第2話 オッサン精霊、少女を背負って緊急配送
◇◇◇◇
俺は、湿って気持ちの悪い靴下のまま、アリスのあとを歩いていた。
森の中は薄暗く、足元には木の根や石がいくつも出ている。靴を履いていない俺にとっては、歩くだけでもちょっとした苦行だった。
「アリス」
「何よ、精霊さん」
「せめて靴くらい貸してくれないか?」
「精霊に靴は必要なの?」
「必要だよ。見れば分かるだろ。俺、靴下なんだから」
俺が足を上げると、白かった靴下に泥と枯れ葉が張りついていた。
「変わった足をした精霊ね」
「足じゃない。靴下だよ」
「靴下って何?」
「そこから説明しないといけないのか……」
どうやら、ここでは靴下というものが一般的ではないらしい。
いや、靴下どころか、ここが日本でないことすら、まだ完全には受け入れられていなかった。
俺は風呂に入ろうとしていた。仕事を辞めると社長に伝え、家に帰り、妻に退職の話をした。そのあと、風呂に入るために脱衣所へ行った。
そこまでは、はっきり覚えている。
それなのに、今はゴブリンが出る森を、15歳の少女について歩いている。
人生というのは、何が起きるか分からない。
「そういえば、まだあなたの名前を聞いていなかったわね」
前を歩いていたアリスが振り返った。
「名前?」
「精霊さんの名前よ。私はアリス。あなたは?」
俺は少し迷った。
異世界で名乗るような名前など考えたことはない。そもそも、俺は精霊ではなく日本人だ。
「俺は高野幸治だ。高野が名字で、幸治が名前だよ」
「タカノ・コージ?」
「まあ、そういうことだな」
「じゃあ、コージと呼ぶわ」
「呼びやすいほうでいいよ。もう好きに呼んでくれ」
「分かったわ、コージ精霊さん」
「そこは普通にコージでいいんじゃないか?」
「だって、あなたは私が召喚した精霊だもの」
「だから、俺は精霊じゃないって言ってるだろ」
このやり取りは、さっきから何度も繰り返している。
しかし、アリスは一向に考えを変える気がないようだった。
「それで、コージは何歳なの?」
「51歳だ」
「51歳? ずいぶん若いのね」
「若い? 俺が?」
俺は思わず聞き返した。
普通なら、51歳と聞けば、若いとは言わないだろう。少なくとも、俺のいた世界ではそうだ。俺自身、先月の誕生日を迎えたとき、鏡に映った自分を見て、歳を取ったなと思ったばかりだった。
「若いって、どういう意味?」
「普通の精霊は数百年くらい生きるのよ。長く生きている精霊なら、1000歳を超えていることもあるわ」
「1000歳……」
「だから、51歳なら精霊としては、まだ子供みたいなものね」
「いやいや。俺のいた世界じゃ、51歳はどう考えても立派なオッサンだよ」
「でも、精霊としては若いわ」
「そこはもう、種族というか、世界が違うってことでいいのかな」
「見た目はオッサンなのに、中身は若い精霊なのね」
「見た目は余計だ。中身も普通にオッサンだからな」
「オッサン精霊さん」
「その呼び方、ずいぶん気に入ったみたいだな?」
「ええ。分かりやすいもの」
アリスは納得したようにうなずいた。
どうやら俺は、精霊としては51歳の若者で、見た目だけがオッサンだと思われているらしい。訂正したい気持ちはあるが、訂正するためには精霊とは何なのかから説明しなければならない。
正直、もう面倒だった。
「それで、コージは元の世界で何をしていたの?」
「ドライバーだよ」
「ドライバー?」
「車に乗って、荷物を運ぶ仕事」
「御者なのね」
「馬車じゃない。馬がいなくても走る、大きな荷車みたいなものに乗るんだ」
「馬がいないのに走る荷車……」
アリスは目を輝かせた。
「そんな乗り物を操れるなんて、やっぱり高位精霊なのね!」
「人の話を聞いてたか?」
「その車という乗り物で、何を運ぶの?」
「いろいろだよ。食品、家具、機械、それから日用品なんかだな」
「人ではなく、物を運ぶ精霊なのね」
「俺は運送会社で働いていただけだよ。特別な精霊じゃない」
「運送会社って?」
「荷物を預かって、決められた場所まで届ける会社」
「……ふ~ん。」
「あまり興味がないみたいだね」
アリスは森の奥へ進みながら、時々しゃがみ込んで地面を見ていた。逃げたゴブリンの足跡を探しているらしい。
