第97話 実家と和子
六月に入ってからも、政雄の仕事は相変わらず忙しかった。
朝から課内のやり取りが続き、ひとつ片づいたと思えば、すぐ次が来る。
その日もアパートへ戻ったころには、思いのほか疲れが残っていた。
背広を脱いだところで電話が鳴った。受話器を取ると、母の声だった。
「政雄、あんたが前に使ってた部屋、今度片づけるからね」
「急だね。何かあったの?」
「和子の部屋にしようかって話になったのよ」
和子はまだ三歳だろう、と言いかけた政雄に、母はそのまま話を続けた。
近ごろ、平日に実家へ来るたび近所の子と遊んでいたこと、その子が四月から幼稚園へ通い始めて、和子も行きたいと言い出したこと。
だからすぐ必要というわけではないが、使っていない部屋なら片づけておこうという話になったのだという。
「それで、要る物があるなら先に持っていきなさいってことよ」
「分かった。今度の日曜なら行けるよ」
政雄はそう答えてから、ふと思い出した。
「俺は空いてるけど、良子はその日、先に用が入ってるんだ。たぶん一緒には行けない」
「そうなの。じゃあ、あんただけでいいわよ」
「うん。荷物動かすなら早めに行くよ」
電話を切ったあと、政雄は受話器を戻した。
自分がいた部屋を片づけるという話にも、思ったほど引っかかりはなかった。
いま使っていないのだから、別の使い道ができるならその方がいい。
*
日曜は朝からよく晴れていた。
良子は出かける支度を先に済ませ、政雄よりひと足早く部屋を出ていった。政雄は少し遅れて戸締まりをすると、駅へ向かった。実家までは、電車を乗り継げばそう遠くない。
実家に着くと、政雄が使っていた部屋の掃き出し窓は開け放たれ、押し入れの中の物がすでに部屋に出されていた。
「ただいま、遅かったかな」
「お帰り。今始めたばかりだから大丈夫よ」
母がそう答えると、父も部屋の中から顔を上げた。
「まずは政雄が必要なものを教えてくれ。別にしてしまうから」
二年半前にここへ引っ越した時、たいていの物はもう処分していた。残っていたのは、思い出として取ってあった物や、持って出るほどでもないと思ってそのままにした物ばかりだった。
結局、卒業証書やアルバムの入った段ボール箱ひとつは、押し入れの奥にそのまましまってもらうことにした。アパートへ移る時に持っていかなかった古い小説を数冊と、たんすに残っていた普段着は、持ってきた鞄に詰める。
布団は和子が使えばいいと思い、そのまま残すことにした。
あとは処分していいと決まれば早かった。
捨てる本や洋服をゴミに出せるようにひもでしばっていると、姉が和子を連れて入ってきた。
「あんたも来てたのね」
襖が開いて、幸が和子を連れて入ってきた。
和子は幸の脇から部屋の中をのぞきこんでいたが、政雄に気づくとすぐ顔を明るくした。
「うん、朝から呼び出された。和子、こんにちは」
「こんにちは」
和子はそう言うと、母親のそばを離れて政雄の方へ来た。
政雄は和子を抱き上げて、しばらくふざけていると、幸がたんすの前で足を止めた。
「たんす、まだ使えるのね」
「使えるだろ。傷はあるけど」
「だったらこのままでいいかな。子どもの服なら入るし」
母も後ろからのぞいて、
「本棚もそのままでいいんじゃないの。和子の絵本くらいなら入るでしょう」
と言った。
「うん、それなら助かる。たんすは私も使うことになるし」
政雄は和子をおろして、幸を見た。
「姉さんも使うって?」
幸はきょとんとして政雄を見た。
「何、母さんから聞いてないの?」
「何を」
「里帰りするって話よ」
政雄は幸を見たまま、すぐには返せなかった。
「里帰りって」
幸は少し言いにくそうにしたが、すぐに言った。
「子どもができたの。もう四か月」
「えっ」
「今度は産んだあと、実家に戻ろうと思ってるの。和子もいるし、その方がいいだろうって」
政雄は思わず幸の腹のあたりを見そうになって、すぐ視線を外した。
「そうだったのか。知らなかった」
「まだはっきりしたばかりだったからね。母さんには先に話してたけど」
そう言って幸は、もう一度たんすを見た。
「だから、たんすが使えるなら助かるのよね」
*
昼までには、捨てる本や洋服はゴミの日にすぐ出せるようにまとめ終わった。たんすと本棚も、どこに残すかがようやく決まり、政雄が汗をぬぐっていると、居間の方から母の声がした。
「昼ごはんできたわよ。もうそのへんにしなさい」
父が先に立ち上がり、政雄もあとに続いた。
居間に入ると、卓袱台の上には煮物や焼き魚が並んでいた。
母は朝からこっちの片づけをしていたはずなのに、いつのまにこれだけ支度したのかと思う。
「和子、こぼさないのよ」
