第24話 オッサン精霊、有給初日も呼び出される
◇◇◇◇
目が覚めると、部屋はまだ薄暗かった。
枕元の時計を見る。
いつも仕事へ行く日に起きていた時間だ。
「……今日から休みなんだけどな」
昨夜、妻には「明日はゆっくり寝ていれば」と言われた。
俺も、そのつもりだった。
ところが、長年染みついた習慣というのは、そう簡単には抜けないらしい。
会社へ行かなくてよくなっても、体内時計まで有給休暇に入るわけではなかった。
もう一度、目を閉じてみる。
眠れない。
腰の位置を変え、布団を肩まで引き上げる。
やっぱり眠れない。
「出勤する日は、あんなに布団から出たくなかったのにな……」
俺は妻を起こさないよう、そっと寝床を抜け出した。
◇
顔を洗い、台所へ向かう。
冷蔵庫には卵とウインナー、昨夜の残りのほうれん草があった。
米は妻が炊飯器を予約してくれていたらしく、ちょうど炊き上がっている。
「よし。まずは弁当だな」
今日は俺の弁当はいらない。
その代わり、妻の分を作ることにした。
卵を割って溶き、少し甘めの卵焼きを焼く。ウインナーに切れ目を入れ、フライパンで転がしながら火を通した。
ほうれん草は水気を絞り、醤油とすりごまで和える。
別に、料理ができないわけではない。
模型作りが趣味なだけあって、手先は器用なほうだ。料理もするし、洗濯も掃除も、ひととおりできる。
仕事をしていたころは妻に任せることが多かったが、今日からは時間がある。
弁当箱にご飯を詰め、おかずを並べた。
「卵焼きはこっちで、隙間にほうれん草か」
どう詰めれば収まりがいいか、つい考えてしまう。
荷物の積み込みは昨日で終わったはずなのに、今朝は卵焼きの積み込みから始まっていた。
まあ、こっちは伝票も荷締めもいらない。
弁当を冷ましている間に、朝食の支度も進める。
味噌汁を温め、納豆と海苔を出す。
残しておいた卵焼きを皿に盛っていると、背後から声がした。
「あら。もう起きてたの?」
妻が台所の入り口に立っていた。
「ああ。いつもの時間に目が覚めちまってな」
「寝ていればいいのに。今日は仕事がないんでしょう?」
「頭では分かってるんだけど、体のほうがまだ出勤する気らしい」
「真面目ねえ」
「体内時計がな。休暇の申請を受け付けてくれんのだよ」
妻は小さく笑い、調理台の上へ目を向けた。
「それ、私のお弁当?」
「ああ。朝飯も、もうできるぞ」
「作ってくれたの?」
「どうせ起きちまったからな。それに、今日から家のことは俺がやろうと思ってる」
「家のこと?」
「掃除とか洗濯とか、飯の支度とか。君は仕事に行くんだろ。俺だけ家にいて、何もしないってわけにもいかんからな」
これは、前から決めていたことだった。
俺が休みに入っても、妻の仕事が休みになるわけではない。
今まで弁当を作ってもらい、疲れて帰れば夕飯が用意されていた。
時間ができたのだから、今度は俺がやればいい。
「でも、体を休めるための休みでしょう?」
「腰に響くことは無理しないさ。休み休みやるよ」
妻は弁当箱を覗き込み、表情を緩めた。
「それはありがたいわね」
「おう。安心して仕事に行ってくれ」
「じゃあ、洗濯物がたまってるからお願いしていい?」
「ああ」
「掃除機もかけておいてくれると助かるわ」
「……仕事の割り振りが早いな」
「家のことはやるって言ったでしょう?」
「言ったよ。まだ朝飯も食ってないけどな」
妻は笑いながら、食卓へ箸を並べ始めた。
俺も茶碗にご飯をよそう。
会社へ行かなくていい朝は、思っていたよりも、いつもどおりに始まった。
◇
朝食を終え、妻が出かける支度をしている間に、弁当の蓋を閉じた。
「はい。忘れずに持っていけよ」
「ありがとう。帰ったら感想を言うわね」
「お手柔らかにな。弁当まで査定されたら、気が休まらん」
「おいしかったら、明日もお願いしようと思って」
「もう継続契約の話かよ」
妻は笑いながら弁当を受け取った。
玄関まで見送り、「気をつけてな」と声をかける。
「あなたも無理しないでね」
「ああ。分かってるよ」
扉が閉まると、家の中が静かになった。
