第1話 オッサン精霊、召喚される
◇◇◇◇
俺は高野幸治、51歳。
運送会社のドライバーとして、もう30年近く働いてきた。
若い頃は、重たい荷物だろうが長距離運転だろうが、それほど苦にはならなかった。少しくらい寝不足でも、一晩眠れば翌朝には体が動いた。
けれど、50歳を過ぎたあたりから、そうはいかなくなった。
朝起きれば腰が痛い。トラックを降りると膝が痛い。荷物を持てば手首が痛い。どこかひとつが治りかけたと思ったら、今度は別の場所が痛み始める。
もはや働いて給料をもらっているのか、給料を治療費に変えるために働いているのか分からない。
その日も配送を終えて会社へ戻ると、俺は重たい足を引きずるようにして事務所へ向かった。
「社長、すみません。少しお話があるんですが」
机で伝票を確認していた社長が顔を上げた。
「ああ、高野さん。お疲れさま。どうした?」
「突然で申し訳ないんですが、仕事を辞めさせてもらいたいと思いまして……」
「えっ、辞める?」
「はい。もう体のあちこちがガタガタでして。特に腰がひどくて」
それに、給料も安い。何年勤めても、まともな昇給はない。賞与もない。
さすがに、それを全部口にするのはやめておいた。
「そういえば、前から言っていたね。ヘルニア持ちだったか」
「はい。最近は膝も痛いですし、手首も腱鞘炎が出ていまして……」
「そうか。でも、辞めなくても、もう少し体の楽な仕事に回ってもらうこともできるけど」
「お気遣いありがとうございます。でも、もう決めたことですので」
数ヵ月前から何度も考えて出した結論だった。
51歳での転職が簡単ではないことくらい、俺にも分かっている。それでも、このまま今の仕事を続けていれば、次の仕事を探す前に体が動かなくなりそうだった。
社長はしばらく俺の顔を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「そうか。分かった。引き継ぎの人を回すから、仕事を教えてやってほしい」
「はい。分かりました」
思ったよりも、あっさり話は終わった。
長年勤めた会社を辞めるのだから、もう少し何かあるかと思っていた。引き留められたいわけではないが、こうも簡単に受け入れられると、俺の30年は何だったのだろうという気もしてくる。
まあ、会社なんてそんなものか。
「はぁ……腰、痛え」
俺は腰を押さえながら事務所を出た。
◇
「ただいま」
「おかえり」
仕事を終えて家に帰ると、妻は居間でテレビを見ていた。
俺たち夫婦に子供はいない。長年、妻とふたりで暮らしてきた。会話がないわけではないが、新婚の頃のように、その日にあったことを何でも話すような関係でもなくなっている。
けれど、今日は伝えなければならないことがあった。
「あのさ……」
「ん、何?」
「会社、辞めることにしたよ」
妻はテレビから俺へ視線を移した。
「……そう」
「今の会社、昇給もないし、賞与もないだろ。それに、もう腰も限界でな」
「次の仕事は決まっているの?」
「いや、まだ決まってない」
「そう。次は、昇給や賞与のある会社のほうがいいんじゃない」
「そうだな。条件のいいところを探してみるよ」
「先にお風呂に入れば?」
「ああ。そうするよ」
妻の反応は意外と薄かった。
もっといろいろ言われると思っていた。次の仕事も決めずに辞めるなんて何を考えているの、と責められることも覚悟していた。
しかし、妻はそれ以上何も言わず、またテレビへ顔を戻した。
怒っているのか。それとも、俺が仕事を辞めたがっていたことに気づいていたのか。
長年一緒に暮らしていても、分からないことはある。
俺は着替えを持って風呂場へ向かった。
脱衣所に入り、服を脱ぐ前に何気なく鏡を見る。
そこには、疲れた顔のオッサンが映っていた。
先月の誕生日で51歳になった。頭頂部の髪はだいぶ薄くなり、長年運転席で日差しを浴びてきた顔にはシミが増えている。裸眼で生活できてはいるが、最近は少しずつ視力も落ちてきた。スマートフォンの小さな文字を読むときには、無意識に画面を顔から遠ざけてしまう。
「歳食ったな……」
口に出してみたところで、若返るわけでもない。
仕方ないか。
そう思った瞬間、ふいに目の前が暗くなった。
「あれ?」
立ちくらみだろうか。
壁に手をつこうとしたが、手のひらは何にも触れなかった。それどころか、足の裏から床の感触まで消えている。
体がふわりと浮き上がった。
「えっ?」
鏡も、洗面台も、脱衣籠も消えた。
