第3話 オッサン精霊、昼飯中に再召喚される
◇◇◇◇
翌朝、俺はいつもどおり会社へ向かった。
昨夜の出来事は、夢だったのかもしれない。
そう思いたかったが、脱衣所で脱いだ靴下には、異世界の森でついた泥と枯れ葉が残っていた。洗濯機に入れる前に何度も確認したが、どう考えても日本の家の中でつくような汚れではない。
アリスという15歳の召喚師。
ゴブリン。
精霊だと勘違いされている俺。
どれも夢の中で見たものにしては、妙に現実感があった。
「まあ、考えても仕方ないか。なるようにしかならん」
俺はトラックに乗り込んだ。
会社を辞めると社長に伝えたからといって、今日から仕事がなくなるわけではない。退職日が決まるまでは、当然ながら今までどおり働く必要がある。
それに、引き継ぎの人が来るまでは、俺が仕事を教えなければならない。
異世界へ召喚されたからといって、現実の仕事を放り出すわけにもいかなかった。
会社へ着くと、トラックを停める前から何人かの同僚がこちらを見ていた。
嫌な予感がする。
俺がエンジンを切って運転席から降りると、さっそく声をかけられた。
「高野さん、辞めるんだって?」
「社長から聞いたのか?」
「うん。昨日、そんな話をしているのが聞こえてね」
「いつ辞めるんですか?」
「次の仕事は決まっているんですか?」
次々に質問が飛んでくる。
俺は荷台の扉を開けながら答えた。
「まだ退職日も決まってないよ。次の仕事も、これから探すところだな」
「そうなんですか。てっきり、すぐ辞めるのかと思いました」
「体がきついって言ってましたもんね」
「腰、大丈夫ですか?」
「まあ、だましだましだよ。長年使ってきた体だからな」
腰が痛いのは本当だ。
朝、布団から起き上がるときにも痛かったし、トラックへ乗り込むときにも少し痛んだ。
だが、仕事中に痛みを気にしてばかりもいられない。
「高野さんが辞めると、寂しくなりますね」
若い同僚が、ぽつりと言った。
「そうですよ。分からないことがあると、いつも高野さんに聞けば何とかなるって思ってましたから」
「新人のころ、荷物の積み方を教えてもらったのを覚えてます」
「俺はそんな大したことはしてないよ。現場じゃ、困ってる人間を放っておけないだけだ」
「いやいや。高野さん、ほかの人の分までよく見てくれていたじゃないですか」
「この前も、急に休んだ人の配送を代わってくれましたし」
「高野さんがいなくなったら、困る人は多いと思いますよ」
俺は返事をしようとして、少しだけ言葉に詰まった。
自分では、長く続けてきた仕事を普通にこなしていただけだと思っていた。誰かの役に立とうとして、特別なことをしていたつもりはない。
それでも、いなくなると寂しいと言ってもらえる。
「……そう言ってもらえると、ありがたいな。長く働いてきた甲斐があったよ」
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
会社を辞めようと思った理由は、体の痛みや待遇だけではない。毎日同じ仕事を続けることに疲れたし、この先もずっと同じ生活なのかと思うと、気が重くなった。
だが、ここで過ごした時間まで嫌いだったわけではない。
同僚たちと雑談をし、忙しいときには助け合い、事故がないように声をかけ合う。そういう人間関係は、悪くなかった。
「じゃあ、高野さん。今日もよろしくお願いします」
「ああ、今日もよろしく頼むよ」
俺は荷物の確認を始めた。
退職を伝えた翌日だからといって、仕事を適当にする気はない。辞める日まで、やることはきちんとやるつもりだった。
◇
午前中の配送は、思ったよりも順調だった。
最後の荷物を届け終え、会社へ戻ってきたときには、昼を少し過ぎていた。
俺はトラックを日陰へ移動させ、運転席で昼食を取ることにした。
妻が作ってくれた弁当を助手席の上へ置く。
弁当箱を開けると、白いご飯の横に、卵焼き、焼き鮭、きんぴらごぼう、煮物が詰められていた。
卵焼きが、いつもより1個多い気がする。
「今日は多いな」
妻は何も言っていなかったが、昨日の退職の話を気にしてくれているのかもしれない。
次の仕事は決まっているのかと聞かれたとき、妻の反応はあっさりしているように見えた。しかし、弁当のおかずが増えているのを見ると、まったく気にしていないわけではなさそうだった。
