第40話 オッサン精霊、妻に異世界を打ち明ける
◇◇◇◇
目の前に止まった車の助手席へ近づき、扉を開けた。
「迎え、ありがとう」
「お疲れさま」
嫁さんが俺を見た。
その視線が、顔から服へ下がる。
最後に、包帯を巻かれた両腕で止まった。
「……何があったの?」
「いろいろあってな」
「送別会に行ったのよね?」
「ああ」
「何か、別の行事に参加したの?」
「いや。普通は店から出たら、家に帰る行事だよ」
「そうよね」
嫁さんの視線が、今度は俺の汚れた靴へ移る。
服からは、まだ焚火の臭いがする。
川へ落ちたあとで乾かしたせいか、ところどころ皺にもなっていた。
「転んだの?」
「転んだだけなら、説明が楽だったんだけどな」
「その腕は?」
「……帰ってから話すよ」
嫁さんは何か言いかけたが、前へ向き直った。
「分かったわ。乗って」
「ああ」
助手席へ座り、シートベルトを締めた。
車が静かに動き出す。
俺は窓の外を見た。
何から話せばいい。
アリスに呼ばれたこと。
異世界へ行っていること。
魔物と戦っていること。
本契約を結び、正式な眷属になったこと。
どれも、普通に聞けば酒に酔った男の作り話だ。
「結構、飲んだでしょう?」
運転しながら、嫁さんが聞いた。
「飲んだよ」
「まだ酔ってる?」
「川へ落ちたおかげで、だいぶ醒めた」
「……川へ落ちたの?」
「そこも、帰ってから話すよ」
嫁さんが、短く息を吐いた。
信号が赤に変わり、車が止まる。
「病院へ行かなくて大丈夫なの?」
「向こうで治療はしてもらった。骨は折れてない」
「向こう?」
しまった。
俺は口を閉じた。
嫁さんが横目でこちらを見る。
「帰ったら、最初から説明して」
「はい」
◇
家へ着き、俺は靴を脱いだ。
嫁さんは俺の服へ鼻を近づけ、眉を寄せる。
「お酒だけじゃないわね」
「ああ」
「土と、煙の臭いがする」
「よく分かるな」
「あなたが今まで、何度も似たような臭いで帰ってきたからよ」
泥。
獣の毛。
服に染みついた臭い。
そのたびに、何とかごまかしてきた。
自分でも、苦しい言い訳が増えているとは分かっていた。
「着替える前に、腕を見せて」
「包帯は外さないほうがいいと思うぞ」
「じゃあ、袖を上げて」
言われたとおりにする。
包帯の端から、赤黒い痣が見えていた。
嫁さんの顔が変わる。
「これを、転んだだけじゃないって言ったのね?」
「ああ」
「誰かに殴られた?」
「棍棒でな」
「誰に?」
「人じゃない」
嫁さんが黙った。
俺は居間へ入り、椅子へ腰を下ろした。
「今まで黙ってたことがあるんだ」
「やっぱり、何かあるのね」
「ああ。ただ、酔ってるから作り話を始めたわけじゃないぞ」
「それは、聞いてから決めるわ」
嫁さんが向かいへ座る。
俺は両手を膝の上へ置いた。
包帯が目に入る。
これを見せながら、もう何でもないとは言えなかった。
「俺、別の世界へ呼ばれてるんだ」
◇
嫁さんは、すぐには何も言わなかった。
俺の顔を見たまま、数秒ほど止まっている。
「……別の世界?」
「ああ。剣と魔法があって、ゴブリンや魔物がいる世界だよ」
「本気で言ってるの?」
「本気だ」
「お酒、どのくらい飲んだの?」
「だから、川へ落ちてだいぶ醒めたって」
「それで安心できると思う?」
「思わないねえ」
自分でも、説明の順番を間違えた気がする。
俺は息を吐き、最初から話すことにした。
「会社を辞めるって社長に伝えた日、仕事の帰りに突然呼ばれたんだ」
「誰に?」
「アリスっていう、召喚士の女の子だよ」
「女の子?」
「15歳。この世界じゃ成人らしいけど、俺から見れば子供だな」
嫁さんの目が少し細くなった。
「その15歳の女の子と、あなたが?」
「待て待て。変な意味はないぞ」
「私はまだ、何も言ってないわよ」
「顔が聞いてたよ」
嫁さんは腕を組んだ。
「続けて」
「ああ」
俺は、アリスに召喚された最初の日から話した。
ゴブリンと戦っている最中に、なぜか俺が呼び出されたこと。
アリスが俺を高位の精霊だと思っていたこと。
俺が人間だと分かってからも、召喚の契約だけは続いたこと。
日本へ戻ったあと、こちらでは数分しか経っていなかったこと。
「じゃあ、今まで泥だらけで帰ってきたのも?」
「向こうで転んだり、魔物を運んだりしたせいだよ」
