第99話 新しい命と脳内会議
十二月に入ると、産休に入っていた姉は里帰りの支度を進めていた。
予定日は二十五日だったが、その数日前には和子と一緒に実家へ戻っていた。
二十五日の午前、姉が産気づいた。父はあらかじめ休みを取って待っており、そのまま車で病院へ送ったらしい。
政雄たちがその知らせを受けたのは夜になってからで、母からの電話で、夕方には無事に男の子が生まれたと聞かされた。
姉と赤ん坊は年内いっぱい入院し、年が明けた元日に実家へ戻る予定らしい。
政雄と良子はその前に病院へ見舞いに行き、生まれたばかりの子を見せてもらった。
名前は幸太と決まった。
和子の時は義兄の和夫から一字を取ったので、今度は姉の幸から取ったのだという。
病院からの帰り道でも、良子は幸太の話ばかりしていた。
小さかっただの、指を握られただの、寝顔がもう整っていただの、政雄にはまだよく分からないことまで、ずいぶん細かく見ていたらしい。
帰宅して夕食の支度を終え、二人でようやく腰を落ち着けると、良子がしみじみと言った。
「幸太ちゃん、かわいかったわね。うちもそろそろ子どもが欲しいわね」
政雄は箸を止めた。
いずれはきちんと話さなければならないと思っていたことだった。
「そうだね。子どもは欲しいとは思ってる」
それは嘘ではなかった。
もっとも、二度目の人生とはいっても、結婚も子育てもこれが初めてである。先の景気は少し読めても、父親になった自分がどうなるかまではさっぱり見当がつかない。
前世を合わせても、この分野だけは完全に新人なのだから。
「私も来年には三十になるから、早い方がいいかなって思うの」
「確かにそうなんだけど、今年見てきたように、この先はもっと景気が悪くなると思うんだ」
口にしてから、こんな時まで景気の話をするのかと政雄は内心で自分につっこんだ。
もう少し気の利いた言い方がありそうなものだとも思うが。
「え、今年以上に?」
「そう。双葉銀行がすぐどうこうなるとは思わないけど、銀行や金融機関はかなり厳しくなると思う。部署が減ったり、人員が整理されたり、今まで通りではいかなくなるかもしれない」
「そんなにひどいの?」
「今すぐじゃないと思うけどね。でも、この先どうなるかは分からない」
自分で言いながら、ずいぶん夢のない話だとも思った。
せっかく赤ん坊を見てきた帰りに、夫がこれでは愛想もない。
だが、子どもを欲しいと思うからこそ、簡単にうなずけないのも本当だった。
良子は少し考えてから、思ったよりあっさり言った。
「でも、すぐじゃないのなら大丈夫よ。私も働いているし、先のことは誰にも分からないもの」
その言葉に、政雄は少し肩の力が抜けた。
こういう時、良子は必要以上に深刻にならない。
その明るさに助けられることは、結婚してから何度もあった。
「そうだね。どうなるか分からないことを、先に心配しすぎても仕方ないか」
「それに、あなたの言うことは不思議と当たるでしょう」
「そうかな」
「そうよ。一年くらい前にも、お父さんに大きなお金は動かさない方がいいって言ってくれたでしょう」
政雄はうなずいた。あの時は、一応言っておこうという程度だった。
まさかそこまで素直に聞いていたとは思わなかった。
「あのあと証券会社から株を勧められたことがあったんですって。でも、あなたに言われたことを思い出して、やめておいたそうなの」
「へえ」
「それからしばらくして、勧められたところがどこも下がったって。危なく大損するところだったって言ってたわ」
「それはよかった」
本当に、言っておいてよかった。
もっとも、感謝されるようなことでもない。たまたま先を知っていただけで、本人の才覚ではないのだから、そのへんは少し後ろめたい。
「そういうことがあるから、あなたの言うことは信用するの。でも、ちゃんと考えて準備すればいいんじゃないかしら」
「そうだね」
「先のことを予想して、前もって動くのはあなたの得意なところでしょう」
政雄は苦笑した。そこを褒められると返事に困る。
前世の記憶だと正直に言えたらどんなに楽かと思うが、もちろん言えるわけもない。
「まあ、そうしようとは思ってるよ」
「だったら大丈夫よ。子どものことまで心配しすぎなくていいわ」
良子はそう言って、大ごとでも何でもない話のように言うあたりが、いかにも良子らしい。
政雄はその横顔を見ながら、少し気が楽になるのを感じていた。
自分はどうも、まだ起きてもいないことまで先回りして身構えすぎて見えるらしい。
もう少し落ち着いて見せた方がよさそうだな。
「わかった。子どものことは、自然に任せるのがよさそうだね」
「ええ、その方がいいわ」
良子はすぐにそう答えた。その迷いのなさに、政雄はようやく腹を決めた。
先の景気も、銀行の行く末も、自分ひとりでどうにかできるものではない。
だが、目の前の暮らしを二人で考えることなら、今からでもできる。
*
十二月二十九日になると、大きな事件のあった一年にもかかわらず、年の暮れは例年通りやってくる。