「まだ追いかけるの?」
「もちろんよ。さっき逃げた2体は、きっと仲間のところへ戻ったわ」
「仲間を呼んでいるなら、もっと危険じゃない?」
「だから討伐するのよ」
「危険だから逃げる、という発想はないんだな」
「冒険者が逃げてばかりでは、依頼を達成できないでしょう」
「依頼を達成するために死んだら、元も子もないだろ」
アリスは足跡を見つけると、嬉しそうに指をさした。
「こっちよ、コージ!」
「はいはい、分かったよ」
俺はアリスのあとを追った。
しばらく歩くと、木々の向こうからゴブリンの声が聞こえてきた。どうやら、逃げた2体が別の2体と合流したらしい。
合計4体のゴブリンが、倒れた木の周囲に集まっていた。
「4体いるわね」
「4体もいるのか?」
「最初に倒した1体と合わせて、これで依頼の討伐数になるわ」
「それなら、もう帰ろう」
「まだ戦っていないでしょう」
「できれば戦わずに終わらせたいんだがな」
俺がそう言った直後、1体のゴブリンがこちらに気づいた。
醜い顔がこちらを向き、黄色い歯が剥き出しになる。
「ギャギャッ!」
4体のゴブリンが一斉に棍棒を手に取った。
「コージ、お願い!」
「何をだ?」
「倒して!」
「はいはい、やればいいんだろ……」
俺は足元に落ちていた太い枝を拾った。
武器として使うつもりはなかった。ただ、何も持っていないよりはましだと思っただけだ。
ゴブリンの1体が、こちらへ走ってくる。
俺は枝を横に振った。
枝がゴブリンの腹に当たった瞬間、その体が弾き飛ばされた。
「えっ?」
ゴブリンは後ろの仲間を巻き込み、地面を転がっていった。
「コージ、すごいわ!」
「今のは、枝が当たっただけだろ」
「その枝で、あと3体もお願い!」
「そんな簡単に言うなよ。こっちは何が起きてるのか分かってないんだから」
残ったゴブリンたちが同時に襲ってくる。
1体目の棍棒を避け、2体目の腕をつかむ。そのまま勢いを利用して投げると、ゴブリンは木の幹にぶつかった。
3体目はアリスへ向かっていた。
「アリス、下がれ!」
俺は地面を蹴った。
自分でも驚くほど速く動けた。ゴブリンとの距離が一瞬で縮まり、俺の肩がその体にぶつかる。
ゴブリンは悲鳴を上げながら、地面を何度も転がった。
最後の1体が棍棒を振り上げた。
「ああ、もう面倒だな……」
俺は右手を軽く前へ突き出した。
拳がゴブリンの胸に触れる。
それだけで、ゴブリンは数メートル先まで吹き飛んだ。
「……」
俺は自分の手を見た。
「俺、こんなに強かったっけ?」
「さすがオッサン精霊さん!」
「51歳の人間としては、こんなに強くないよ。そこは勘違いするな」
ゴブリンたちは、しばらく地面に転がっていたが、やがて動かなくなった。
アリスは腰の革袋を取り出し、倒れたゴブリンの耳を切り取っていく。
「何してるんだ?」
「討伐証明よ。ゴブリンの右耳を持って帰るの」
「えっ、耳を?」
「そうよ」
アリスは慣れた手つきで耳を切り取った。
俺は思わず顔を背けた。
「うわ……そういうのは、俺には無理だな」
「ゴブリンを一撃で倒したくせに?」
「倒すのと、耳を切り取るのは別だろ。そこを一緒にするなよ」
「変な精霊ね」
「だから人間だって」
最初に倒したゴブリンの分と合わせ、アリスの革袋には5体分の耳が入った。
「これで依頼は達成ね」
「それなら、もう町へ帰ろう。今日は十分だ」
「え?」
アリスは不思議そうな顔をした。
「何よ。まだ魔力には余裕があるわ」
「でも、もう依頼は終わったんだよね?」
「依頼分はね。でも、追加で倒せば、その分の報酬がもらえるわ。魔石も売れるし、冒険者としての評価も上がるの」
「今日はもう十分じゃないか?」
「まだ森の奥へ行けるわ。もっと倒しましょう」
アリスは、さらに奥へ進もうとした。
俺は空を見上げた。
木々の隙間から見える空は、いつの間にか赤く染まっている。夕方だった。
「ちょっと待った、アリス」
「何よ?」
「アリスの魔力が切れたら、俺は元の世界に帰れるんだよね?」
「そうよ」
「そのあと、君はどうする?」
「どうするって?」
「俺が帰ったら、君はこの森にひとりで残されるんでしょ。魔力が切れていたら、精霊も召喚できないよな?」