「獣臭がしたのは?」
「猪みたいな魔物を担いだ」
「じゃあ、寝室に置いてあった、あの革の胸当ては?」
「ああ。あれも向こうの世界で使ってる防具だよ」
嫁さんが額へ手を当てた。
「今までの変なことが、全部つながっていくわね……」
「信じるのか?」
「まだ全部は信じてないわ。でも、今までより説明は合ってる」
「そうだよなあ」
嘘のような本当の話が、苦しい言い訳より筋が通ってしまったらしい。
◇
「それで、今日は何があったの?」
「フォレストオーガっていう魔物が、村を襲ったんだ」
「オーガ?」
「人間の倍くらいある、森に住む巨人みたいなやつだよ。家畜を奪って、村人にも怪我をさせた」
「あなたが戦ったの?」
「俺が呼ばれたときには、アリスがそいつに崖まで追い詰められてた」
巨大な棍棒。
背後の崖。
逃げ場を失ったアリス。
俺は、あのときのことを順に説明した。
「その棍棒を、腕で受けたの?」
「ああ。避けたら、後ろのアリスに当たりそうだったからな」
「それで、どうやって逃げたの?」
「アリスを抱えて、崖から川へ飛び込んだ」
嫁さんは、しばらく動かなかった。
「あなた、死にたいの?」
「生きるために飛び込んだんだよ」
「ほかに方法はなかったの?」
「あのときは、なかったと思う」
「思う、じゃないでしょう」
「いや、本当に時間がなくてな……」
嫁さんが大きく息を吐いた。
怒っている。
だが、その奥に心配があるのも分かった。
「それで、洞窟で一晩過ごした。向こうではな」
「こちらでは、数分だったのに?」
「ああ。時間の流れが違うんだよ。いつも同じ差なのかは、まだ分からないけどな」
「その間、私は迎えに向かってたのね」
「そういうことになる」
「私は数分。あなたは一晩……」
「不思議だろ?」
「不思議で済ませていい話なのか、分からないわ」
「俺にも分からんよ」
◇
「本契約っていうのは?」
嫁さんが尋ねた。
「最初は、アリスの魔力で俺を向こうへ留めてたんだ。魔力が減ると、俺は日本へ戻ってきた」
「今は違うの?」
「ああ。正式な契約を結んで、俺がアリスの眷属になった」
「眷属?」
「召喚主に仕える者、みたいな意味だな」
「つまり、その子が雇い主で、あなたが契約社員みたいなもの?」
「会社にたとえるなら、そんな感じかな。ただし、命令に絶対従わなきゃならない関係じゃないよ」
「会社を辞めて、異世界で再就職していたのね」
「そう言われると、ずいぶん計画的に聞こえるな」
嫁さんが、もう一度額へ手を当てた。
「51歳で、15歳の女の子の契約社員になったの?」
「だから、その言い方だと、妙な感じになるんだよ」
「どういう契約なの?」
「相手の意思を奪ったり、命令を強制したりする契約じゃない。嫌なことは断れるし、自分の意思で日本へ帰れるようにもなった」
「今まで帰る時間も、自分で決められなかったの?」
「ああ。アリスの魔力が減るまで帰れなかった」
嫁さんの顔が、さらに険しくなった。
「どうして、それを今まで黙ってたの?」
来ると思っていた質問だった。
「信じてもらえないと思ったんだよ」
「それだけ?」
「心配をかけたくなかったのもある」
「黙ったまま怪我をして帰ってくるほうが、心配するわよ」
「……そのとおりだな」
「何度も泥だらけになって、獣の毛までつけて帰ってきて。それでも何でもないって言われるほうが、嫌よ」
「ああ。悪かった」
言い訳をせず、頭を下げた。
「これからは、ちゃんと話すよ」
嫁さんはすぐには答えなかった。
俺の包帯を見て、それから顔へ視線を戻す。
「そのアリスって子は、あなたにとってどういう子なの?」
「一緒に仕事をする相棒だよ。それと……娘みたいなもんかな」
「あなたに娘はいないでしょう」
「向こうでも同じことを言ったよ」
「本人に言ったの?」
「ああ」
「何て?」
「私は大人の女だって返された」
嫁さんの眉が上がった。
「そのあと、魅力がないのかって聞かれた」
「あなた、何て答えたの?」
「答えに困ってたら、冗談だって笑われたよ」
「……ずいぶん懐かれてるのね」
「そうかもしれないな」
嫁さんは少し黙った。
「アリスは、幼いころに両親を亡くしてる。俺のことを、父親みたいに感じてるのかもしれない」