幸が声をかけると、和子は返事だけは元気よくして、すでに父のそばへ行っていた。
父は胡坐をかいて座ると、当然のように和子を膝に乗せる。和子はそこへすっかり収まって、絵本を開いた。
「ごはんの時くらい、下りなさい」
幸が言っても、和子は知らん顔で頁をめくっている。
父も困ったような顔をするどころか、むしろ機嫌がいい。
「まあいいじゃないか。この子は軽いんだから」
そう言いながら箸を取ったものの、膝の上で絵本を広げられては食べにくいらしく、少し身体をずらしている。
それでも文句ひとつ言わないあたり、父もまんざらではないのだろうと政雄は思った。
「このごろねえ、和子が幼稚園に行きたいってうるさいのよ」
味噌汁をよそいながら、母が言った。
「行きたいって、急にか」
「急にじゃないわよ。近所の子とずっと遊んでたでしょう。でもその子、この春から幼稚園に入っちゃったから、昼間はもう遊べないの。それで自分も行くって言い出したの」
「幼稚園って、三歳でも入れるのか」
政雄が聞くと、母は待ってましたと言わんばかりに答えた。
「満三歳から入れるんだって。近所で聞いてきたのよ」
「ずいぶん詳しいな」
「こういうことは、ちゃんと聞いておかないとだめでしょ」
母はそう言って少し得意そうだった。幸はその横で、ごはん茶碗を持ちながら苦笑した。
「私は無理に入れるつもりはなかったのよ。まだ早いかなとも思ってたし。でも、和子がああして行きたがるなら、友達の中に入るのもいいかなって」
幸の言葉に、父も頷いた。
「毎日家にいるより、その方が本人にはいいかもしれんな」
和子は話の半分も分かっていないだろうに、絵本から顔も上げずに、
「ようちえんいくの」
とだけ言った。
その言い方がおかしくて、政雄は思わず笑った。母などは、もうそれだけで気持ちが決まったように、
「ほらね、本人その気なんだから」
と嬉しそうである。
それからふと、母の目が幸の腹へ向いた。
「今度は男の子かしらねえ。それとも女の子かしら」
まだ何も分かるはずがない時期なのに、もう待ちきれないらしい。幸は呆れたように笑った。
「そんなの、まだ全然よ」
「でも気になるじゃないの。和子に妹ができるか弟ができるかで、また違うでしょう」
母はすっかりそのつもりでいる。
姉の腹はまだ膨らんでもいないのに、もう次の子の話をしているのだから気が早い。
政雄は焼き魚をほぐしながら、その様子を見ていた。
和子は父の膝の上で絵本をめくり、父は少し食べにくそうにしながら、それでも終始機嫌よく相手をしている。
さっきまで男手として荷物を運んでいた父が、今はすっかり孫に場所を取られているのがおかしかった。
食事が少し進んだところで、政雄は幸の方を見た。
「そう言えば、姉さん仕事はやめないいでしょ。それに姉さんが里帰りしてる間、義兄さんはどうするの」
幸は箸を止めて、
「仕事はやめないわよ。まだはっきりとは決めてないけど彼は、仕事帰りにここへ寄って夕ご飯を食べたら、家に帰るんじゃないかな。朝だけ何とかすればいいし、昼は市役所に食堂もあるし」
と答えた。
「うーん、何か男ってかわいそうだな」
政雄がそう言うと、母がすぐに口をはさんだ。
「何よそれ。女は命がけで子どもを産むのよ。あんたもいずれそうなるんだから覚悟しなさい」
「うっ。そうだね、肝に銘じます」
政雄がわざと神妙に言うと、和子が父の膝の上で顔を上げた。
「わるいひとは月にかわっておしおきよ」
思いがけないところでそんな言葉が出たので、一瞬みなきょとんとしたが、すぐに笑いが広がった。
父まで肩をゆらして笑っている。
姉は和子の頭を軽くなでながら、
「どこでそんなの覚えたの」
とあきれ半分に言った。
母は笑いながら、
「この子、テレビのことはほんとによく覚えてるんだから」
と言った。
さっきまで次の子の話をしていた卓袱台のまわりが、その一言でふっとやわらいだ。
政雄も笑いながら湯のみを取り、和子の得意そうな顔を見た。
*
食後はまた片づけを再開し、ひと通り片がついたころ、政雄は実家をあとにした。
日曜の夕方の電車はすいていた。座席に腰を下ろすと、車内の静かさに気が抜ける。
町並みが、電車に合わせて後ろへ流れていった。
姉に二人目ができた。
さっきまでみんなで笑っていたのに、一人になると、そのことが改めて胸に残る。
うちに子どもが生まれたら、どうなるんだろうと政雄は考えた。
元日の脳内会議では、今年一年くらいは二人で過ごしたいと決めたはずだった。
けれど、その先のことまでは、まだ良子ときちんと話していない。
姉の話を聞いたあとでは、そろそろ一度、二人で相談した方がいいのかもしれない。
政雄は暮れていく窓の外をぼんやり眺めながら、そんなことを考えていた。




