第28話 オッサン精霊、呼び出しに待ったをかける
◇◇◇◇
洗濯物を干し終え、居間へ戻ると、スマートフォンが鳴った。
画面には、会社の同僚の名前が出ている。
「はい、高野です」
『高野さん、お疲れさまです。今、大丈夫ですか?』
「ああ。洗濯物を干したところだよ」
『すっかり家事担当ですね』
「荷物を積む仕事から、洗濯物を干す仕事に変わった。今のところ、落としたら困るのは靴下くらいだな」
電話の向こうで笑い声がした。
『送別会の日が決まったので、ご連絡しました』
「お、ありがとう」
『来週の土曜日、夜六時からです。駅前の居酒屋を予約しました。場所はあとで送りますね』
「分かった。六時だな」
『森本さんも来ますよ』
「そうか。あの人、その後はどうだ?」
『順調ですよ。配達先も覚えてますし、分からないことはちゃんと確認してます』
「そりゃよかった」
俺はソファへ腰を下ろした。
最後の出勤日には大丈夫だと思っていたが、実際に一人で回り始めてどうなったかは、やはり気になっていた。
『高野さんがいなくても、ちゃんと回ってますよ』
「ああ。それを聞けて安心した」
『でも、やっぱり寂しいですね』
「仕事が回らないより、その言葉のほうが嬉しいよ」
『また会社にも顔を出してください』
「来月末には、返すものを持っていくからな」
『それ以外でもですよ』
「ああ。近くへ行ったら寄るよ。ただし、寄った途端に積み込みを頼むなよ」
『それは分かりませんね』
「そこは分かってくれ。菓子を持って行って、荷物を持たされて帰るのは割に合わん」
同僚が笑った。
俺も笑いながら、窓の外へ目を向ける。
干したシャツが風に揺れていた。
会社へ行かなくなって、まだ数日だ。
それでも、こうして電話が来るのはありがたい。
仕事を離れたからといって、一緒に過ごした時間までなくなるわけではないのだ。
そう思ったときだった。
胸の奥に、かすかな感覚が生まれた。
「……お」
『どうしました?』
「いや、何でもない。続けてくれ」
アリスだ。
軽く引っ張られるような、召喚前の感覚。
だが、今は電話の途中である。
このまま消えたら、持っているスマートフォンごと異世界へ行くことになる。
同僚の声が突然途切れ、その後、俺が数分間何も答えなくなる。
それは困る。
俺は胸の奥へ意識を向けた。
アリス、今、人と話してるんだ。
終わるまで、ちょっと待ってくれ。
そう伝えるつもりで、心の中で念じる。
胸の感覚が、ふっと弱まった。
消えたわけではない。
ただ、ぐいぐい引かれるような感じが、少し遠のいた。
俺は自分の足元を見た。
白い光は出ていない。
『それで、参加する人なんですけど――』
「ああ。うん」
俺は相づちを打ちながら、もう一度、足元を確かめた。
まだ、居間の床だ。
どうやら、待ってもらえているらしい。
◇
電話を終え、送られてきた店の場所を確認した。
日時を忘れないように記録し、スマートフォンをテーブルへ置く。
「……さて」
胸の奥には、まだ薄い感覚が残っていた。
俺は立ち上がり、そこへ意識を向ける。
アリス、もう大丈夫だぞ。
少し待つ。
感覚が強くなり、足元に白い光が広がった。
「通じたのか……?」
驚いている間に、体がふわりと浮いた。
今までなら、呼ばれたらそのまま行くしかなかった。
ところが今日は、待ってくれと思ったら待ってもらえた。
これが本当に通じているなら、大きな進歩だ。
少なくとも、俺の出勤に、本人の都合が反映され始めたらしい。
◇
「おはよう、コージ!」
いつものギルド前で、アリスが迎えてくれた。
「ああ、おはよう。さっき、何か感じたか?」
「ええ! コージ、待ってほしいって思ったでしょう?」
「思った。日本で人と話してたんだよ」
アリスは嬉しそうにうなずいた。
「言葉が聞こえたわけじゃないんだけど、今は呼ばないほうがいいって感じたの。それから、もう呼んでもいいって分かったわ」
「やっぱり通じたのか」
俺は自分の胸元を見た。
「これは助かるな。電話の途中だったから、急に消えたら困るところだったよ」
「デンワ?」
「ああ。離れたところにいる人と話せる、日本の道具だよ」
「離れていても話せるの?」
「そう。今日は、会社の人が送別会の連絡をくれてな」
アリスはまだ何か聞きたそうだったが、まずは俺の胸元へ目を向けた。