「ええ」
「異世界漫画の定番だと、魔力を使い切ったら意識を失ったり、急に眠くなったりするんじゃないのか?」
「あっ!」
「いやいやいや。それ、まずいだろ」
アリスは自分の杖を見た。
「魔力が切れたら、私は眠くなることがあるわ」
「あることがあるわ、じゃないだろ! もう夕方なんだぞ。すぐ暗くなって夜になるし、ひとりで、しかも魔力なしで、この森から出られるのか?」
「ヤバいわね……」
「自分のことなのに、他人事みたいに言うなよ」
アリスはしばらく黙り込んだ。
さっきまで追加報酬のことを考えていたのに、今度は自分の帰り道を考え始めたようだった。
「でも、今ならまだ魔力は残っているわ」
「残っているうちに帰るんだ。討伐はもう切り上げ。町へ戻るぞ」
「でも、もっと奥へ行けば……」
「アリス。日本にはな、『命あっての物種』ってことわざがあるんだよ」
「イノチアッテノモノダネ?」
「生きていれば、また次があるってことだ。ここで無理して死んだら、稼いだ報酬だって使えないだろ」
「それは……そうだけど」
「命より大事な報酬はないだろ」
アリスは不満そうに唇を尖らせた。
「精霊さんなのに、ずいぶん人間くさいことを言うのね」
「だから最初から人間だって言ってるよね」
「分かったわ。今日は町へ戻りましょう」
「それがいい。話が早くて助かるよ」
歩き出してすぐ、俺はアリスに町までの距離を聞いた。
「普通に歩いたら、どれくらいかかるの?」
「1時間半くらいかしら」
「1時間半? その頃には完全に夜だよ」
「急いで歩けば、もう少し早く着くわ」
「それでも間に合わないな」
俺はアリスの前で背中を向け、腰を落とした。
「俺が背負ってやる。お前は道案内してくれ」
「えっ、いいの? 精霊さん」
「はぁ……精霊さんじゃないけど、もういい。早く俺の背中に乗れ」
「ありがとう、精霊さん」
アリスは俺の背中へ乗った。
15歳の少女を背負うのは、思ったほど重くなかった。いや、正確に言えば、俺の体が妙に軽く感じていた。
あれだけ腰が痛かったのに、今はアリスを背負っても問題ない。
「しっかりつかまっていろ」
「分かったわ」
俺は走り出した。
足が地面を蹴った瞬間、森の景色が一気に後ろへ流れていった。
「えっ?」
自分でも驚いた。
速い。
トラックで高速道路を走っていたときとは違う。自分の足で走っているのに、車に乗っているような速度が出ていた。
「せ、精霊さん、速すぎる!」
「俺だって驚いてるよ! こんな速度で走った覚えはないんだ!」
「もう少しゆっくり走って!」
「そんなこと言われても、こっちは力の加減が分からないんだよ!」
アリスの腕が、俺の首に強く回される。
背中に当たる体温と、耳元で聞こえる息遣いに、俺は少しだけ戸惑った。
女性を背負って走るなど、これまでの人生で一度もなかった。
しかも相手は異世界の15歳の少女である。
「コージ、前!」
アリスの声で、俺は前を見た。
森の道の先に、ゴブリンが3体立っていた。
先ほど倒した4体とは別の群れらしい。こちらに気づくと、棍棒を構えた。
「止まって!」
「止まれない!」
「ええっ!?」
俺は足を止めようとしたが、勢いがつきすぎていた。
「邪魔だ! そこをどけ、どけ!」
俺はそのままゴブリンたちへ突っ込んだ。
ドン、ドン、ドンッ、と立て続けに体へ衝撃が伝わる。
ゴブリンたちは、俺の体にぶつかった勢いで左右へ跳ね飛ばされた。1体は草むらへ、1体は木の根元へ、もう1体は道の脇へ転がっていった。
俺は数メートル走ってから、ようやく足を止めた。
「……大丈夫?」
背中のアリスに聞く。
「大丈夫。だけど……」
アリスは興奮した声を上げた。
「精霊さん、すごい! 体当たりでゴブリンを蹴散らすなんて!」
「褒めるところ、そこなのか?」
「だって、こんな戦い方をする精霊は初めて見たわ!」
「俺だって、こんな戦い方をするのは初めてだよ。褒められても困るんだがな」
「やっぱり高位精霊なのね」
「その結論になる理由が分からない」
俺はアリスに道を確認した。
「このまま、まっすぐ進めばいいんだな?」
「うん。森の道をまっすぐ行けば町へ出るわ」
