第36話 オッサン精霊、君を置いて帰れない
◇◇◇◇
洞窟の入口が、少しずつ明るくなってきた。
鳥の声が聞こえる。
川の音は、昨夜から変わらず続いていた。
「……朝か」
小さく呟き、焚火へ細い枝を足した。
結局、眠らなかった。
火を絶やすわけにもいかなかったし、外の物音も気になった。
隣では、アリスが俺の肩へ頭を載せて眠っている。
肩から掛けた服を、片手でつかんでいた。
夜中に何度か姿勢を変えたが、そのたびに俺のそばへ寄ってきた。
安心して眠れているなら、それでいい。
ただ、俺の肩は、そろそろ固まってしまいそうだった。
首をゆっくり動かし、息を吐く。
両腕も、まだ痛む。
昨夜よりは落ち着いた気がするが、枝を折ろうと力を入れると、鈍い痛みが走った。
あの棍棒を受けたのだから、何ともないほうがおかしい。
俺は火のそばに広げた服へ手を伸ばした。
表面は乾いている。
厚いところには、まだ少し湿り気が残っていた。
ひっくり返し、火へ近づきすぎない位置へ置き直す。
そこで、ふと手が止まった。
俺は、まだここにいる。
◇
アリスの顔を見た。
呼吸は穏やかだ。
苦しそうな様子もない。
だが、昨夜の時点で、魔力はだいぶ少なかったはずだ。
オーガとの戦闘で何度も風を使った。
俺を召喚し、洞窟では明かりを出し、火まで起こしている。
そのあと、一晩が過ぎた。
今までなら、俺が日本へ戻っていてもおかしくない。
「……どうなってるんだ?」
アリスを起こさないよう、小さな声で呟いた。
眠っている間に、魔力が戻ったのか。
俺を呼び出しておくための負担が、さらに軽くなったのか。
思い当たるのは、契約同調だった。
「ステータスオープン」
目の前に、薄い光の板が現れた。
【名前】高野幸治
【種族】人間
【状態】召喚中
【契約】召喚仮契約
【召喚主】アリス
【契約同調】完全同調
「……え?」
最後の項目で、視線が止まった。
もう一度、読む。
完全同調。
前は、強い同調だった。
表示が変わっている。
俺は眠っているアリスと、光の板を交互に見た。
「いつの間に……」
昨日、呼ばれたときには確認していない。
目の前にオーガがいて、後ろは崖だった。
そのあとも、川から上がることと、寒がるアリスを暖めることで精いっぱいだった。
変わった時期は、分からない。
ただ、その言葉には覚えがあった。
◇
ギルドの小部屋。
書類の詰まった棚と、落ち着いた様子の年配の職員。
本契約について相談したとき、あの人は言っていた。
『さらに深まり、「完全同調」と表示される段階になれば、契約成立の見込みは高まるでしょう』
俺は、光の板を見つめた。
あのときは、まだ先の話だと思っていた。
アリスには、高位精霊と本契約を結ぶほどの経験がない。
それでも、特定の相手との深い同調が、それを補う場合がある。
そんな説明だった。
「……ここまで来たのか」
互いの意思を確かめ、無理なく関係を築く。
数字を上げればいい、という話ではないとも言われた。
何が同調を深めたのかは、俺には分からない。
ただ、昨夜の呼びかけが切迫していると感じたことを思い出す。
言葉は聞こえなかった。
それでも、アリスが急いで来てほしいと思っていることだけは、伝わってきた。
あれも、この変化と関係していたのだろうか。
俺が考えていると、肩に載っていた頭が動いた。
◇
「……ん」
アリスが、ゆっくり目を開けた。
焚火を見て、洞窟の入口を見て、それから俺を見上げる。
「コージ……?」
「おはよう」
「……朝?」
「ああ。明るくなってきたよ」
アリスは体を起こしかけ、自分が俺の肩へ頭を載せていたことに気づいたらしい。
少し顔を赤くした。
「ごめんなさい。ずっと、こうしてた?」
「よく眠ってたよ」
「肩、痛くない?」
「少し固まったけど、大丈夫だ。あとで動かせばいい」
首を回すと、アリスが申し訳なさそうに眉を下げた。
「起こしてくれればよかったのに」
「やっと眠れたところを、起こすのもな」
