第100話 時代の変化と政雄の立ち位置
四月に入って最初の金曜日、政雄は午前中からそわそわしていた。
今日は、黒沢に呼ばれている日だった。
今年に入ってからも、月に何度かはこうして霞が関に出向いている。
表向きは大蔵省対応の手伝い、実際には黒沢が集める会合への出席である。
双葉銀行の中でも、もう政雄が黒沢のところへ顔を出していること自体は珍しい話ではなくなっていた。もっとも、それを面白く思っていない者がいることくらいは、政雄にも分かっている。
「また山本はお上のところか」
昼休みにそんな声が聞こえたのは、今日が初めてではなかった。
「気楽でいいよな。成果を出せと言われるわけでもないんだろ」
聞こえないふりをしていたが、気分のいいものではない。
たしかに双葉銀行の中では、政雄に分かりやすい成果を求める者はいない。
だが、だからといって気楽なわけでもなかった。
黒沢のところへ行けば、知らない業界の者ばかりいる。
話についていくだけでも神経を使うし、何を見て何を考えるべきか、毎回試されているような気がするのだ。
もっとも、以前なら急ぎの外出ともなれば、課の誰かが気を利かせてタクシー券を出してくれたかもしれない。
だが最近はそうもいかない。今日も政雄は地下鉄で霞が関へ向かった。
このご時世では贅沢も言っていられない。
*
指定された会議室へ入ると、すでに何人かが来ていた。
カード会社、保険会社、機器メーカー、通信関係。顔ぶれはだいぶ見慣れてきたが、それでも政雄は入るたびに少し気を使う。
ただ、席だけはもう迷わない。
黒沢の席の横が、最初から当然のように一つ空いているからだ。
最初のころに黒沢からそこに座るように言われて座った席だったはずだが、いつの間にかそれが定位置のようになってしまった。
今では政雄自身がためらうより先に、周囲の方がそこへ座るものだと思っているらしい。
ありがたいのか、居心地が悪いのか、いまだによく分からない。
政雄がその席に着いて間もなく、黒沢が入ってきた。
「お待たせしました」
いつも通りの低く穏やかな声である。黒沢が席に着くと、出席者たちも自然に手元を整えた。
「では始めましょうか。今年度の進め方について、先にこちらからお話しします」
そう言って黒沢は、あらかじめ用意していた資料を政雄に目配せした。
政雄はすぐに立ち上がり、人数分の資料を順に配っていく。これももう慣れた役目だった。
配り終えて席へ戻ると、黒沢が口を開いた。
「これは昨年度までの議論を受けて、現時点で考えている将来的な方向と、その実現にあたって問題になりそうな点を整理したものです。銀行、カード、保険、通信、機器、それぞれの立場で読んでいただければと思います」
政雄も手元の資料に目を落とした。
項目立ては簡潔だったが、内容は軽くない。
今年度中に検討したい主題と、そこにぶら下がる論点が分けてあり、さらに時期ごとの進め方まで記されている。
黒沢は一つずつ確認するように話した。
「まず春先までは、各業種の側から見た現実的な制約を洗いたいと考えています。何が制度上の壁になるのか、何が技術的に難しいのか、費用面で無理があるのはどこか。まずはそこを、希望的観測ではなく実際の話として出していただきたい」
何人かが資料を見ながらうなずいた。
「夏前までには、利用者にとってどのような利便が考えられるか、どこまでなら受け入れられるか、もう少し具体的な利用場面に寄せて話を進めたいと思っています」
そこまで言ってから、黒沢は一拍置いた。
「そのうえで年内には、実現の可能性が高いものと、まだ早いものを分けたい。来年三月までには、将来的な方向と、その時点で解決が必要な課題をひと通り整理する。そういう予定で考えています。もちろん、途中で修正はあるでしょうが、大きな流れとしてはそのつもりです」
役所の会議らしいと言えばそれまでだが、期限と手順があるだけで話はぐっと現実味を帯びる。
政雄も、今年は何となく呼ばれているわけではないのだと改めて感じた。
黒沢は続けた。
