「まあ、行きましょうか」
全員が、崖の縁に向かって歩き出した。
──闇の海の縁は、冷たかった。
風もないのに、体の芯から冷えてくる。波が打ち寄せるたびに、黒い靄が足元に絡みつくような感覚がある。
ホワイトが《搾取玉》を両手で持ち、天へと掲げた。
風が、止んだ。
玉の内側で、赤い光が揺れている。世界中から搾り取られた何かが、その小さな球体に凝縮されている。誰も喋らなかった。ただ、その光を見ていた。
光が、だんだんと強くなっていった。
最初は鈍い赤みだったものが、次第に深みを増していく。玉が微かに振動している。波のように脈打つたびに、闇の海の表面が応えるように揺れた。まるで、呼応しているようだった。
どれほどそうしていたか。
「あのー……まだかかりそうですかねー?」
痺れを切らした亮が尋ねると、ホワイトは辛そうに笑顔を浮かべる。
「はい! もう少しかかります!」
「そ……そうですか」
亮は暇つぶしに、その道の端を覗き込んだ。
深い。どこまでも深い。黒い靄が渦を巻いていて、底が全く見えなかった。思わず身を乗り出すと、めまいのような感覚が来た。
亮は少し後ろに下がろうとした。
そのとき、ノワールが動いた。
ホワイトの背後に、剣が迫っていた。
誰も、気づいていなかった。コーポは道の先を見ていた。レートは足元を確認していた。ホワイトは前を向いていた。
亮だけが、偶然、振り返った。
振り返ったというより、後ろに下がろうとしてバランスを崩した、というのが正確だった。
よろけた体が、ホワイトの方向に傾いた。
ノワールの剣が、ホワイトではなく、亮の道着を切り裂いた。
ざ、と音がした。
道着の胸元が、大きく裂けた。
「……佐藤さん!?」
ノワールが、息を呑んだ。
亮は自分の胸元を見た。道着が、深く裂けている。
「……また破けた」
亮はため息をついた。
しかし次の瞬間、何かが変わった。
体の内側から、熱が来た。
今までとは違う熱だった。《残業散過服》が反応するときの、あの静かな上昇ではない。もっと激しい。もっと深いところから来る熱だ。
「……ノワール」
ホワイトが、震える声で言った。
その隣で亮はブルブルと全身を震わせている。
「お前……なぜ……」
ノワールは答えなかった。
少しの間が、あった。
ゆっくりと、黒い鎧が剥がれ落ちた。その下から現れたのは、全く別の装束だった。魔王軍の紋章が刻まれた、暗い紫の衣だった。
「……俺の名前はサビスだ」
静かな声だった。
「サビス・ザンギョー・アビスロード。三天王その三。それが俺だ!ホワイト!」
「お前は……ずっと俺達を騙していたのか!?」
「ああ、隙を待っていた。お前たちが魔王城に近づけないよう——それが、俺の仕事だった」
「ノワール……お前は……ずっと……」
ホワイトが膝をついた。
その隣で亮はブルブルと全身を震わせている。
「……そんな……」
ホワイトの肩が震えていた。涙が、石の道に落ちた。
その時だ。
さきほどからブルブルと全身を震わせていた亮の体から、光が漏れ始めた。
金色だった。しかし今までの金色とは違う。もっと鋭く、もっと密度が高い。空気が震えるような圧力を持った光だった。
髪が逆立った。
金色の光が、さらに輝きを増した。これまでとは、明らかに違う。オーラが体の表面から溢れ出して、周囲の空気を揺らしている。闇の海の波が、その圧力に押されて後退した。
「……!」
コーポが後退りした。レートが目を覆った。ホワイトが、その光を正面から受けながら、動けなくなっていた。
「佐藤さん……アナタは……俺のために……」
サビスはその様子を一瞥して、また亮を見た。
「凄まじい仕事力だ……だが、驚きはしない。最初から……俺が勝てないのは分かっている」
静かな声だった。
「だから、こうする」
サビスの全身が、膨らみ始めた。
異様な膨張だった。体が、風船のように、内側から何かに押されるように広がっていく。全身から黒いオーラが溢れ出して、周囲の空気が歪んだ。
「触れたら爆発するぞ」
サビスが言った。
「あと1分……お前たちも道連れだ」
誰も動けなかった。
そのとき、レートが振り返った。
ホワイトを見た。
その目に、何かが宿っていた。
「……ホワイト様」
レートが、静かに言った。
「好きでしたわ」
「え……」
「ずっと、言えなかったんですけど」
レートは微笑んだ。
「今なら言えますわ」
「レート、何を──」
レートが呪文を唱えた。
ルーラ。
次の瞬間、レートとサビスの姿が、その場から消えた。
静寂が、落ちた。
ホワイトが、その場に崩れ落ちた。
「レート……! レート……!!」
声が、割れていた。
闇の海の波が、静かに打ち寄せた。
亮は、レートたちが消えた空間を見ていた。
何も言えなかった。
金色の光が、ゆっくりと、静かに収まっていった。
ホワイトの嗚咽だけが、闇の海の縁に響いていた。