代わりに白い光が視界いっぱいに広がる。
次の瞬間、俺は湿った土の上に立っていた。
「……は?」
周囲には太い木が何本も生えている。頭上を覆う枝葉の隙間から、昼下がりの強い日差しが差し込んでいた。。湿った土と草の匂いが鼻に入ってくる。
風呂場の脱衣所にいたはずなのに、どう見ても森の中だった。
しかも靴を脱いだあとだったので、俺は靴下のままだ。湿った土が靴下に染み込み、何とも気持ちが悪い。
目の前には、杖を握った少女が立っていた。
年齢は中学生か高校生くらいだろう。明るい金色の髪を肩のあたりで切りそろえ、膝上丈のスカートに革製の胸当てを身につけている。右手に持った杖の先には、青白い光が残っていた。
少女は青い目を大きく見開き、俺を上から下まで眺めた。
「えっ……おじさんの精霊さん?」
「え?」
おじさんと言われたことより、精霊さんと言われたことのほうが気になった。
少女は戸惑った様子で杖と俺を見比べる。しかし、すぐに何かを納得したらしく、小さくうなずいた。
「ま、まあ、いいわ。オッサン精霊さん、やっちゃってください!」
「な、何を?」
「何って、ゴブリンをよ!」
「ゴブリン? オッサン精霊さん? いや、違う違う。俺は精霊じゃないから」
「そんなこと言っている場合じゃないわ! あっ、後ろ! 危ない!」
「え、後ろ?」
少女が俺の背後を指さした。
「ゴブリンが!」
「ゴブリン?」
ゴブリンといえば、異世界漫画やファンタジー作品によく出てくる、あの緑色の小鬼だろうか。
「ゴブリンって、あのゴブ――痛っ」
腰のあたりに、軽い衝撃があった。
振り返ると、そこには緑色の小さな化け物が3体いた。
「うわっ、気持ち悪っ! しかも本当に緑だ!」
背丈は小学校低学年の子供くらいしかない。だが、顔は子供とは似ても似つかないほど醜く、尖った耳の下まで裂けた口から黄色い歯を覗かせている。身につけているのは汚れた腰布だけで、手には粗末な棍棒を持っていた。
そのうちの1体が、もう一度俺の腰を棍棒で殴った。
「痛っ。おい、そこは本当に痛いところなんだぞ」
ヘルニア持ちの腰を狙うとは、嫌なゴブリンである。
ただ、不思議なことに、思ったほど痛くはなかった。木の棍棒で殴られたのだから、もっと強い痛みがあってもよさそうなのに、子供に棒で叩かれた程度にしか感じない。
「せ、精霊さん! 大丈夫!? ゴブリンに殴られているわよ!」
「見れば分かるよ」
ゴブリンたちは俺が反撃しないと分かったのか、調子に乗って何度も棍棒を振り回してきた。
腰、尻、太腿。
それほど痛くはないが、鬱陶しい。
「少し痛いくらいだな。こんな小学生くらいの力で叩かれても――って、いつまで殴ってるんだよ」
俺は一番近くにいたゴブリンの頭を、右手で軽くはたいた。
バンッ、とおよそ平手打ちとは思えない音が森に響いた。
叩かれたゴブリンの体が、勢いよく横へ飛んでいく。
「えっ?」
ゴブリンは数メートル先の立木に激突した。
鈍い音を立て、そのままずるずると地面へ崩れ落ちる。
俺は自分の右手を見た。
「いやいや、軽く叩いただけだぞ」
長年の肉体労働で、同年代より多少は腕力があるかもしれない。しかし、ゴブリンを立木まで吹き飛ばすような力があるはずはなかった。
残った2体のゴブリンも、少女も、口を開けたまま固まっている。
最初に我に返ったのは少女だった。
「さ、さすが私が召喚した精霊さんね。すごい力だわ」
得意そうなことを言っているが、その顔は明らかに引きつっていた。
「君も驚いてるじゃないか」
「お、驚いてなんかいないわよ。最初からこれくらいできると思っていたもの」
それは嘘だろう。
俺が少女と話している間に、残った2体のゴブリンは互いに顔を見合わせた。そして、短い悲鳴を上げると、背中を向けて森の奥へ逃げ出した。
「あっ、ゴブリンが逃げるわ! 精霊さん、逃がさないで! やっちゃってください!」
「え〜。もういいじゃない。気持ち悪いし」
「よくないわよ! あれを倒すために来たんだから!」
「それより、その『やっちゃってください』って、何かあれみたいだよね」
「何よ、あれって?」
「ええと、何だっけ。ほら、時代劇に出てくる悪い商人が、立場が悪くなったときに言うやつ。『先生、お願いしやす』って」
「何の話をしてるのよ」
「そしたら隣の部屋から、腕利きの用心棒が出てくるんだけどね」
「そんなの知らないわよ! それよりゴブリンが逃げちゃう!」
「え、知らないの。まあ、世代が違うか」