今までは俺のほうが先に出ることが多かった。
平日の朝に妻を見送り、ひとりで家に残るのは、何だか落ち着かない。
「さて。やるか」
食器を洗い、洗濯機を回す。
風呂は昨夜、入ったあとに掃除してある。
洗濯が終わるまでに掃除機をかけておこう。
居間から廊下へ進み、掃除機の先を動かしていたときだった。
「……ん?」
胸の奥を、何かが軽く引っ張ったような気がした。
痛くはない。
ただ、妙に覚えのある感覚だった。
白い光に包まれる直前の、あのふわりとした感じ。
それが、ほんの薄く体の内側に広がっている。
「これ……アリスか?」
声が聞こえたわけではない。
それなのに、なぜかアリスが俺を呼ぼうとしている気がした。
周囲を見回す。
いつもの廊下だ。掃除機も動いている。
まだ、召喚はされていない。
「おいおい。今までは、呼ばれてから気づいてたんだけどな」
俺は掃除機を止めた。
静かになっても、その感覚は消えない。
むしろ、少しずつはっきりしてきた。
「……来るなら、ちょっと待ってくれよ」
コンセントを抜き、コードを巻き取る。
掃除機を廊下の端へ寄せたところで、足元に白い光が広がった。
「本当に来たよ……」
体がふわりと浮き、家の景色が光の向こうへ消えていった。
◇
次に足が触れたのは、見慣れた石畳だった。
冒険者ギルドの前。
目の前には、杖を持ったアリスがいる。
「おはよう、コージ!」
いつもの元気な笑顔だった。
「ああ、おはよう。今日は、ちょっと変だったぞ」
「変?」
「呼ばれる前に、君が呼ぼうとしてるのが分かったんだよ」
アリスは目を丸くした。
「召喚される前に?」
「そう。家で掃除機をかけてたら、そろそろ来るなって感じがしてな。おかげで電源を切って、片づける時間はあった」
「すごいわ! 私が呼ぶのを感じてくれたのね!」
「そうみたいだな。今までそんなことはなかったんだけど」
「私たちの契約同調が、もっと高まったのかもしれないわ」
「そういえば、しばらく確認してなかったな。ステータスオープン」
俺の目の前に、薄い光の板が現れた。
【名前】高野幸治
【種族】人間
【状態】召喚中
【契約】召喚仮契約
【召喚主】アリス
【契約同調】強い同調
「……お、変わってるぞ」
「何が?」
「契約同調だよ。前は『高まっている』だったのに、今は『強い同調』になってる」
アリスの顔が、ぱっと明るくなった。
「本当? それで、私が呼ぶのを感じられたのかもしれないわね!」
「なるほどな。いきなり連れてこられるより、先に分かるのは助かるよ」
俺はもう一度、契約の項目を見た。
「ただ、これだけ同調しても、まだ仮契約なんだな」
「本契約に近づいているんだと思うわ」
「そうか。そっちも、条件はちゃんと聞いてからだからな」
「分かってるわよ」
アリスはうなずいたあと、嬉しそうに俺を見上げた。
「でも、これからは呼ぶ前に準備ができるのね!」
「毎回分かるかは、まだ知らんぞ。今日は掃除機を片づけるくらいの時間しかなかったしな」
「それでも、よかったわ。もっと呼びやすくなるもの!」
「呼び出し回数を増やすための機能じゃないぞ! 事前連絡が来るようになっただけで、出勤日を増やすな!」
俺はステータス画面を閉じ、ため息をついた。
アリスは俺のため息を気にする様子もなく、ギルドの入り口を指さした。
「今日は、果樹園の魔物を討伐するのよ」
「果樹園? 果物の収穫を手伝う仕事じゃないのか」
「収穫を邪魔する魔物を倒す仕事よ」
「同じ場所でも、仕事内容でずいぶん気分が変わるな……」
俺はアリスと並んでギルドへ入った。
朝のギルドには、依頼を選ぶ冒険者たちが集まっていた。
アリスは掲示板へ向かい、一枚の依頼書を取る。
「これよ。町の北側にある果樹園で、スプリングバックが二体、確認されているんですって」
「スプリングバック? 初めて聞く名前だな」
「鹿に似た魔物よ。果実や若い葉を食べるの」
「それだけ聞けば、普通の鹿みたいだけどな」
「後ろ脚が強くて、高く跳び上がるわ。それから、角を向けて落ちてくるの」