「内容そのものは、これまで話してきた延長です。ただ、今年度は期限がありますから、これまでより少し具体的に進めたい。山本君が前に言っていたように、各社の都合だけで先を考えても限界があります。その点も改めて念頭に置いていただければと思います」
またこちらへ話が振られた。政雄は軽く会釈だけ返したが、何人かの視線が向くのは避けられない。黒沢の横に座っているだけでも目立つのに、こうして名を出されればなおさらだった。
そこから先は通常の会合になった。端末の普及見通し、通信費の負担、本人確認のやり方、顧客情報の扱い。議題は多かったが、今日は最初に工程が示されたぶん、どの話が今年のどこにつながるのか分かりやすかった。
途中、機器メーカーの担当が家庭向け端末の話をした。
まだ一般家庭には早いという慎重な声もあったが、政雄にはそこが気になった。
家庭に端末が入り、回線でつながり、口座や決済が今より身近になる。
今はまだ先の話に聞こえても、政雄には、むしろそこへ進まない方が不自然に思えた。
もっとも、それをそのまま口に出すつもりはない。今の自分にできるのは、そうなった時に銀行の実務では何が障害になるかを考えることくらいだった。
*
会合が終わった時には、定時をだいぶ過ぎていた。
政雄が資料を鞄にしまっていると、クレジットカード会社の担当者が近づいてきた。会合では終始にこやかだが、要所ではきっちり切り込んでくる男である。
「山本さん、このあと少し時間有りませんか?」
政雄は一瞬だけ考えたが、断る理由もなかった。こういう場に顔を出していれば、会合の外でしか聞けない話もある。
「少しでしたら」
「では、場所を変えましょう」
政雄は双葉銀行へ電話を入れ、直帰してよいか確認を取った。
NOOPにはもう事情が通じやすくなっている。
用件だけ伝えると、すぐに許可が出た。
教えられた店は銀座のはずれにあった。
表に立った時点で、政雄は少しだけ身構えた。ドラマなどで見る一流クラブというほどではないが、自分の感覚では十分に高そうな店だった。
これは経費では落ちないなと腹をくくって中へ入る。
中にはすでに二人来ていた。保険会社の担当と、機器メーカーの担当である。
どちらも会合では何度も顔を合わせているが、こうして酒の席を囲むのは初めてだった。
全員、政雄より年上で、それなりの肩書を持っている。
政雄はどうしても少し腰が引ける。
「まあまあ、そんなに構えないでください」
クレジットカード会社の担当が笑って言った。
「今日は会議の続きみたいなものですから」
そう言われても、こういう言い方の時ほど本当は別の用があるものだと政雄は思う。
酒が入り、しばらくは景気の話になった。
「やっぱり去年の後半あたりから、接待費にはうるさくなりましたよ」
とクレジットカード会社の男が言えば、
「うちも似たようなものです。稟議が通りにくくなりました」
と保険会社の男が続く。
機器メーカーの担当も苦笑した。
「設備投資の話が出ても、まず本当に今いるのかと聞かれますからね」
みな口では厳しくなったと言う。たしかに以前より締まってきているのだろう。
だが政雄は、目の前の料理と酒と店の造りを見ながら、いや、こんな店で飲んでるあんたらはまだまだバブリーだよ、と思っていた。
もっとも、そんなことを口に出すほど子どもではない。
前世でも、こんな店で接待を受ける側に回ったことはなかった。
最後に勤めた会社では営業部長という肩書こそあったが、従業員は十人ほど、営業は自分ひとりだったのだから、いまと比べてどうこう言える話ではない。肩書だけ見れば聞こえはよくても、中身まで立派だったわけではない。
一通り世間話が済むと、話が少し止まった。
その間を見て、保険会社の男がグラスを置いた。
「山本さんも、もうずいぶん黒沢さんの近くにいますよね」
やはりそこか、と政雄は思った。
クレジットカード会社の男も、やわらかい顔のまま続ける。
「最初のころは、銀行側の若手が手伝いに来ているという感じでしたけど、最近はそうでもないでしょう。今日だって、黒沢さんの横が当たり前みたいになっていましたし」
「いえ、あの会合の中では一番年下ですし、黒沢さんから小間使いにされてるだけですよ」