俺は箸箱から箸を取り、卵焼きをつまんだ。
その瞬間だった。
「えっ?」
卵焼きが、箸ごと光り始めた。
「ちょっと待て。今、昼飯の真っ最中なんだけどな」
光は箸から俺の腕へ広がり、弁当箱全体を包み込んだ。
運転席も、トラックも、会社の駐車場も消える。
次の瞬間、俺は草の生えた地面に立っていた。
右手には箸。左手には弁当箱。
箸の先には、卵焼きが挟まったままだった。
「またかよ……。せめて飯くらい、最後まで食わせてくれ」
目の前に、アリスが立っていた。
前回と同じ杖を握り、こちらを見ている。ただし、今回は俺の顔よりも、俺が持っている弁当箱のほうを気にしていた。
「精霊さん、今日は何を召喚したの?」
「召喚されたのは俺だよ。これは昼飯」
「ヒルメシ?」
「昼に食べる飯だよ。そこまで説明させるのか」
「精霊の食事なのね!」
「人間の食事だよ! 精霊の食事なんか知らん!」
アリスは弁当箱を覗き込んだ。
「その黄色いものは何?」
「卵焼きだ。卵を焼いたものだよ」
「卵を焼いただけ?」
「砂糖やだしも入っているけどな。うちの嫁さんの味だ」
アリスの視線が卵焼きに吸い寄せられている。
「食べたいのか?」
「別に。精霊の食事に興味があるだけよ」
「それを食べたいって言うんだよ。変な意地を張るな」
「一口だけなら、確認してあげてもいいわ」
「なんでそんなに上からなんだよ」
俺はため息をつき、弁当箱から卵焼きを1個取り出した。
「ほら。ただし、これは嫁さんが作ってくれた弁当だからな。味わって食べてくれよ」
「嫁さん?」
「俺の家族だ。日本で一緒に暮らしている人だ」
「コージにも家族がいるのね」
「いるよ。だから、できれば昼飯くらいは、落ち着いて食べさせてほしいんだがな」
アリスは卵焼きを受け取ると、恐る恐る口へ運んだ。
しばらく咀嚼し、目を見開く。
「おいしい……」
「とても、おいしいわ!」
「そうかい。そりゃよかった」
「もう1個」
「1個だけって言ったよな?」
「精霊さんなのに、食事を独占するの?」
「俺は人間だ。それに俺の弁当だろ」
アリスは残念そうに弁当箱を見ていた。
「今回は、何の用で呼んだ?」
俺は弁当箱を閉じた。
「実は、困っている人がいるの」
「ゴブリン?」
「今回は違うわ。町の近くで、商人の荷馬車が動かなくなっているの」
「荷馬車が?」
「車輪がぬかるみに沈んで、馬も荷物も動かせないみたい。冒険者に助けを求めているのよ」
「それで俺を呼んだのか?」
「コージは荷物を運ぶ仕事をしていたのでしょう?」
「まあ、そうだけどな……」
「なら、荷馬車を動かせるわよね」
「ドライバーだからって、どんな車でも動かせるわけじゃないぞ」
「でも、前回ゴブリンをたくさん倒したわ」
「それは召喚の力だろ。俺が自分で強いわけじゃないからな」
「難しいことはいいから、早く来て」
「昼飯の途中なんだがな……。仕事をするなら、せめて食い終わってからにしてくれ」
アリスは俺の腕をつかんだ。
「精霊さん、仕事よ」
「俺の昼休みを勝手に仕事にするなよ。こっちは休憩中なんだ」
◇
町の近くの街道へ出ると、荷馬車が道の端で大きく傾いていた。
馬は落ち着きを失い、荷台には木箱や布袋が山のように積まれている。車輪の片方がぬかるみに沈み、商人らしい男と護衛の冒険者が、必死に馬車を引っ張っていた。
「押せ! もっと力を入れろ!」
「無理だ! 車輪が完全に沈んでいる!」
俺は馬車を見て、すぐに問題が分かった。
荷物を積みすぎている。しかも、ぬかるみに沈んでいる側へ、重たい木箱が偏っていた。
「ちょっと待て。力任せに引っ張るのはやめたほうがいい」
男たちがこちらを見る。
「誰だ、あんたは?」
「私が召喚した精霊さんよ」
「人間です。何度も言いますけどね」
「荷馬車を助けてくれるそうよ」
「まだ助けるとは言ってないんだけどな」
俺は荷台の積み荷を確認した。
「まず、ぬかるみに沈んでいる側の荷物を降ろす。全部じゃなくていい。重いものから順番にな」
「しかし、荷物を降ろしたら時間がかかる」
「このまま無理に引けば、車軸が折れるよ」
商人は不安そうに馬車を見た。
「車軸が折れたら、もっと時間がかかる……」
「日本ではね、『急いては事を仕損じる』って言うんだよ。急いで無理をすると、かえって時間がかかるって意味だ」
「なるほど。急いでいるときほど、焦らず順番を守れってことね」