「……待て。その説明、どこかで聞いたぞ」
森本さんが話していた、リープホーンを思い出した。
高く跳び、頭上から角を突き立ててくる魔物。
名前は違うが、攻撃の仕方はよく似ている。
「コージ、知っているの?」
「森本さんから、似たような魔物の話を聞いたんだよ。ゲームに出てくるやつだけどな」
「ああ、前にオークの倒し方を教えてくれた人ね」
「そう。今度は上から角が降ってくるって聞いて、頭の防具を買っとこうと思ったんだ」
アリスは俺の頭へ目を向け、うなずいた。
「役に立ちそうね!」
「被っててよかったとは思うが、実際に角で試す予定はないぞ」
「ちゃんと避ければいいのよ」
「それができるように、先に詳しく聞くんだよ。似てるだけで同じとは限らんからな」
俺は依頼書へ視線を戻した。
「作業員が襲われたって書いてあるのか?」
「ええ。追い払おうとしたら飛びかかってきたみたい。今は危なくて、収穫に入れないんですって」
「そりゃ困るな。熟れた果物は、こっちの都合で待ってくれんし」
「でしょう? 早く倒してあげたいの」
「ああ。ただ、急ぐからって確認は省かないぞ。二体がどこにいるのか、ほかにもいる可能性があるのか。受付で聞いてからだ」
「分かってるわ。一緒に聞きましょう」
アリスは依頼書を胸の前に持ち、受付へ歩き出した。
俺もあとに続く。
有給初日の予定は、洗濯と掃除だったはずだ。
どうやら、掃除する場所が家から果樹園まで広がったらしい。
しかも、片づける相手は跳んでくる。
掃除機の電源を抜いておいて正解だった。
あんなものを持ってきても、俺のほうが先に吸い込まれそうな悲鳴を上げるだけだ。
◇
受付へ向かい、アリスが依頼を受けたいと伝える。
受付の女性は依頼書を確認すると、地図を出してくれた。
「こちらの果樹園です。被害が出ているのは、主に北側の区画ですね。二体が繰り返し目撃されています」
「人に向かってくることもあるのか?」
「はい。追い払おうとした作業員が襲われています。幸い、逃げられたそうですが」
「果物だけ食って帰ればいいものを……」
「近づいた人間を、追い払おうとするのよ」
アリスが言った。
「勝手に人の果物を食っておいて、態度まででかいのか」
受付の女性が小さく笑い、説明を続けた。
「跳躍する前には、後ろ脚を折り曲げて体を低くします。角を向けて落ちてくるので、頭上にも注意してください」
「影を見れば、落ちてくる場所は分かるか?」
「目安にはなります。ただ、木陰では見えにくいですし、跳んだあとに体をひねることもあります。影だけに頼るのは危険ですね」
「なるほどな。聞いといてよかったよ」
ゲームで聞いた攻略法は、使えるところだけ使う。
画面なら失敗してもやり直せるが、俺の頭はそうはいかない。
依頼の手続きを済ませ、貸しスペースから装備を取り出した。
胸当てを着け、革靴を履く。頭の防具をかぶって、顎の紐を締めた。
アリスが俺の顔を覗き込む。
「今日はしっかり締めるのね」
「上から角が降ってくるんだぞ。少ない髪に迎撃を任せられるか」
「ちゃんと防具を買っておいてよかったわね」
「ああ。先に買っといて正解だったよ」
俺は頭の防具を軽く押さえ、ずれないことを確かめた。
「ただ、買ったからって、いきなり性能試験はしたくないけどな」
◇
北の門を出ると、街道の先に畑が広がっていた。
道端の草が風に揺れ、ところどころに小さな花が咲いている。
荷物を満載した馬車とすれ違いながら、アリスと並んで歩いた。
「コージ、今日から日本の仕事はお休みなのよね?」
「ああ。有給に入った」
「じゃあ、朝はゆっくり眠れた?」
「いつもの時間に目が覚めちまったよ。弁当と朝飯を作って、嫁さんを送り出してきた」
「コージが作ったの?」
「俺だって料理くらいするよ」
「どんなものを作ったの?」
「卵焼きとか、ウインナーとかだな」
「卵焼きって、前にお弁当から分けてくれた、あの黄色いの?」
「ああ、あれだよ。前のは嫁さんが作ったやつだけど、今日は俺が焼いた。少し甘めにな」
アリスが嬉しそうに目を輝かせた。