そんな話をしているうちに、2体のゴブリンの姿は木々の向こうへ消えてしまった。
「ああ、逃げちゃった。せっかくの獲物だったのに、もう……」
少女は悔しそうに頬を膨らませた。
「ゴブリンが獲物? 君、大丈夫?」
「私は大丈夫よ。それより精霊さんこそ、あれだけ棍棒で殴られて平気なの?」
「まあ、少しだけ痛かったけど、所詮は小学生くらいの力だったからね。長年の肉体労働で鍛えた体は伊達じゃないよ。あちこちガタは来てるけど」
俺は殴られた腰をさすった。
「持っていた武器が刃物だったら、さすがに危なかっただろうけど」
「ショーガクセイって何?」
「そこからか……」
やはり、ここは日本ではないらしい。
俺が異世界漫画で読んできた光景に、あまりにもよく似ている。
「それで、ここはどこなの?」
「ここ? リーベルの町から西にある森よ」
「リーベル……聞いたことないな。日本じゃないよね?」
「ニホン? そんな国、聞いたことないわ」
予想していた答えだったが、実際に聞くと頭が痛くなる。
俺は風呂に入ろうとしていただけなのだ。どうして靴下姿で異世界の森に立ち、ゴブリンに腰を殴られなければならないのか。
「ところで、君は誰?」
「まだ名乗っていなかったわね。私はアリス。冒険者で、召喚師よ」
少女――アリスは胸を張った。
「冒険者って……君、ひとりでこんな森に来たの?」
「そうよ。ゴブリンの討伐依頼を受けたの」
「親御さんは?」
「どうしてそこで両親が出てくるのよ」
「いや、どう見ても子供だから」
「子供じゃないわ。私は15歳よ」
「やっぱり子供じゃない」
「15歳は成人よ!」
そう言われても、俺の感覚では中学生か高校1年生だ。そんな少女が、ひとりでゴブリン退治に来ている。
この世界では普通なのかもしれないが、俺には危なっかしくて仕方がない。
「それで、どうして俺を呼んだの?」
「いつもどおり精霊を召喚しただけよ」
「いつもは何が出てくるの?」
「火の精霊とか、風の精霊とか。呼び出した精霊に戦ってもらうの」
「今日は俺が出てきたと」
「そういうことね」
「そういうことね、じゃないよ。俺、ただのドライバーだから。精霊じゃないし」
「ドライバー?でも、私の召喚魔法で出てきたじゃない」
「そこが俺にも分からないんだよ」
俺はもう一度、周囲を見回した。
白い光も魔法陣らしきものも消えている。来たときと同じ場所へ立てば帰れる、という雰囲気でもない。
「それで、俺はどうすれば家に帰れるの?」
「帰る?」
アリスは不思議そうに首を傾げた。
「精霊さんは、私が魔力を使い切れば自然に帰るわよ」
「え〜、そうなのか。面倒だな。異世界漫画だと、帰還魔法なんかで送り返すんじゃないのか?」
「そんなの知らないわよ!」
アリスは苛立ったように言うと、ゴブリンたちが逃げていった方向へ顔を向けた。
「仕方ないわね。魔力を使い切るためにも、逃げたゴブリンを追うわよ」
「え〜、追いかけるのか? 俺、腰が痛いんだけどな」
「さっきゴブリンを吹き飛ばしたじゃない!」
「それと腰痛は別なんだよ」
「いいから来て! 私の精霊なんだから、召喚師の命令を聞きなさい!」
「いや、だから精霊じゃないって言ってるだろ」
アリスは俺の話を聞かず、ゴブリンが逃げた方向へ歩き始めた。
放っておいてもいい気はする。
けれど、いくらこの世界では成人だと言われても、15歳の少女を化け物の出る森にひとりで置いていくのは気が引けた。
第一、俺ひとりでは帰り道どころか、ここがどこなのかも分からない。
「はぁ……面倒だな」
俺は湿って気持ちの悪い靴下のまま、アリスのあとを追った。
長年勤めた会社を、ようやく辞めると伝えた日。
俺は異世界で、15歳の召喚師に精霊として雇われることになった。
しかも、雇用条件はまだ何ひとつ聞いていなかった。
ここまで第1話を読んでいただき、ありがとうございます。
今回、新連載として
『会社を辞めると伝えた51歳トラックドライバー、異世界少女の召喚精霊になる』
を始めることになりました。
長年トラックドライバーを務めてきた51歳の高野幸治と、彼を精霊だと思い込んでいる15歳の召喚師アリス。
人間なのに精霊扱いされる幸治と、ちょっと無茶なアリスの噛み合わない異世界コメディを、楽しく書いていきたいと思っています。
第1話を最後まで読んでくださったこと、本当に感謝しています。
これから幸治とアリスがどんな冒険を繰り広げるのか、ぜひ見守っていただけるとうれしいです。
今後とも、本作をよろしくお願いいたします。