政雄がそう返すと、クレジットカード会社の男が笑った。
「今日の資料も山本さんが作ったんでしょう?」
「前回までの内容をまとめただけです。黒沢さんは人使いが荒いですよね」
そう言うと、今度は保険会社の男が首を振った。
「それでも、黒沢さんに期待されてるんですよ」
政雄は苦笑するしかなかった。
保険会社の男がグラスを置いた。
「それで、山本さん。今日の話、あれはずいぶん先まで見ていましたね」
政雄は曖昧にうなづいた。
「黒沢さんは前からああいう方ですよ」
「前からですけど、今年は締切がはっきりしましたね。来年三月までと言われると、こちらも社内で人を出す理由が要ります」
クレジットカード会社の男も続けた。
「勉強会の延長なら、それはそれでいいんです。ですが、あそこまで予定を示されると、こちらも構えますからね。何か出すつもりなんでしょう」
機器メーカーの担当が口を開いた。
「問題は、どこまで本気かです。役所の会合は、立派なことを言って終わる場合もありますから」
政雄は水割りに口をつけてから答えた。
「あくまで私の感覚ですが、少なくとも黒沢さん個人は、本気だと思っています」
三人の視線が集まる。
政雄は続けた。
「ただ、先ほども言いましたけど、私は黒沢さんに指示されたことをやってるだけなので、大蔵省がどう考えているかまでは聞かされてないんです」
一瞬だけ間があいた。
言い方をやわらかくしても、ここは少し線を引いた方がいい。政雄はそう判断していた。
黒沢個人の熱意と、大蔵省全体の意向は別である。
その区別がつかないような返事はしない方がいい。
クレジットカード会社の男が苦笑した。
「なるほど。そこはきっちりしていますね」
「皆さんにいい加減なことは言えば、あとで困りますから」
政雄がそう返すと、保険会社の男が話し方を変えた。
「では、山本さんご自身は、あの話はどこへ向かうと思っていますか?」
政雄は少し考えた。
ここで黙り込むのも不自然だが、調子に乗って話しすぎるのはまずい。
「少なくとも、会合を続けること自体が目的ではないんだろうと思っています。今日みたいに期限まで示した以上、来年三月までには何かしら出すつもりなんでしょうね。もっとも、その先まで私が聞かされているわけではありません」
機器メーカーの担当が、なるほどという顔になった。
保険会社の男も小さくうなずいた。
「やはり、そのくらいの温度ですか」
「それ以上のことは、私にはわからないですよ」
政雄がそう言うと、クレジットカード会社の男が笑った。
「山本さんは案外、口が堅いですね」
「銀行員ですから」
笑ってそう返すと、場が少しだけゆるんだ。
そのあとはまた、景気の話に戻ったり、機器の話になったりして、最初ほど張りつめたやり取りにはならなかった。
だが政雄には分かっていた。この席は、ただの懇親ではない。
三人とも、政雄を通して黒沢の考え方を測ろうとしていたし、できれば今のうちに政雄との距離も近づけておきたいのだろう。
この酒席は二時間ほどでお開きになった。
覚悟していた会計はクレジットカード会社の担当が払ってくれて、政雄は正直ほっとした。
あの店で自腹になっていたら、今月の小遣いはだいぶ苦しくなるところだった。
店を出て駅へ向かうころには、さすがに夜も更けていた。
帰りの電車に揺られながら、政雄は今夜のやり取りを思い返した。
こういうことは、たぶん今後もあるのだろう。
会合の場で顔を合わせるだけでは足りないと考える人間がいるのは、むしろ自然だった。
年初の脳内会議では、人脈も作ろうと決めた。
積極的に飲み歩くつもりはないが、こういう機会に顔を覚えてもらうのは悪くない。
ただし、調子に乗るのは別だ。
少し持ち上げられたくらいで、黒沢の片腕のような顔をするのは危ない。
自分はあくまで双葉銀行の山本政雄であって、大蔵省の人間ではない。
その線だけは見失わないようにしなければならない。
それに、今夜のことは次に黒沢と会った時、ひと通り話しておいた方がいいだろう。
隠すようなことではないし、耳に入るなら自分の口からの方がいい。
電車が揺れるたび、窓に映る自分の顔もわずかに揺れた。