「今の私たちにも、少し似ているのね」
「なるほどな。言葉までは聞こえないけど、用件の一部は通じたわけか」
「これからは、ちゃんと確かめて呼べるわね!」
「そう。それだよ」
俺はうなずき、念を押した。
「呼ぶ回数を増やす方向へ使うなよ」
「分かってるわよ」
「今まで寝床や病院から呼ばれた俺としては、そこは大事なんだ」
「今日は待ったでしょう?」
「ああ。だから、ありがたいって言ってるんだよ」
アリスは少し得意そうに笑った。
俺も笑い返す。
こちらの都合を伝えられる。
アリスが、それを受け取って待ってくれる。
仕組みも大事だが、そのほうが嬉しかった。
◇
「今日は、村へ荷物を届ける依頼にしようと思ってるの」
ギルドへ入りながら、アリスが言った。
「配達か」
「ええ。町の治療院から、村の診療所へ届けるのよ」
「結局、慣れた仕事に戻ってきたな」
「コージ、得意でしょう?」
「得意だよ。だからこそ、荷物と届け先は先に確認するぞ」
依頼書を持って受付へ向かう。
行き先は、東の街道沿いにある小さな村だった。
徒歩で行って戻れる距離で、最近は街道上に魔物が出たという報告もないらしい。
「包帯と塗り薬ですね。治療院で荷物を受け取って、こちらの診療所へ届けてください」
受付の女性が地図の一点を指した。
「受け取った方の署名をもらい、この用紙を返していただけば完了です」
「了解。届けた証明が必要なんだな」
「はい」
俺はアリスへ目を向けた。
「討伐証明の耳より、こっちの証明のほうが気楽だよ」
「切り取らなくていいものね」
「そう。受け取りましたって書いてもらえれば済む。俺にとっては理想的だ」
装備を取り出し、胸当てと革靴、頭の防具を着ける。
メイスも持った。
魔物の目撃がないからといって、必ず出ないとは限らない。
ただ、今日は荷物を無事に届けることが仕事だ。
できれば武器は、そのまま持って帰りたい。
◇
治療院では、職員が二つの荷物を用意して待っていた。
丈夫な布で包まれ、背負うための紐がついている。
「こちらが包帯で、こちらが塗り薬です。薬の容器は中で動かないように詰めてあります」
「数を一緒に確認してもいいか?」
「もちろんです」
包みを開いてもらい、依頼書と照らし合わせる。
包帯の束と、蓋をしっかり閉めた薬の容器。
数は合っていた。
「この薬は、横になっても大丈夫か?」
「蓋は閉めてありますが、なるべく立てたままでお願いします」
「分かった。雨に濡れると困るものもあるな」
「ええ。上から覆う布も用意してあります」
「助かるよ」
俺は薬の荷物を背負い、包帯のほうはアリスが持った。
彼女の紐が肩へ食い込んでいないか確かめる。
「重くないか?」
「これくらいなら大丈夫よ」
「途中でつらくなったら言えよ。持ち替えればいいからな」
「分かったわ」
職員が俺たちを見て、ほっとしたように笑った。
「よろしくお願いします」
「ああ。確かに預かったよ」
荷物を受け取ったら、無事に渡すまでが仕事だ。
場所が異世界になっても、そこは変わらない。
◇
町を出て、東の街道を歩く。
道は比較的なだらかで、荷物を背負っていても進みやすかった。
草地の向こうには畑が見える。
アリスは俺の横を歩きながら、朝の話を思い出したらしい。
「ねえ、コージ。送別会って何?」
「ああ。会社を辞める人なんかを、みんなで送り出す集まりだよ。一緒に飯を食ったり、今までの話をしたりするんだ」
「コージのために、みんなが集まるの?」
「そうだな。ありがたいことだよ」
「辞めたら、もう会えなくなるわけじゃないんでしょう?」
「会おうと思えば会えるよ。ただ、毎日顔を合わせることはなくなるからな。区切りみたいなもんだ」
アリスは少し考え、うなずいた。
「きっと、みんなコージが好きなのね」
「……そんなまっすぐ言われると、返事に困るな」
「違うの?」
「違わないと思いたいけどな。長く一緒に働いてきた人たちだから、いろいろ助けてもらったよ」
誰かが休めば、ほかの誰かが配達を受け持つ。
荷物が多ければ、積み込みを手伝う。
俺がフォローすることもあったし、俺が助けられることもあった。
楽な仕事ではなかった。
それでも、人には恵まれていたと思う。
「私も、コージにお疲れさまって言いたいわ」
「君には、もう何度も言ってもらってるよ」
「でも、送別会では言えないでしょう?」
