第96話 学閥の正体
そんなこんなで、政雄と長瀬の間には、どうにも今ひとつ噛み合わない空気が残っていた。
もっとも、この春に動いたのは長瀬の異動だけではない。
田口もまた人事で昇進し、調査役になっていた。
肩書が変わったからといって仕事の中身が急に変わるわけではないが、祝い事には違いない。
長瀬の歓迎もまだきちんとしていないということで、一度、係の顔ぶれで席を設けようという話になった。
いつにするかと島で予定を合わせていると、たまたま通りかかった相沢久美子が、その話を聞きつけた。
「私は、第三土曜日なら空いてますよ」
あまりに自然な言い方だったので、政雄は一瞬、誰の予定を聞いていたのだったかと思った。
田口が吹き出し、安東さんも苦笑する。
久美子は事務企画課付きで、書類や回覧を持ってこの島に来ることが多い。
気がつけばすぐそばにいて、気がつけば会話に入ってくる。そういうところのある人だった。
「じゃあ、その日でいいか」
安東さんがそう言えば、もう決まったも同然だった。
第三土曜日の仕事終わり、安東さん、田口、政雄、長瀬、それに久美子の五人は、駅前の居酒屋に向かった。
大通りから一本入った通りにある店で、入口には赤提灯がいくつもぶら下がっていた。
引き戸を開けると、油と醤油の混じった匂いが流れてきて、先に入っていた客の声がもわりと耳に当たった。
駅前の居酒屋では、こうした提灯や大衆的な外観がよく見られます。
通されたのは、壁際の四人掛けに補助椅子を足した席だった。とりあえずの生が並び、安東さんがグラスを持ち上げる。
「田口、昇進おめでとう。長瀬も、ようこそ」
「ありがとうございます」
田口と長瀬がそれぞれ頭を下げ、軽くグラスを合わせた。
それだけのことなのに、課の中で向かい合っている時より、少しだけ肩の力が抜ける気がした。
最初に口火を切ったのは久美子だった。
枝豆の皿を自分の方へ寄せながら、楽しそうにあたりを見回す。
「でも、皆さんほんとにばらばらですよね」
「いきなり失礼だな」
田口が笑うと、久美子は少しもひるまずに続けた。
「だってそうじゃないですか。安東さんは何も言わないみたいで、ちゃんと見てますし」
「何も言わないは余計だ」
「田口さんは文句が多いですけど、結局いちばん面倒見がいいですし」
「文句はいらないだろ」
「山本さんはやさしいですよね」
急に話が向いてきて、政雄は少しきょとんとした。
「そうかな」
「そうですよ。頼むと嫌な顔しないですし。偉そうじゃないから、話しかけやすいです」
「そう言う相沢さんだって、よく気がつくよな。いいタイミングでお茶が出てくるし」
田口がそう言うと、久美子は少し大げさに目を丸くした。
「えー、私ってお茶だけですか?」
その言い方がおかしくて、笑いが上がった。
政雄もつられて笑ってから言った。
「いやいや、僕たちが煮詰まってる時なんかに、けっこう貴重な意見を言ってくれるからね。
助かってるよ」
「うふふ、もっと褒めてくれていいですよ」
さらに笑いが広がる。安東さんまで口元をゆるめていた。
ひとしきり場がなごんだところで、久美子は今度は長瀬の方を向いた。
「長瀬さんは、きちんとしてますよね。最初すごく固い人かと思ったんですけど、案外そうでもないですよね」
「まだ慣れてないだけです」
長瀬はそう答えた。笑うほどではなかったが、声の調子は仕事中より少しやわらかい。
「でも、もっと話しかけづらい人かと思ってました」
「怖いって何だよ」
田口が横から口をはさむと、また笑いが起きた。
「怖いとは言ってません」
久美子は悪びれもせずに笑っている。
「それは否定しません」
長瀬がそう言うと、今度はさっきより大きな笑いになった。
相沢に話しかけづらいと言われた手前、いつまでも黙っているのも妙な気がしたのだろう。
長瀬はグラスを置き、少し間を置いてから向かいの政雄を見た。
「山本さんって、もう結婚してるんでしたっけ」
急に話を向けられて、政雄は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにうなずいた。
「ああ、うん。去年の暮れに結婚したんだ」
少し照れたように答えると、田口が待ってましたとばかりに横から入る。
「音楽サークルの桜井京子ちゃんのお姉さんで、いつの間に知り合ったんだか」
「まあ、そこはいろいろと」
政雄が曖昧に笑ってごまかすと、久美子が少し頬を赤くしながら身を乗り出した。
「えー、なれそめとか聞かせてくださいよ」
その言い方に、また笑いが起きた。
政雄は困ったように笑って、いや、大した話じゃないよとだけ答えた。
田口が何か言いかけ、久美子がまた笑う。その和やかなやり取りを見ながら、長瀬は黙ってグラスを傾けた。こんな空気は嫌いではないと、ふとそんなことを思った。
*
歓迎会のあった週が明けると、NOOPはまたいつもの調子に戻った。
もっとも、長瀬の方はまるきり同じというわけでもなかった。
田口の補助をしながら、政雄が手元で抱えていた仕事の一部も、少しずつ長瀬に割り振られるようになっていたからだ。
銀行の実務そのものは支店でひと通りやってきている。
それでも、NOOPで要る知識はまた別だった。