俺は彼女の顔を見た。
昨夜より、顔色はよくなっている。
「寒くないか?」
「ええ。もう大丈夫」
「気分は?」
「平気よ。コージは、眠れた?」
「俺は火を見てたからな」
アリスの視線が、焚火と、手元に残った枝へ動いた。
「……ずっと?」
「ああ。外も気になったしな」
「そうだったの……」
彼女は、火のそばに置かれた服を見た。
俺が夜中に位置を変えたものだ。
「ありがとう」
「どういたしまして。それより、少し聞きたいことがあるんだ」
俺が言うと、アリスは顔を上げた。
「何?」
「今、ステータスを見たんだけどな。契約同調のところが、変わってる」
「変わってる?」
「ああ。前は『強い同調』だったろ。今は『完全同調』って出てる」
アリスの目が、大きくなった。
「完全同調……?」
俺はうなずいた。
彼女には、目の前の表示が見えない。
その代わりに、項目を指しながら説明した。
「契約のほうは、まだ仮契約だ。ただ、同調だけが変わってる」
「本契約になったわけじゃないのね」
「ああ。俺たち、契約を結ぶようなことは何もしてないしな」
アリスは少し黙り、それから俺を見た。
「ギルドの人が、言っていたわね」
「ああ。完全同調になれば、本契約ができる見込みが高くなるってな」
「……本当に、そこまで深まったのね」
彼女は小さく息を吐いた。
嬉しそうで、少し驚いている。
俺も、似たような気分だった。
◇
「いつ、変わったのかしら」
「そこは分からん。今朝、初めて気づいたからな」
俺は光の板を閉じた。
「気になって見たんだよ。君の魔力が少なくなってたはずなのに、俺は一晩ここにいたから」
アリスも、そこで気づいたようだった。
「……そうね。昨夜は、そんなに残っていなかったわ」
「今は、どうだ?」
「眠ったから、少し戻ってる。でも、全部じゃないわ」
「俺がいるせいで、どんどん減ってる感じは?」
アリスは目を閉じた。
しばらく黙り、自分の魔力を確かめている。
「前みたいに、強く引かれる感じはしないわ」
「同調が深まって、負担が軽くなったのかもしれんな」
「だから、帰らずにいられたの?」
「かもしれない、ってところだよ。そこまで表示には書いてないからな」
まだ、分からないことは多い。
完全同調という名前だけで、全部が変わったとは思わないほうがいい。
ただ、負担が軽くなったのなら、それはありがたい変化だった。
アリスが、俺の両腕へ目を向けた。
「本契約になったら、コージの体力を使うようになるって、言ってたわ」
「ああ。そうなる可能性があるって話だったな」
「腕も痛いのに、もっと疲れたら……」
俺は返事をしかけ、口を閉じた。
戻ったら相談しよう。
そう言おうとしていた。
だが、戻るためには、この洞窟を出なければならない。
◇
俺は入口へ目を向けた。
外は明るくなっている。
しかし、ここがどこなのか、町はどちらなのかも分からない。
川を流されたせいで、崖からどれくらい離れたのかさえ分からなかった。
オーガは、まだ倒していない。
ほかの魔物に出くわすかもしれない。
そのとき、アリスが風を使ったら。
少し戻った魔力を、また消費したら。
俺は、日本へ戻ってしまう。
彼女だけを、知らない場所に残して。
「……それは、駄目だな」
「コージ?」
アリスが顔を上げた。
完全同調になった。
それでも、契約は仮契約のままだ。
俺をこの世界につなぎ留めているのは、アリスの魔力であることに変わりはない。
「今の俺は、君の魔力でここにいるんだよな」
「ええ」
「少し戻った魔力を、俺の滞在と、帰り道の魔法に使うことになる」
アリスが、小さくうなずいた。
「途中で魔物が出たら、魔法を使わないわけにもいかんだろ。そのせいで俺が帰っちまったら、君だけが残る」
彼女の表情が変わった。
「……そうね」
「そんなことには、したくないんだよ」
昨夜は、一緒に逃げられた。
だが、次もそうできるとは限らない。
アリスが俺を残そうとして魔法を控えても、危険だ。
