第98話 崩壊の序章
六月下旬に大手証券会社の損失補填が明るみに出て、そのニュースが金融業界を駆け巡った時、政雄には驚きはなかった。
とうとう来たか、その一語に尽きた。前世の記憶を持つ政雄には、バブルがはじけることは分かってた。だから支店にいたころから、地価が下がったあとでも返済できる額にまで融資を絞っていた。
そのため当時は慎重すぎると思われたこともある。
だがその半面、実績がなく担保の薄い相手でも、前世でその後の姿を知っている業種には丁寧に相談に乗り、融資をしてきた。カラオケボックスや、幹線道路沿いの専門店もそうだった。
ベビー用品店、大型洋品店、そして後にパソコン専門店へ育っていくような店である。
銀行が二の足を踏みがちな相手でも、政雄には先の姿が見えていた。
最初は一社だけの不祥事と思われていた。
だが、七月に入ると同じような損失補填がほかの大手証券会社にも広がっていたことが明るみに出て、世間に衝撃が走った。もはや業界の内輪の問題ではすまず、政府も対応に乗り出した。
証券会社の不祥事として始まった騒ぎは、金融業界全体の体質を問う一大事へとふくらんでいった。
さらに八月には、ある信用金庫の巨額不正融資事件が表面化し、火の手は銀行にも及んだ。
融資審査の甘さや、担保頼みの貸し方そのものが疑われるようになり、金融機関の内部でも景気の先行きを楽観する空気は急速にしぼんでいった。
しかし、これはまだ始まったばかりなのだ。
*
本店へ戻った政雄が廊下を歩いていると、向こうから見覚えのある男が来た。上東支店の支店長だった。支店長会議の帰りらしく、いつものきびきびした足どりではない。政雄に気づくと、支店長は苦笑した。
「君も今戻りか」
「はい。いま帰ってきたところです」
「少し付き合わないか。今日はくたびれたよ」
政雄はうなずいた。二人で休憩コーナーへ行き、茶を買って腰を下ろす。支店長は熱い茶をひと口飲んでから、ようやく息をついた。
「いや、参ったよ。会議は朝から例の話ばかりだ」
「やはり厳しいですか」
「厳しいなんてものじゃない。過去の融資を見直せ、怪しい先はすぐ報告しろ、担保の見方も甘くするなと言われた。どこの支店も似たようなものだろうが、上東も無事ではすまんな」
上東支店は町の中小企業が多く、大きな会社との付き合いは少ない。
とはいえ、景気のいいころには土地を買い足した先もあれば、店を広げた先もある。支店長はそこを気にしているのだろう。
「大口は少ないですが、危ない先はありますか」
「あるよ。表に出ているほど派手ではないが、放っておける額でもない。今までなら先延ばしにしていた話まで、もうそうはいかん」
支店長はそこで政雄を見た。
「君のいたころ、貸し方が慎重すぎると思ったこともあったが」
政雄は黙って聞いていた。
「土地があるなら、もう少し出してもいいじゃないかと、あのころは思ったんだ。だが今になると、あれでよかったのかもしれんな」
「私は怖がっていただけですよ」
「怖がるくらいでちょうどよかったということだ。あの時に君が融資した先は、このところも割合きちんと返していると聞く」
支店の今の細かいことまでは政雄にも分からない。だが、以前に自分が関わった先のいくつかが悪くないという話は、人づてに耳にしたことがあった。
「上東は町の商売が多いですから、急に大きくした先でなければ、まだ何とかなるところもあるんじゃないですか」
「そう願いたいな」
支店長は茶を飲み干し、紙コップを手の中でつぶした。
「本店へと言われた時は、君にはその方がいいと思ったんだがな。まさかこんなことになるとは思わなかったよ」
「私もそこまでは」
政雄はそう答えたが、胸の中では別の言葉があった。
こんなことになるのは知っていた。
知っていて、それでも全部を変えられたわけではなかった。
「まあ、嘆いていても始まらん。支店へ帰れば、また山ほど仕事だ」
支店長は立ち上がった。
「君も忙しいだろうが、体をこわさんようにな」
「ありがとうございます」
支店長の背中を見送りながら、政雄はしばらくその場に座っていた。上東支店のような町場の支店でさえ、この調子なのだ。銀行の中を流れるものは、もう前とは違っていた。