とくにオンライン絡みのあれこれは、長瀬にとってまだ馴染みの薄い分野らしかった。
その日の午前、田口は別件で席を外していた。
長瀬は渡された資料を机に広げ、しばらく目を通していたが、やがて手を止めた。
迷ったように視線を落としたあと、意を決したふうに立ち上がる。
「山本さん、少しいいですか」
声をかけられて、政雄は書類から顔を上げた。
長瀬がこうして自分から来るのは、まだそれほど多くない。
「この部分なんですが、前の経緯がよく分からなくて。田口さんに聞こうと思ったんですけど、戻るまで待った方がいいですか」
「僕でわかることなら答えるよ」
政雄はそう言って立ち上がり、キャビネットの前へ行った。
背表紙を確かめながら何冊か抜き出し、そのうちの一冊を持って戻ってくる。
「この話、もともとはこっちの事例に関係してるんだ」
長瀬の机の脇に立って、政雄は開いたページを示した。
「今の資料だけだと少し分かりにくいけど、その前にこういう話があって、その続きで出てきてる。支店だと、ここまではあまり意識しないと思うから、最初はつかみにくいかもしれない」
長瀬は資料に目を落としたまま、小さくうなずいた。
「なるほど」
政雄はもう一か所、関連する箇所を示した。
「こっちも見ておくとつながりが分かりやすいよ」
長瀬はそこにも目を通してから、ようやく顔を上げた。
「ありがとうございます」
「うん。田口さんが戻ったら、いちおうそっちでも聞いてみて」
「はい」
資料に目を落とす長瀬を見ながら、政雄は少しだけ息をついた。
歓迎会の席で何かが大きく変わったわけではない。
けれど、こうして自分から聞きに来るくらいには、先週までよりも壁が低くなっているのかもしれなかった。
昼までのあいだに、田口も戻ってきた。
長瀬は政雄から渡された資料をもとに、今度は田口に確認を取っていた。
政雄は手元の書類に目を通しながら、その声を聞くともなく聞いていたが、とくに食い違いはなさそうだったので、そのまま口を挟まなかった。
やがて昼が近づくと、課内の空気も少しゆるむ。政雄は手を止めて時計を見た。
午前のうちに片づけておきたかった分は、ひとまず終わっている。
さて今日はどうするかと考えながら、机の上の書類を軽く揃えた。
そのとき、田口が立ち上がって言った。
「山本、長瀬、昼どうする。食堂へ行くか」
政雄が顔を上げると、田口はもう上着を取るところだった。
「今日は腹が減ってるから、スペシャル定食かな」
「それは豪勢ですね」
長瀬がそう答える。少し硬さは残っているが、歓迎会の前よりは課の空気にも馴染んできたようだった。
政雄は二人のやり取りを聞きながら立ち上がり、その後ろについて部屋を出た。
ちょうど来たエレベーターに三人で乗り込む。
二十階の食堂は、昼どきだけあってそこそこ混んでいた。
三人で列に並び、田口は宣言どおりスペシャル定食を選んだ。
長瀬は少し迷って日替わりにし、政雄はいつもの定食にした。
空いた席を見つけて向かい合って座ると、田口はさっそく味噌汁に手をつけた。
「やっぱり腹減ってるときは、こういうのがいいんだよな」
「朝、早かったんですか」
長瀬が聞くと、田口は箸を持ったまま、いやと首を振った。
「早いってほどでもないけど、午前中ずっと動いてると減るだろ」
「それはそうですね」
長瀬がそう言って、小さく笑った。
政雄は二人のやり取りを聞きながら箸を取った。
こういう席では、田口がいると会話が途切れにくい。
長瀬も最初のころに比べれば、返事の仕方が少しやわらいでいる気がした。
「長瀬はどうだ、少しは慣れたか」
田口に振られて、長瀬は苦笑した。
「少しは、ですかね。やっぱり支店とは勝手が違います」
「違うだろうな。まあ、そのうち慣れるよ」
田口のその言葉に、長瀬はすぐには返事をしなかった。少しためらうように箸を置いてから、ふと顔を上げる。
「二人とも国立○○大ですよね。本店には○○大の学閥があるって、本当ですか?」
政雄は思わず田口の方を見た。
「そんな話があるんですか」
「聞かないなあ。そんなのがあるなら、ぜひ引っ張り上げてほしいな」
田口はそう言って笑い、カツをひと口で頬張った。
「そういえば専務は一応先輩らしいけどな。専務と話したことなんてないよ」
長瀬は一瞬きょとんとしたあと、少し気の抜けたような顔になった。
「そうなんですか」
「そんなもんだよ」
田口はあっさりと言って、また箸を動かした。
政雄も味噌汁に口をつけながら、内心で少しだけ可笑しく思った。
長瀬の中では、本店というだけでも何かと構えてしまうものがあるのかもしれない。
けれど、実際にいる人間は案外そんなものでもない。
昼休みが終わると、三人はまたそれぞれの席に戻った。
午後の仕事は、午前中よりも慌ただしく過ぎた。
照会への返答をまとめ、回ってきた書類に目を通し、必要なところにだけ手を入れる。
そうしているうちに、窓の外の明るさも少しずつやわらいでいった。
長瀬も、田口に確認を取りながら、渡された仕事を順に片づけていた。
まだ慣れないところはあるのだろうが、午前中のように手を止めることはもうなかった。
その様子を横目に見てから、政雄は手元の書類に視線を戻した。
課内には紙をめくる音と控えめな話し声が続いている。いつもの午後だった。




