第95話 迷惑な話
正月休みが終わり、仕事始めから一週間もたたないうちに、大蔵省の黒沢から書類が届いた。
昨年末の会合の要点をまとめたものだったが、それだけではなかった。
新たに出てきた問題への対応を協議したいので、次の会合は一週間後にしたいと書かれていた。
これが、政雄にとって悪夢のような日々の始まりだった。
それからというもの、二週間か三週間に一度の割合で、大蔵省から呼び出しがかかるようになった。
そのたびに資料をまとめ、論点を整理し、会合に出たり直接電話がかかってくることもあった。
田口が担当しているATMの店外設置は本格運用が始まっており、本来ならその手伝いもしたいところだったが、そんな余裕はなくなっていた。自分の仕事でさえ、思うように進まない。
見かねた安東は、事務企画課の手の空いている人たちに頭を下げ、政雄の仕事を手伝ってもらっていた。だが、そうした状態が長く続けば、面白く思わない者も出てくる。
「いくら大蔵省の要請だからって、どこの職員だよ」
そんな陰口が、聞こえよがしに耳に入ることもあった。
*
三月も半ばを過ぎたころだった。事務企画課のフロアの端に作られたNOOPで、政雄は書類に目を通していた。奥には安東の机があり、廊下側を向いている。その手前に、田口と政雄の机が向かい合わせに置かれていた。横には打ち合わせ用のテーブルとホワイトボード、それに書類用のキャビネットが並んでいる。
「山本、少しいいか」
「はい」
「田口も聞いてくれ。今のままでは少し厳しいな」
田口も手を止めて顔を上げた。
「大蔵省対応が入るたびに、どうしてもこっちの作業が遅れる。課の中で手を借りて何とか回してきたが、それもそろそろ限界だろう」
「そうですね。安東さんが頭を下げて手伝ってもらってるんで持ってますけど、ずっとこのままはきついですね」
安東はうなずいた。
「四月の定例異動で、NOOPに一人増やす話を進めている。まだ正式には出ていないが、ほぼ決まりそうだ。支店から来る」
「本当ですか」
「山本と同年入社の人間らしい」
「同期ですか」
「そういうことになるな」
田口がそこで口をはさんだ。
「一人入れば助かるのは確かですね。ただ、NOOPの仕事に慣れるまでは少し時間がかかるかもしれませんけど」
「それでも、一人いるのといないのとでは違うだろう」
安東はそう言って、机の上の書類を軽くそろえた。
「四月までは何とか持たせるしかない。山本は大蔵省の方をきちんと対応てくれ」
山本は深くうなずいた。
「はい」
安東はそれ以上何も言わず、もう話は終わりだというように目の前の書類へ視線を戻した。
田口は向かいの席で肩をすくめてみせてから、また自分の仕事に戻っていった。
*
四月最初の朝、NOOPに安東が一人の男を連れてきた。背は高くも低くもなく、紺のスーツをきちんと着こなしている。派手さはないが、初対面で損をしない顔つきだった。
「今日からうちに入る長瀬君だ。支店では為替をやっていた」
長瀬は軽く頭を下げた。
「長瀬修二です。よろしくお願いします」
政雄も席を立って頭を下げた。
「山本です。よろしくお願いします」
長瀬もあらためて軽く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「まあ、座ってくれ」
田口が空いた机を示し、それから少し口元をゆるめた。
「次世代オンライン事務企画係。略してNOOPへようこそ」
政雄は思わず笑った。
「ちょっと変だよね」
長瀬は一度だけ政雄の方を見たが、
「そうですね」
と答えただけで、すぐに安東の方へ向き直った。
安東が席や仕事の段取りを簡単に説明しているあいだ、長瀬の受け答えは素直だった。
返事も早いし、メモも取る。だが政雄には、どうもよそよそしい。
感じの悪い男というほどではないだけに、かえってその距離の取り方が気になった。
何か気に障ることをしたかな、と政雄は少しだけ引っかかった。
長瀬が来て二日ほどたったころ、政雄は大蔵省との次回会合に持っていく資料の下書きをまとめながら、田口に頼まれていた店外ATMの設置先一覧にも目を通していた。机の上には書類がいくつにも分かれて積まれ、どれも急ぎに見えた。
「長瀬君、少しいいかな」
長瀬が顔を上げた。
「はい」
「この一覧なんだけど、支店ごとの営業時間の確認がまだ残ってるんだ。電話であたってもらえると助かる」
長瀬は紙を受け取って目を通した。
「分かりました」
政雄は続けた。
「もし先方から何か言われたら、気になった点もメモしておいてくれるかな。設置場所の条件が支店によって少し違うみたいで」
長瀬はそこで一度だけ顔を上げた。
「確認した内容は書いておきます」
「うん、お願いするよ」
それ以上は言わず、長瀬は受話器を取った。
昼前になって、長瀬は確認の終わった一覧を政雄の机に置いた。
「終わりました。四店、修正があります」
「ありがとう」
政雄が受け取ると、長瀬は軽く会釈して席へ戻った。
訂正は正確に入っていたが、それだけだった。支店側の反応も、設置場所についての感触も書かれていない。頼んだことはきちんと済ませてある。