「ああ。日本の集まりだからな」
「じゃあ、ここで言うわ。長い間、お仕事お疲れさま」
アリスが、少し改まって言った。
俺は顔をそらし、街道の先を見る。
「……ありがとよ」
こういう言葉に、どうにも弱くなった気がする。
歳のせいか。
それとも、長く続けてきた仕事を離れたせいだろうか。
「これからは、少し休んでね」
今、荷物を背負って配達してるんだけどな」
「あ……」
アリスが俺の背中を見て、困った顔をした。
「これは、休んだあとで?」
「今運んでる荷物に、順番待ちをさせるなよ」
俺が笑うと、アリスも笑った。
◇
村は、街道から少し入ったところにあった。
低い柵の内側に家が並び、畑から戻ってくる人たちの姿が見える。
道を尋ねると、診療所はすぐに分かった。
白く塗られた壁の、小さな建物だ。
「町の治療院から、荷物を届けに来たよ」
入口で声をかけると、中から女性の職員が出てきた。
「包帯とお薬ですね?」
「ああ。アリス、こっちへ置こう」
二人で荷物を下ろし、包みを開く。
職員と一緒に数を確認した。
容器の蓋も緩んでいない。包帯も濡れていない。
「助かりました。包帯が少なくなっていて、心配していたんです」
「間に合ってよかったよ」
「ありがとうございます」
職員は受領の用紙へ署名し、俺たちへ渡した。
俺は書かれている場所と名前を確認し、アリスに預ける。
「これで配達完了だな」
「ええ」
アリスも、ほっとした顔でうなずいた。
「よければ、裏の休憩所で休んでいってください。お茶を用意しますので」
「いいのか?」
「もちろんです。歩いて来てくださったんでしょう?」
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えるよ」
◇
建物の裏には、屋根付きの休憩所があった。
木の机と長椅子が置かれ、庭を抜ける風が心地いい。
腰を下ろし、俺は頭の防具を外した。
「ふう。着いたな」
「荷物、傷めずに届けられてよかったわ」
「ああ。薬の容器も無事だったしな」
しばらくすると、職員が茶と菓子を運んできてくれた。
杯から、白い湯気が立っている。
「疲労の回復を助ける薬草茶です。こちらのお菓子もどうぞ」
木の皿には、葉に包まれたものが二つ載っていた。
「ありがとう。遠慮なくいただくよ」
俺は葉の包みを手に取った。
「ちまきみたいだな」
「チマキ?」
アリスが聞き返す。
「日本にも、こんなふうに葉で包んだ食べ物があるんだよ」
包みを開くと、白い生地が現れた。
柔らかく、指先に少し弾力が伝わってくる。
ひと口食べると、もちもちした食感だった。
中には、甘く煮た木の実が入っている。
「お、うまいな。甘すぎないのがいい」
「こっちのお茶にも合うわよ」
アリスに勧められ、茶を飲んだ。
草の爽やかな香りが、鼻へ抜ける。
少し苦みはあるが、菓子のあとにはちょうどよかった。
「どう? 疲れが取れそう?」
「座って茶を飲めるだけでも、だいぶ違うよ」
職員は俺たちに笑顔を向け、建物へ戻っていった。
アリスが、その背中を見送る。
「荷物を届けるだけでも、あんなに喜んでもらえるのね」
「ああ。運んでるときはただの箱でも、待ってる人には必要なものだからな」
俺は杯を机へ置いた。
「包帯が届かなきゃ、怪我をした人が困る。薬も同じだ。ちゃんと届いて、初めて使えるんだよ」
「討伐じゃなくても、人を助けられるんだわ」
「そういうことだな」
長年やってきた仕事だ。
だから、珍しいことをしたわけではない。
それでも、こうして直接礼を言われると、やっぱり嬉しかった。
アリスが薬草茶を飲み、何か思いついたように顔を上げた。
「これ、本契約になったら、コージにも役立ちそうね」
「体力を回復できるからか?」
「ええ! 休んで元気になったら、もう一件届けられるでしょう?」
「休憩を追加配送の準備にするな! 今は、この一件を無事に終えた余韻を味わわせてくれ!」
アリスが笑い、菓子をもうひと口食べた。
俺も残りを口へ運ぶ。
まだ眷属契約を結んでもいないのに、給油後の運行予定を組まれかけている。
この茶が本当に効いても、少し疲れた顔をしておいたほうがいいのかもしれない。
◇
診療所の職員へ礼を言い、町へ戻った。
行きと違って、背中には荷物がない。
受領の用紙はアリスが持っている。
「帰りは軽いな」