「それで、放っておけないのね」
「ああ」
嫁さんが、小さく息を吐いた。
さっきまでより、少しだけ表情が柔らかくなっていた。
◇
「これから、どうするつもり?」
「フォレストオーガを倒すのに協力する」
「その腕で?」
「今すぐじゃないよ。向こうの冒険者にも、準備してからだって言ってきた」
「行かないという選択は?」
「あるよ」
「でも、行くのね」
「ああ」
俺は、正直にうなずいた。
「村には、また襲われるかもしれない人がいる。アリスも再討伐に参加すると思う。俺だけ知らないふりはできないよ」
嫁さんは俺を見ていた。
やがて、諦めたように肩の力を抜く。
「止めても行くんでしょうね」
「ごめんな」
「謝るくらいなら、無事に帰ってきて」
「ああ」
「それと、いくつか約束して」
「何だ?」
嫁さんが指を折る。
「運転中は、絶対に行かない」
「分かってる。呼ばれても、待ってくれって返せるよ」
「お風呂や病院にいるときも」
「それも伝える」
「怪我を隠さない」
「ああ」
「帰れる状態か確認してから、危ない場所へ行く」
「そこは、向こうの事情もあるけど……できるだけ確認するよ」
「無茶をしない」
「それは、状況次第かな」
「あなた」
「分かった。無茶をしないように努力する」
「ずいぶん弱い約束ね」
「できない約束をするよりは、正直だと思うぞ」
嫁さんが、呆れたように俺を見る。
「まあ、そこはあなたらしいけど」
◇
「なら、準備しましょう」
「今から?」
「準備してから行くって言ってきたんでしょう?」
「ああ」
「何が必要なの?」
嫁さんは立ち上がり、棚からメモ帳を出した。
俺は少し驚いた。
「協力してくれるのか?」
「行くなと言っても行くなら、手ぶらで行かせるよりましでしょう」
「ありがたいよ」
「まだ信じたわけじゃないわよ」
「そうだったな」
「でも、この怪我が嘘じゃないことは分かるもの」
嫁さんがペンを持つ。
「向こうには、何があるの?」
「武器と防具は、町のギルドに置いてある。回復魔法や回復薬もあるよ」
「日本から持っていったほうがいいものは?」
「そうだな……」
俺は、洞窟で過ごした夜を思い出した。
水。
タオル。
明かり。
食べ物。
どれも、あれば助かったものだ。
「水筒。タオル。丈夫な軍手。懐中電灯。ロープ。救急用品。すぐ食べられるもの」
「着替えは?」
「あったほうがいいな。川へ落ちる予定はないけど」
「前も、落ちる予定はなかったでしょう?」
「そのとおりです」
嫁さんは、メモへ着替えと書き加えた。
「大きすぎないバッグへまとめましょう。呼ばれたときに持てなかったら意味がないもの」
「慣れてるな」
「夫が異世界へ出張する家庭なんて、参考にできる人がいないから、自分で考えるしかないでしょう」
「異世界出張か」
「仕事を増やして帰ってくるんだから、似たようなものでしょう?」
「会社は辞めるのになあ」
「異世界の仕事は増えてるわね」
否定できなかった。
◇
俺は包帯を濡らさないように体を洗い、汚れた服を着替えた。
その間に、嫁さんが小さなバッグへ必要な物をまとめてくれる。
水筒。
タオル。
軍手。
懐中電灯と予備の電池。
丈夫なロープ。
消毒液や絆創膏を入れた救急用品。
替えの靴下と下着。
携帯用の食べ物。
「重くない?」
嫁さんが聞いた。
バッグを持ち上げる。
日本へ戻った今は、異世界にいたときほど体が軽くない。
それでも、持ち歩けない重さではなかった。
「大丈夫だよ」
「腕に痛みは?」
「少しある」
「無理に持たないで」
「ああ。向こうへ行けば、体の力も上がるからな」
「こちらでは普通なの?」
「腰も膝も、いつもの感じに戻ってるよ。眷属の強化は、召喚されてる間だけみたいだな」
「都合がいいんだか、悪いんだか分からないわね」
「日本でうっかりドアを壊さずに済むと思えば、都合はいいよ」
嫁さんが冷蔵庫を開けた。
「そのアリスちゃんは、何が好きなの?」
「肉料理。それと、前に卵焼きを喜んで食べてたな」
「お弁当を作るの?」
「ああ。俺の弁当を見つけるたび、期待した顔をするんだよ」
「15歳なら、よく食べるでしょうね」
「金の管理は、あの子がしてるんだけどな。食事になると、そこだけ少し甘くなる」
嫁さんは食材を確かめた。
「おにぎりと卵焼きなら、すぐ用意できるわ」