「分かった。しっかりつかまっていろよ」
「うん……」
再び走り出してしばらくすると、アリスの返事が小さくなった。
「どうした?」
「なんか、眠くなってきた……」
「それはまずいな。魔力が減っているんじゃないのか?」
「たぶん。コージを速く動かすと、思ったより魔力を使うみたい」
「それを先に言えよ!」
「だって、こんなに速く走れると思わなかったもの」
「俺だって思ってなかったよ!」
アリスの腕から、少しずつ力が抜けていく。
「急ぐぞ。町まであとどれくらい?」
「このままなら……もう少し」
「寝るのは町に着いてからにしろ。しっかりつかまっていろ」
「分かった……」
アリスは俺の背中に頬をつけた。
しばらくして、耳元で小さな声がした。
「なんか精霊さん、お父さんの匂いがする……」
「え、何だって?」
「ううん。なんでもない」
それきり、アリスは黙った。
眠ってしまったのかと思ったが、腕はしっかりと俺の首に回っている。
俺には子供がいない。
だから、「お父さんの匂い」という言葉を聞いても、どう返せばいいのか分からなかった。
ただ、アリスが背中から落ちないように、俺は速度を落とさず走り続けた。
やがて、木々の向こうに小さな明かりが見えた。
「あれが町?」
「うん……リーベルの町よ」
「もう少しだな。何とか間に合いそうだ」
町の入口へ近づく頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
門の左右に設置された松明が、赤い光を放っている。門の前には、槍を持った男が2人立っていた。
「止まれ!」
門番のひとりが声を上げた。
「そのままでは町へ入れないぞ。何者だ!」
「怪しい者じゃありません! この子を町へ運んできただけです!」
俺は立ち止まり、背中のアリスを落とさないように体を支えた。
「この子が魔力を使いすぎたみたいでして。急いで連れてきました」
門番たちは目を凝らし、俺の背中にいるアリスを見た。
「アリスじゃないか!」
「知り合いですか?」
「町の冒険者だ。おい、アリス。大丈夫か?」
「眠いだけ……」
アリスが、かすかな声で答えた。
「魔力切れか。中へ入れ。宿へ運ぶぞ」
門番のひとりが近づいてきた。
「その娘をこちらへ」
「お願いします。助かります」
俺はアリスを背中から降ろそうとした。
そのとき、俺の手のひらが淡い光を帯びた。
「あれ?」
手だけではない。足元から体全体へ、白い光が広がっている。
「コージ……?」
アリスが俺の服をつかんだ。
「どうやら、そろそろ帰る時間みたいだ」
「帰るって、元の世界に?」
「そうだ。君を町まで送り届けたから、俺の仕事はここまでだよ」
「待って。まだお礼をしていないわ」
「お礼はいい。まずは寝て、ちゃんと休め」
「でも、また呼んでもいい?」
「え〜……できれば、もう少し安全なときにしてくれないか」
「分かったわ。危なくなったら呼ぶ」
「それ、順番が逆だろ。危なくなる前に呼んでくれ」
「うん。分かった、精霊さん」
「最後まで精霊さんなんだな」
アリスは眠そうな目を細めた。
「また来てね、コージ」
その声を聞いた直後、視界が白く染まった。
◇
次に目を開けたとき、俺は家の脱衣所に立っていた。
目の前には洗面台があり、鏡には見慣れたオッサンの顔が映っている。
「……戻ってきた?」
風呂場の向こうから、妻の声が聞こえた。
「いつまで脱衣所にいるの? 早くお風呂に入ったら?」
「ああ。今、入るよ」
俺は返事をしながら、壁に掛かった時計を見た。
針は、俺が脱衣所へ入ったときからほとんど進んでいなかった。
異世界で、あれだけ長い時間を過ごしたというのに、日本では数分しか経っていないらしい。
夢だったのかもしれない。
そう思いながら足元を見る。
白かった靴下は泥だらけで、枯れ葉まで張りついていた。
背中には、アリスを背負って走った感触が残っている。
「夢じゃないよな……。まったく、退職を伝えた日に何をしてるんだ、俺は」
俺は泥だらけの靴下を脱いだ。
どうやら、会社を辞めると伝えたその日の最後の配送は、異世界の少女を町まで送り届けることだったらしい。
しかも、車両は俺で、運賃は無料だった。