職場でも午前中は仕事をし、午後は軽く片づけをして仕事納めとなった。
本店の中は最後までどこか落ち着かなかったが、それでも机の上を片づけ、書類をしまい、年明けに持ち越す仕事を頭の中で並べているうちに、どうにか一区切りついた気分にはなった。
帰り際には、今年もいろいろありましたね、といった挨拶があちこちで交わされたが、その言葉にいつもの年末ほどの気楽さはなかった。
*
三十日は朝から家の掃除だった。普段は手をつけない窓ふきや換気扇まで片づけることになり、政雄は脚立を持ち出しては上を向き、雑巾を絞ってはまた手を伸ばした。
「良子は意外に手際がいいな」
「意外にってなによ」
すぐさま返ってきた言葉に、政雄は苦笑した。
良子は口ではそう言いながらも、手は止めない。台所の細かいところまで順に片づけていく様子は、なるほど自分よりよほど慣れていた。
「いや、もっと、のんびりのイメージだし」
「あら、私だってやる時はやるのよ」
その言い方がいかにも良子らしくて、政雄は思わず笑った。
こういうところで妙に頼もしいのは、やはり良子の方だった。
大晦日には、二人で築地まで足を延ばした。
正月用の食材なら近くでも揃うのだが、たまには少し気分を変えようということになったのである。
年の瀬の築地は思っていた以上のにぎわいだった。
魚も玉子焼きもかまぼこも、どこを見ても正月の支度一色である。
呼び込みの声に背を押されるように店先をのぞき、これはどうだあれはどうだと見て回っているうちに、気づけば荷物はずいぶん増えていた。
「少し買いすぎじゃないか」
「お正月ですもの、少しくらいはね」
良子は楽しそうにそう言って、包みを抱え直した。政雄もそれ以上は言わなかった。こういう賑わいに乗せられて、多少余計なものまで買ってしまうのも年末らしい。
家へ戻ると、二人で買ってきたものを広げながら、あれこれ言い合って片づけた。
そうしているうちに、ようやく新しい年を迎える支度が整った気がした。
元日は、政雄の実家へは行かなかった。
姉が退院してきたばかりで、家には生まれたばかりの幸太がいる。
押しかけていっても、落ち着かないだろうということで、今年は遠慮しておくことにした。
どこか有名な神社にでも行ってみようかという話も出たが、昨日の築地で妙に満足してしまい、結局は二人とも家でのんびり過ごすことになった。撮り溜めてあったドラマを見ながら、時おり雑煮をつつき、思い出したようにみかんに手を伸ばす。外は正月らしい静けさだったが、部屋の中はいつもの延長のようでもあり、その気楽さがかえって心地よかった。
夕食の時に少しだけ酒を飲むと、良子は疲れが出たのか、早いうちに眠そうな顔になった。
「先に寝るわね」
「うん、おやすみ」
「あなたもあんまり夜更かししないでね」
そう言って良子は寝室へ引っ込み、ほどなくして部屋の中はしんと静かになった。
政雄は台所へ行き、湯を沸かしてコーヒーを淹れた。
湯気の立つカップを手にリビングへ戻ると、棚の上の小物入れから、使い慣れたノートとペンを取り出す。
元日の夜にこれをやるのも、もうすっかり恒例になっていた。
仕事、家庭、親戚、それに趣味。頭の中にいる面々は、今年もまた好き勝手なことを言い出すに違いない。政雄は苦笑しながらソファに腰を下ろし、ノートを開いた。
*
コーヒーを一口飲むと、いつものように頭の中の面々がぞろぞろと席に着いた。
まず口火を切ったのは仕事担当だった。こいつは毎年のことながら遠慮がない。
「では今年の最優先事項から確認します。昨年後半から黒沢さんの補助に回ることが増えていますが、あの立場をただの手伝いで終わらせるのは得策ではありません。本店の中枢に近いところで何が起きているか見られるのは大きい。情報の質が違います」
いかにももっともらしい口調である。実際、言っていることは間違っていない。
「加えて、銀行や金融機関を取り巻く状況は今年さらに悪化する見込みです。受け身で流されるのではなく、自分の立ち位置を見極める必要があります。NOOPについては長瀬君にかなり任せられるようになっていますし、そろそろ確認役へ比重を移してもよいでしょう」
そこへ家庭担当がすぐに口を挟んだ。
「仕事が大事なのは結構ですが、家にまで不況を持ち込まないでいただきたいですね」
仕事担当が眉をひそめる気配がした。
「持ち込んでいるわけではありません。現実を直視しているだけです」
「その現実を食卓で真顔で語られても困るのです。こちらとしては、今年は良子との時間をきちんと取ることを求めます。子どものことも、自然に任せるとは決めましたが、できた時にどうするのかくらいは考えておいてもらわないと」
これは反論しづらい。政雄はコーヒーをもう一口飲んだ。
家庭担当は勢いづいて続けた。
「姉のように実家に預ける、というのは距離を考えると簡単ではありません。家事の分担、通勤、住まい、家計、そのあたりは一度整理しておくべきです。何より、良子任せにしないことです」