「あれ、おいしかったわ! コージが作ったのも食べてみたい!」
「機会があればな」
「じゃあ、次は私の分も作って!」
「機会があればって言っただろ。明日の朝、弁当を作ってる最中に呼ぶなよ」
「……まあ、一人分も二人分も、作る手間はそう変わらんけどな」
「じゃあ、作ってくれるの?」
アリスが嬉しそうに俺を見上げた。
「次に作るとき、余裕があればな」
「楽しみにしてるわ!」
そんな顔をされると、卵焼きを少し多めに焼くくらい、いいかと思ってしまう。
ただし、弁当を渡すために呼ばれて、そのまま討伐まで頼まれるのは困る。
「弁当付きだからって、遠足気分で危ない依頼を選ぶなよ」
アリスは声を上げて笑った。
俺も、つられて少し笑う。
こんなふうに歩いている分には、悪くない。
家で一日中ゲームをしているより、自分の足で知らない場所へ行くのは面白い。
異世界にいる間は腰も楽だし、体もよく動く。
ただ、この散歩の終点には、角を突き立ててくる魔物が待っている。
そこさえどうにかなれば、もっと気楽に楽しめるんだけどな。
◇
果樹園は、緩やかな丘の斜面にあった。
柵の向こうに、低めの木が列をなして並んでいる。
枝には黄色や赤みのある果実が実り、風に乗って甘い匂いが漂ってきた。
入り口では、中年の男が待っていた。
「依頼を受けてくれた冒険者か?」
「はい。アリスです。こちらはコージ」
「よろしく。魔物の出ている場所を教えてもらえるか?」
男は俺のメイスへ目を向け、うなずいた。
「ああ。助かるよ。収穫を始めたいんだが、作業員を入れられなくてな」
案内された北側の区画には、地面に果実がいくつも落ちていた。
かじられたものもあれば、踏み潰されたものもある。
収穫用の籠が横倒しになり、その一つは縁が割れていた。
「ずいぶん荒らされてるな」
「昨日、追い払おうとしたら飛びかかってきたんだ。この籠を放り出して逃げたよ」
「怪我は?」
「枝で腕を擦ったくらいだ。だが、次も逃げられるとは限らないからな」
「そうだな。ここからは俺たちに任せて、入り口のほうで待っていてくれ」
男が戻るのを見送り、俺は地面を確かめた。
柔らかい土には、蹄の跡が残っている。
木と木の間は歩けるが、枝が横へ張り出していて、頭上を見通しにくい。
「アリス。ここで跳ばれると、見失いそうだな」
「ええ。枝に隠れてしまうわ」
「さっき通った、籠を置いてあった広い場所へ誘い出せないか? あそこなら上も見える」
「できると思うわ。私が後ろから見張るから、コージが引きつけて」
「分かった。ただ、二体いるんだろ。一体だけ見て、もう一体を忘れないようにしよう」
「ええ」
俺はメイスを持ち直した。
アリスも杖を握り、木々の向こうへ目を向ける。
さっきまで聞こえていた鳥の声が、いつの間にか途絶えていた。
風が吹く。
葉が擦れ合い、枝が揺れた。
その奥で、何か別のものが動いた。
「……いるな」
灰褐色の体が、木の幹の向こうから現れた。
鹿に似ている。
だが、俺の知っている鹿よりも後ろ脚が太く、腰のあたりが盛り上がっていた。
頭には二本の角がある。短めだが、先端は鋭く尖っている。
口を動かしているのは、果実を食っているかららしい。
「食事中のところ悪いが、そこの果物は君のじゃないんだよ」
スプリングバックが顔を上げた。
口元から、かじりかけの果実が落ちる。
黒い目が、俺を捉えた。
「コージ、来るわ」
「分かってる。少し下がっててくれ」
俺は広い場所の方角を確かめ、ゆっくり後退した。
スプリングバックは耳を動かし、前脚で土をかく。
そして、後ろ脚を折り曲げた。
体が低く沈む。
「それが、跳ぶ前の姿勢か……」
次の瞬間、土が弾けた。
灰褐色の体が、木の枝を越えて跳び上がる。
「高っ!」
思っていたより、ずっと高かった。
俺は慌てて頭上を見た。
空中で体を傾けたスプリングバックが、二本の角をこちらへ向けている。
森本さん。
攻略法は、ちゃんと覚えてるぞ。
ただ、画面の中にいたやつが頭の上に来ると、感想は一つしか出てこなかった。
「果物は落ちてきてもいいが、お前は落ちてくるな!」