「2人分、頼めるか?」
「最初から、そのつもりよ」
俺は嫁さんの顔を見た。
「まだ全部は信じてないんだろ?」
「本当なら、その子もまともに食べてないでしょう?」
「ああ。たぶん、腹を減らしてる」
「だったら用意しておいて損はないわ。あなたが2人分食べてもいいんだし」
「それは、51歳の腹には多いねえ」
◇
準備が終わるころには、眠気が限界に近づいていた。
異世界では一晩起きたままだ。
嫁さんに事情を話して緊張が抜けたせいか、急に体が重くなった。
「少し寝たら?」
「ああ。アリスには、準備ができてから呼んでくれって言ってある」
「呼ばれたら、分かるの?」
「胸の奥に感覚が来るんだよ」
「電話みたいなもの?」
「呼び出しだけなら、そんな感じかな。着信音は鳴らないけどね」
俺はソファへ横になった。
包帯を巻いた腕を腹の上へ置く。
「寝室へ行かないの?」
「呼ばれたとき、すぐ起きられるようにしとくよ」
「分かったわ。毛布を持ってくる」
「ありがとう」
嫁さんが毛布を掛けてくれた。
目を閉じる。
「ねえ」
「ん?」
「そのアリスちゃん、本当に15歳なの?」
「ああ。可愛い子だよ」
「そう」
「だから、娘みたいなもんだって」
「まだ何も言ってないでしょう?」
「顔が聞いてるんだよ」
嫁さんが、俺の額を軽く指で弾いた。
「早く寝なさい」
「ああ。おやすみ」
◇
目を覚ましたとき、時計の針は2時間ほど進んでいた。
短い時間だったが、頭は少しすっきりしている。
両腕の痛みも、さっきより落ち着いていた。
体を起こすと、テーブルの上にバッグと包みが置かれている。
「起きた?」
台所から、嫁さんが顔を出した。
「ああ。よく寝たよ」
「向こうからは?」
「まだだな」
立ち上がり、水を飲む。
嫁さんが、包みを指した。
「おにぎりと卵焼き。少しだけ肉も入れてあるわ」
「助かるよ」
「本当に持っていけるの?」
「今まで弁当も服も一緒だったから、大丈夫だと思う」
「持ち物だけ、途中で落ちたりしないでしょうね」
「それはないと思うけどなあ」
「思う、ばかりね」
「俺も仕組みを全部知ってるわけじゃないからね」
そう答えたとき、胸の奥に感覚が生まれた。
俺は口を閉じる。
前とは違う。
強く引かれるのではなく、扉の向こうから呼びかけられているような感覚だった。
焦りや恐怖は伝わってこない。
準備が整った。
来てほしい。
そんな穏やかな意思を感じる。
「……来たみたいだ」
嫁さんの表情が変わった。
「アリスちゃんから?」
「ああ」
「今、分かるの?」
「胸の奥で、呼ばれてる感じがするんだよ」
俺は用意してもらったバッグを肩へ掛けた。
弁当の包みも中へ入っている。
「少し待ってくれ」
アリスへ意識を向ける。
すぐに行く。
そう返すと、呼びかけが少し弱くなった。
「返事もできるの?」
「ああ。長い話は無理だけどね」
俺は玄関に行き、靴を履いた。
周囲にぶつかるものがないことを確かめる。
嫁さんは、少し離れたところから俺を見ていた。
「ここで消えるの?」
「ああ」
「壁の中へ行ったりしないでしょうね」
「そんな話は聞いてないよ」
「急に心配になってきたわ」
「大丈夫だよ」
◇
胸の奥へ意識を向ける。
もう大丈夫だぞ。
呼びかけが強くなった。
足元に、白い光が広がる。
嫁さんが息をのんだ。
「……本当に光ってる」
「だから言ったろ」
「こんなときだけ、得意そうな顔をしないの」
「ようやく信じてもらえそうだからな」
光が、足元から膝へ上がってくる。
嫁さんは俺を見つめていた。
異世界の話を聞いたときよりも、その顔は真剣だった。
「なるべく早く帰ってきて」
「ああ。今度は、自分で帰れるからな」
「それと、そのアリスちゃんに伝えて」
「何を?」
「夫を呼ぶなら、怪我をさせずに返してくださいって」
「そこは俺にも責任があると思うけどねえ」
「だったら、あなたにも言っておくわ。怪我を増やさずに帰ってきて」
「ああ。約束するよ」
できるだけ、とはつけなかった。
今は、それを言えば余計に心配させるだけだ。
「行ってくる」
「無事に帰ってきて」
光が強くなる。
異世界へ行くことを、初めて嫁さんに見送られた。
その声を聞きながら、俺の体は白い光に包まれた。