仕事担当が小さく咳払いをした。
「そこまで先回りしすぎるのもどうかと」
「あなたがそれを言いますか?」
もっともである。
頭の中だけでも少しくらい穏やかにやれないものかと思うが、毎年この調子なので今さらだった。
そこへ親戚担当が、いかにも地味な顔をして話を引き取った。
「では、わたくしからも一点。今年は親戚筋への目配りを少し強めた方がよろしいかと」
この担当は声こそ静かだが、言うことは案外面倒くさい。
「義父には、一年ほど前の助言がうまく働いたようで、それ自体は大変結構でした。ただ、今後も投資話やうまい儲け話の類いには、それとなく注意した方がよいでしょう。押しつけがましくならない程度に」
それだけでは終わらないのが親戚担当である。
「加えて、実家の方もまったく無関係では済まないかもしれません。不景気が本格化すれば、どこにどう影響が出るか分かりませんから。姉のところも子供が生まれましたし、家族構成が変わる時は出費も増えます。あまり口を出しすぎるのは禁物ですが、気にかけておく程度のことは必要かと」
仕事担当が低い声で言った。
「要するに、仕事も家も親戚も全部見ろと?」
「極端にまとめないでいただきたい」
親戚担当は不満そうだったが、だいたい言っていることはその通りでもある。見える範囲で気にしておくくらいは、たしかにしておいた方がよさそうだった。
そこで、会議の流れが少し途切れた。毎年ならこのへんで終わりでもおかしくない。だが今年は、部屋の隅で小さく手を挙げる者がいた。
趣味担当である。
「あの……趣味担当としても、ひとことよろしいでしょうか」
相変わらず控えめだった。遠慮しなくても誰も取って食ったりしないのだが、本人はそういう柄ではないらしい。
「昨年は、あまり出番がなかったような気もしますけれど、その、別に何もしていなかったわけではありません。安らぎは絶対に必要です」
仕事担当がいかにも興味なさそうに言った。
「優先順位としては低いでしょう」
趣味担当は少ししゅんとしたものの、それでも小さな声で続けた。
「確かに夫の趣味など後回しが世の常ですが。ただ、音楽サークルもありますし、サックスを吹く時間くらいは残していただけると……その、助かります」
家庭担当が少しだけやわらいだ口調になる。
「別に反対しているわけではありませんよ。家のことをきちんとしてくれるなら」
それに力を得たのか、趣味担当はもう一歩だけ踏み出した。
「ありがとうございます。あと、できれば楽器の調整なども、そろそろ視野に入れていただけると」
そこまで言ってから、しまったという顔をした気配があった。たぶん本人も、少し欲が出たと思ったのだろう。
政雄は思わず苦笑した。大学の頃に先輩から譲ってもらったあのサックスは、たしかに長い付き合いだった。
まだ吹けないことはないが、ところどころ気になる箇所が出てきている。
もっとも、新しいのが欲しいなどと言ったら、この会議では即座に却下されるに決まっている。
仕事担当が案の定、事務的に言った。
「現時点で設備更新の優先度は低いでしょう」
「更新とまでは申しません」
趣味担当の声はますます小さくなった。
「せめて現状維持のための整備を……」
そこまで聞いたところで、政雄はノートの上にペン先を置いた。そろそろ議長がまとめる番である。
「よし、今年の方針を決めようか」
頭の中の面々がいったん静かになる。
「まず仕事。これは今年も最優先だ。黒沢さんの近くで見えること、学べることは多い。ただし、流されるままではなく、自分の立ち位置を意識する。そのうえで今後につながりそうな人脈も作ろう。NOOPは長瀬に任せる部分を増やして、こっちは確認役に寄せる」
仕事担当が満足げにうなずく気配がした。
「家庭は後回しにしない。良子との時間はちゃんと取る。子どものことは自然に任せるけど、できた時に困らないよう、家計も暮らし方も良子と良く相談しよう」
家庭担当も異論はないようだった。
「親戚については、口を出しすぎない範囲で目を配る。良子の実家も、うちの実家も、何か変な話があれば早めに気づけるようにはしておく」
親戚担当が静かにうなずく。
「それから趣味。優先順位はたしかに高くないけど、なくしていいものでもない。音楽サークルとサックスの時間は、無理のない範囲で残そう。調整の必要な部分はすぐに対処しよう」
最後のところで、趣味担当が近年見たことが無いくらいの笑顔でぱっと顔を上げた。
「要するに、今年は守るべきものをきちんと守りながら目的をもって動く。仕事だけでも、家庭だけでも駄目だ。先を見すぎて今をおろそかにしないこと。そんなところだな」
言葉にしてみると、ひどく当たり前の結論だった。だが、その当たり前を毎年確かめるために、この会議を続けているのかもしれない。
政雄はノートを閉じ、冷めかけたコーヒーを飲み干した。
翌二日は、良子の実家へ年始の挨拶に出かけた。
政雄の1992年はこうして始まった。