本店の廊下へ戻ると、以前より人の行き来が多かった。融資関係の部署へ向かう者もいれば、逆に上から呼ばれた顔で足早に曲がっていく者もいる。いつもなら午後のこの時間は、もう少し緩んだ空気があるはずなのに、その日は誰もが落ち着かない様子だった。
すれ違いざまに聞こえる声も険しかった。
「例の件、もう一度洗い直しだそうだ」
「担保の見方が甘いと言われた」
「今さら全部か」
会議室の前では、書類を抱えた課長たちが立ったまま話し込んでいた。
電話の音も絶えない。誰かが受話器を置けば、またすぐ別の電話が鳴る。
政雄のいる部署は直接その渦中にあるわけではなかったが、本店じゅうが落ち着きを失っていることははっきり分かった。
これまでなら、景気が悪くなったといっても、どこかでまだ持ち直すだろうという甘さがあった。
だが今は違う。誰も口にこそ出さないが、これまで見ないふりをしてきたものが一気に噴き出しかねない、そんな緊張が廊下のあちこちに張りついていた。
政雄はその中を自分の席へ向かって歩きながら、次はどこが表に出るだろうかと考えていた。
*
そんな中でも、政雄はNOOPの仕事を少しずつ長瀬に引き継いでいた。
長瀬はとびぬけて切れるわけではないが、言われたことはきちんとやる男だった。
ひと通り覚えるまでにはそれなりに時間がかかったものの、慣れてしまえば大きく外すことはない。
政雄は要点だけを伝え、あとは実際にやってもらった。
細かいところで立ち止まることはあっても、仕事そのものは着実に進むようになっていた。
そのころには、黒沢から呼ばれることも増えていた。
以前は会合に顔を出して話を聞く程度で済むこともあったが、それだけでは終わらない。
黒沢に伴われて関係先を回り、個別に話を聞き、その内容を確かめたうえで本店へ持ち帰る。
必要があれば別の先にもあたり、食い違うところがあればもう一度確認する。
そうして集めた話に資料を添えて整理し、黒沢へ出すところまでが政雄の役目になっていた。
気づけば、何故か政雄は半ば黒沢の助手のような立場になっていた。
銀行の人間としてそれでいいのかと思わないでもない。
だが、そこで触れる話はどれも新く、深かった。本店の中にいてはまだ見えてこない動きや、表には出る前の話まで耳に入る。
最新の流れを知るという意味では、とても勉強になった。
相手は役所の外郭に近いところもあれば、業界団体のようなところもあり、民間の業者であることもあった。黒沢は会えば一見穏やかだが、聞くべきことは必ず聞いた。
曖昧な答えのまま済ませることもない。
政雄はその横で話の運びを聞きながら、何を確かめようとしているのかを追うようになった。
一度や二度ならまだしも、それが続くと仕事の重さも変わってくる。
会って聞いてきましたで終わる話ではない。
持ち帰った内容が本当に筋の通るものか、自分でもう一度見直さなければならない。
出された説明に不自然なところがあれば、資料を探し、前の記録と照らし合わせる。
足りないところがあれば、また聞きに行くことになる。
地味ではあるが、気の抜けない仕事だった。
本店の中は相変わらず落ち着かなかった。
どこかの部署で声が上がったかと思えば、廊下の向こうで別の電話が鳴る。
支店からの照会も増え、本部から下りる指示も細かくなった。
そんな中で政雄だけが別の仕事に引っぱられているようにも見えたが、本人にはその方がまだましだった。
行内のざわつきをただ眺めているより、目の前の案件を一つずつ片づける方が性に合っていた。
もっとも、その仕事がどこへつながっているのかまでは、まだ政雄にもよく見えていなかった。
黒沢は必要なことしか言わないし、先の話をむやみに口にする男でもない。
ただ、呼び出しの間隔が詰まり、求められる報告が細かくなっている以上、何かが次の段階へ進みつつあるのだろうとは感じていた。
十一月の終わり、黒沢に提出する書類をようやくまとめ終えた日のことだった。
席を立ったところで、また電話が鳴った。
受話器を取ると、黒沢の声がした。
「明日の午後、少し時間は取れますか?」
「はい、大丈夫です」
「では二時にこちらへ来てください」
それだけ言って、電話は切れた。
政雄は受話器を置き、しばらくそのまま机の前に立っていた。
なるほど、まだ終わりではないらしい。
そう思ったが、不思議と気持ちは重くならなかった。
むしろ、次は何が出てくるのかという感覚の方が強かった。