ただ、それ以上はなかった。
政雄は一覧にもう一度目を落としながら、長瀬はこういう仕事の仕方をするのだなと思った。
ミスはないが、こちらの要望より先までは踏み込んでこない。少なくとも政雄の仕事については、そういう距離の取り方をするつもりらしかった。
その日の午後、田口は店外ATM設置先の一覧を前に腕を組んでいた。向かいの政雄が大蔵省向けの資料に追われているあいだも、田口は支店から上がってきた報告書に赤を入れている。
「どうしました?」
長瀬が、席を立つついでのような調子で声をかけた。
「いや、この支店な。駅前の出張所に置きたいって言ってるんだけど、夜の人通りが多すぎる気もするんだよ」
田口が一覧の一か所を指で叩く。
長瀬はその横から書類をのぞきこんだ。
「ここ、昼はいいですけど、夜は酔客が多いですね。支店でも、閉店後の見回りを増やした方がいいって話になりそうです」
「やっぱりそうか」
「それと、この場所なら通帳記入だけ使いたい客も来るでしょうから、動線が狭いと詰まるかもしれません」
田口は顔を上げた。
「なるほど」
「支店にいた時、似たような場所で揉めたことがあります。設置自体はできても、運用が始まってから苦情が出るんです」
田口は感心したように笑った。
「そういう話は助かるな」
「もし必要なら、このへんは支店に聞いてみます」
長瀬はそう言って、自分から一覧を引き寄せた。
政雄は書類から顔を上げ、二人のやり取りを横目で見た。
長瀬は田口に頼まれたわけでもないのに、支店での経験をもとに自分から話を足している。
ほんのひと言ふた言ではあるが、午前中に自分へ向けていた態度とは、やはり少し違っていた。
長瀬は気が利かないわけではないらしい、と政雄は思った。
ただ、その気の利かせ方が自分の方にはあまり向かないだけなのだろう。
長瀬のそっけなさには、政雄の知らないところで、それなりの理由があった。
*
三月半ばの朝、長瀬はいつものように支店に出勤した。まだ店内の空気も固く、伝票の束が本格的に動き出す前だったが、席に着いてほどなく支店長に呼ばれた。
何かあったかと思ったものの、支店長の口から出たのは思いがけない話だった。
四月の定例異動で、本店へ移ってみないかという。
行き先は事務企画課で、その中の次世代オンライン事務企画係だと聞かされた。
本店。
その一言で、長瀬の気持ちはほとんど決まった。驚きはしたが、迷う理由はなかった。
支店勤めが悪いとは思っていない。
だが、銀行で先を考えるなら、本店に行ける機会は逃したくない。
長瀬はその場で承諾した。
席に戻ってからも、しばらく胸の内が落ち着かなかった。
ようやく来た、という思いがあった。同期の中には、もっと早く本店に上がった者もいる。
自分は支店回りが長かった。
もちろん、それで腐るつもりはない。
だが、本店に呼ばれる側と、いつまでも支店に置かれる側とでは、やはりどこかで線が引かれている気がしていた。
その日のうちに、長瀬は次世代オンライン事務企画係のことを調べた。
まだ三年位の部署らしく、人数は多くない。
責任者は事務企画課の副部長の安東、実務の中心には田口という先輩がいて、もう一人、山本という名があった。
山本政雄。
その名前を見た時、長瀬は少しだけ手を止めた。同期だった。
同期といっても、それだけで親近感が湧くほど単純でもない。
話をつなぎ合わせると、山本は自分とはだいぶ違う道を歩いてきたらしかった。
国立大を出て、入行して四年半ほどで本店の管理部門へ移り、昨年にはもう昇進している。
支店を回りながらここまで来た長瀬から見れば、最初から別の線の上にいたようなものだった。
大学のことを、長瀬はふだんから人に言うほど気にしているつもりはなかった。
都銀に入れたのだから、世間から見れば十分なのだろう。
だが、行内に入れば話は少し違う。
どこの大学を出たかで、最初から見えない差がついている気がすることがある。
とくに国立大を出ている者を見ると、やはり違うのだろうと思わされることがあった。
それに、山本と同じ大学の出身者が上にいるという話も耳にしたことがある。
専務だったか常務だったか、そのあたりまでははっきりしない。
ただ、そういう話が自然に出てくること自体、まったく無関係とも思えなかった。
学歴があり、本店に早く上がり、昇進も早い。
そういう人間は、最初から出世する側にいるのではないか。
長瀬にはそんなふうに見えた。
山本本人が実際にどういう男なのかは分からない。学閥だの何だのを、本人がどこまで意識しているのかも知らない。
だが、少なくとも自分とは違う場所に立ってきた人間なのだろうとは思った。
本店でうまくやっていきたい気持ちは強かった。
だからこそ、最初から人を見る目を甘くするつもりはなかった。
とくに、すでにその場所にいる同期に対しては、なおさらだった。
当面は、素直に信用しないほうがいい。
長瀬はそう考えて4月1日を迎えていた。
だがその時の政雄には、そんなことは知る由もない。
まったく、迷惑なはなしだった。