「私も。包帯だけでも、ずっと背負っていると肩が疲れるわね」
「そうだろ。持った瞬間に軽くても、運ぶ時間が長けりゃ疲れるんだよ」
「コージは、いつも重いものを運んでくれるものね」
「こっちじゃ力が出るからな。ただ、楽だからって、限界がないわけでもないだろうし」
本契約の話を聞いてから、自分の体力も少し気になるようになった。
今はアリスの魔力が滞在を支えている。
それが俺の体力へ変わるなら、疲れ方を覚えなければならない。
走れるから走り、持てるから持つだけでは、そのうち困るかもしれない。
「本契約になったら、ちゃんと休もうね」
アリスが言った。
「さっきは、もう一件届けられるって言ってなかったか?」
「それは、元気だったらよ」
「元気かどうかの判定は、俺にさせてくれよ」
「分かったわ」
アリスは素直にうなずいた。
俺は少し笑い、街道の先へ目を向ける。
今日は魔物に会わずに済んだ。
薬も包帯も届いた。
帰り道で、お茶のうまさについて話せる。
こういう仕事も、悪くないものだ。
◇
ギルドへ戻り、受領の用紙を提出した。
受付の女性が確認し、報酬を用意してくれる。
「お疲れさまでした。こちらで完了です」
「ああ。向こうでも喜んでもらえたよ」
「それはよかったです」
アリスが報酬を受け取り、俺たちは貸しスペースへ向かった。
装備を外して片づける。
メイスは、今日も振らずに終わった。
「今日は出番がなくて何よりだな」
「メイスが?」
「ああ。何も壊さず、一日付き合ってくれた」
「コージが使わなかっただけでしょう?」
「使わずに済んだんだから、それが一番だよ」
その後、食堂で休みながら、アリスの魔力の残りを確かめた。
以前より維持の負担は軽くなっているが、減らないわけではない。
日が傾き、アリスが少し疲れてきたと言ったころ、俺の指先に光が浮かんだ。
「そろそろ帰るな」
「ええ。コージ、今日は待ってくれてありがとう」
「待ってもらったのは俺だろ」
「でも、ちゃんと来てくれたもの」
「行けるって返事したからな」
アリスが嬉しそうに笑った。
呼ばれたから来た。
それは今までと同じだ。
ただ、今日は少し違う。
自分の用事を終え、もう大丈夫だと伝えてから来られた。
その違いは、俺にとって小さくなかった。
「またな。ゆっくり休めよ」
「コージもね!」
白い光が、俺たちの間に広がった。
◇
居間へ戻ると、テーブルの上にスマートフォンがあった。
画面をつけ、時刻を確認する。
やはり、ほんの数分しか進んでいない。
同僚から届いた送別会の案内が、まだ新しい通知として残っていた。
俺はもう一度日時を確かめ、妻に伝えることを頭へ入れた。
◇
夕食のとき、妻に送別会の話をした。
「来週の土曜日、六時からになったよ。駅前の居酒屋だ」
「そう。行きは何時に出る?」
「五時半くらいでどうだ?」
「分かったわ。帰りは、時間が分かったら連絡してね」
「ああ。頼むよ」
妻はうなずき、味噌汁を飲んだ。
「森本さんも来るの?」
「来るってさ。仕事も順調らしい。ちゃんと回れてるって聞いて、安心したよ」
「よかったわね」
「ああ。引き継ぎが終わっても、どうしてるかは気になるからな」
俺は箸を伸ばし、焼き魚をひと口食べた。
会社の人たちには、送別会で会える。
森本さんとも、またゲームの話ができるだろう。
ただし、配達した薬や、回復する薬草茶の話まで口を滑らせないようにしなければならない。
「迎えの電話、忘れないでよ」
「分かってる。待ってくれって言うのも、今日はちゃんと通じたしな」
妻が箸を止めた。
「誰に?」
「……いや、電話の話だよ」
「私、まだ待ってないけど?」
「ああ。会社の人から電話が来たときの話だ」
「電話を待ってもらったの?」
「そういう……用事の順番の話だよ」
妻は少し首を傾げた。
「あなた、休みに入ってからも忙しそうね」
「家事をすると、いろいろあるんだよ」
「電話しながら洗濯してたの?」
「まあ、そんなところだ」
「落ち着いて、一つずつやればいいじゃない」
「……そうだな」
それは、俺が仕事で何度も人に言ってきた言葉だった。
どうやら家では、自分が言われる側らしい。
アリスには、ようやく「待ってくれ」が伝わるようになった。
ただし、妻の質問に答えるまでの時間を延ばせる機能は、まだ実装されていなかった。