戦えば俺が消えるかもしれない。
戦わなければ、2人とも襲われるかもしれない。
そんな状態で、帰り道を探すことになる。
◇
ギルドで聞いた説明を、もう一度思い返した。
本契約を結び、眷属となれば、滞在を維持する方法が変わる可能性がある。
アリスの魔力ではなく、俺自身の体力で。
呼び出すときは、引き続きアリスの魔力が必要。
来てからは、俺が支える。
食事や休息で回復できれば、長く滞在できる見込みもあるという話だった。
もちろん、楽なことばかりではないだろう。
俺は今、眠い。
腹も減っている。
腕も痛む。
ここにいるだけで、さらに体力を使うようになるかもしれない。
それでも、自分の疲れなら確かめられる。
きつくなったら、休もうと言える。
アリスが魔法を使うたびに、俺が消えることを心配するよりは、2人で都合をつけやすいはずだった。
俺は彼女へ向き直った。
「アリス。本契約を、やってみよう」
彼女が目を見開いた。
「今、ここで?」
「ああ。完全同調になったなら、成立する見込みはあるって言ってたろ」
「でも、ちゃんと確かめてからって……」
「そうだな。俺も、そのつもりだったよ」
急いで決める話ではない。
日本にも暮らしがある。
自分で帰れるようになるのか。
どれくらい消耗するのか。
帰ったあとにも、その疲れが残るのか。
聞いておきたいことは、まだあった。
その考えが、なくなったわけではない。
「ただ、今は町まで戻れるかも分からん。相談しに帰る途中で、君を置いて消えちまうかもしれないんだ」
アリスは、黙って俺を見ていた。
「本契約になれば、俺の体力で滞在を支えられる可能性がある。君の魔力は、帰るために使える」
「コージが、疲れてしまうわ」
「俺の疲れなら、俺にも分かるよ。きつくなったら休もうって言える。君が魔法を使った途端に帰るより、まだ都合をつけやすいだろ」
俺は痛む腕を膝へ置いた。
「ギルドへ戻れたら、詳しく見てもらおう。消耗する具合も、帰り方もな」
「……本当に、いいの?」
「ああ。ただ、君も納得してくれないと結べないだろ」
◇
相手の意思を奪う契約ではない。
双方の同意によって結ぶものだと、あの職員は言っていた。
俺が決めただけで、進めることではない。
「君は、どうしたい?」
アリスは、膝の上で握っていた手をほどいた。
俺の腕へ目を向け、それから顔を上げる。
「私も、コージと本契約を結びたい」
声は、小さくてもはっきりしていた。
「でも、疲れたら、ちゃんと言ってね。私のためだからって、我慢しないで」
「分かったよ。休憩の話なら、俺は遠慮しないからな」
アリスが、少し笑った。
「食事も?」
「そっちも大事だよ。体力で滞在するなら、なおさらな」
「じゃあ、帰ったら、ちゃんと食べましょう」
「ああ。まずは、帰るところからだね」
俺も笑った。
少しだけ、肩の力が抜ける。
契約という言葉には、まだ身構えるところがある。
だが、目の前にいるのはアリスだ。
昨夜、崖へ追い詰められて俺を呼んだ少女。
今は俺の疲れを心配しながら、一緒に帰ろうとしている。
この子を残して、突然消えたくはなかった。
「日本の暮らしのことも、忘れてないわ」
アリスが言った。
俺は顔を上げる。
「奥さんを困らせないように、帰りたいときは帰ってね。呼ぶときも、待ってって言われたら待つから」
「ああ。ありがとう」
「昨日は、待てなかったけど……」
「昨日は、呼んでよかったんだよ。そこは、もう謝らなくていい」
俺が言うと、アリスはうなずいた。
洞窟の入口から、朝の光が差し込んでいる。
焚火の炎が、小さく揺れた。
乾かしていた服を手に取り、厚いところを確かめる。
もう、冷たくはなかった。
俺たちは互いに背を向け、服を着直した。
濡れたままではないだけで、ずいぶん動きやすい。
それから、火のそばで向き合って座った。
俺は両手を膝へ置き、アリスを見た。
「じゃあ、頼む。やり方を教えてくれ」
アリスが、真剣な顔でうなずいた。