「そういうことだ」
「でも、順番を守っている間に日が暮れたりしない?」
「だから、必要なところでは急ぐ。でも、無理をして壊したら、もっと時間がかかるんだよ」
俺は荷物を降ろす場所を指示し、冒険者たちに手伝ってもらった。
木箱をいくつか道の乾いた場所へ移し、車輪の前後へ石を敷く。さらに、近くに落ちていた太い枝を車輪の下へ差し込んだ。
「これで、もう一度ゆっくり引いてみて」
「ゆっくりでいいのか?」
「急がば回れって言葉があるんだよ。急いで力任せにやるより、順番を守ったほうが結果的に早い」
「急いでいるのに、遠回りするの?」
アリスが横から口を挟んだ。
「遠回りじゃなくて、無駄な失敗をしないってこと」
「精霊の教えは難しいわね」
「日本のことわざだ。現場じゃ、こういうのがけっこう大事なんだ」
馬が落ち着いたところで、商人が手綱を引いた。
冒険者たちが掛け声を合わせ、馬車をゆっくり引く。
車輪が泥の中で空回りしたあと、敷いていた枝に乗り上げた。
少しずつ、車輪が地面の上へ戻ってくる。
「今だ。もう少しだけ!」
商人が声を張り上げ、馬が力を込める。
荷馬車は大きく揺れながらも、ぬかるみから抜け出した。
「助かった!」
商人が頭を下げる。
「ありがとう、精霊さん!」
「俺は人間ですって。精霊扱いはもう勘弁してください」
「すごいわ、コージ! ゴブリンを倒すだけでなく、荷馬車まで助けられるなんて!」
「これは戦闘じゃないからな。荷物の積み方と車輪の扱いが分かれば、誰でもできるよ」
「誰でもできることを、すぐに思いつく人は少ないのよ」
アリスにそう言われ、俺は少し照れくさくなった。
長年やってきた仕事の経験が、こんな場所で役に立つとは思わなかった。
「ところで、もう少し卵焼きをもらえない?」
「まだ食べるのか?」
「荷馬車を助けたご褒美よ」
「それは俺の弁当なんだがな」
「精霊さんは、また元の世界に帰れば食べられるでしょう?」
「戻っても、昼休みが終わっていたら食べられないんだよ。仕事中に弁当は食えんだろ」
その瞬間、アリスの杖が弱く光った。
「あれ?」
前回と同じように、俺の足元にも光が広がり始める。
「もう帰る時間みたいね」
「えっ、もう?」
「召喚を維持する魔力がなくなってきたわ」
「今回は短かったな。まあ、昼飯を取られた時間としては長いが」
「荷馬車を助けるために、けっこう魔力を使ったもの」
「俺はほとんど何もしてないけどな。荷物を降ろして、順番を指示しただけだ」
「何を言っているの。コージがいなかったら、荷馬車は動かなかったわ」
アリスは、弁当箱に残った卵焼きをじっと見た。
「じゃあ、最後にもう1個だけ」
「まだ言ってるのか?」
俺は仕方なく卵焼きを1個つまみ、アリスへ渡した。
「ほら。ただし、これで本当に最後だからね」
「ありがとう、コージ」
アリスは卵焼きを受け取り、嬉しそうに笑った。
「また呼んでもいい?」
「昼飯の時間は避けてくれ。人間、飯を食わんと働けないんだよ」
「分かったわ。次は朝に呼ぶ」
「朝も駄目だ。仕事に出る時間だからな」
「じゃあ、いつならいいの?」
「俺にも休みはあるんだよ。毎日働きづめじゃ、体がもたん」
「休みって何?」
「仕事をしない日」
「精霊なのに、仕事を休むの?」
「だから人間だって言ってるでだろ!」
言い終わる前に、視界が白く染まった。
◇
気づくと、俺はトラックの運転席に戻っていた。
時計を見ると、昼休みの残り時間はまだ十分にあった。
「……時間の進み方が違うのか?」
弁当の中身を確認する。
卵焼きが、減っていた。
「本当に食べたんだな」
夢なら、弁当の中身まで減るはずがない。
俺は残った卵焼きを口へ運んだ。
うまい。
妻が作った、いつもの味だった。
ただ、異世界の少女に食べられたせいか、いつもより少しだけ特別な味に感じた。
昼休みが終わるころ、同僚がトラックの窓を軽く叩いた。
「高野さん、昼飯もう食べました?」
「ああ。食べたよ」
「弁当、まだ開いていないように見えますけど?」
俺は、卵焼きが減った弁当箱を見た。
「……異世界で食べたんだよ。細かいことは気にするな」
「はは、何言ってるんですか、高野さん」
どうやら俺は、会社を辞めると伝えた翌日から、昼飯の途中でも異世界へ配送されるようになったらしい。




