第101話 夏の日の出来事
七月も下旬に入ると、朝からもう暑かった。
政雄が出勤してほどなく、田口に声をかけられた。
「山本、悪いけど今日ついてくれないか」
田口の足元には、資料の入った鞄のほかに、大きなカバンがあった。
中にはカメラやその三脚、大きなメジャーなど一式が入っているらしい。
「長瀬君は、もう休みでしたっけ」
「今週から早めに帰ってる。お盆をずらせないらしい」
この仕事は、もともとNOOPの仕事の一つだ。
支店や設置予定先へ出向いて、ATMの設置場所や運用上の問題を確認する。
以前は政雄が行くことも多かったが、黒沢に呼ばれることが増えてからは長瀬に渡していた。
今回はその長瀬がいないので、久しぶりに政雄の出番が回ってきたのである。
もっとも、今日の件そのものは田口が担当している。
政雄は事情を細かく知っているわけではなく、荷物持ちを兼ねた手伝いだった。
「駅からまた歩くらしいから、今日は働いてもらうぞ」
「それはもう、見た時点で分かりますよ」
政雄は大きなカバンを持ち上げて、朝から少しだけうんざりした。
行き先は、都心から二時間ほどの私鉄沿線だった。
乗り換えのたびに人が増えたり減ったりして、冷房のきいた車内と、焼けつくようなホームの温度差だけで体力を持っていかれる。
途中からは、今日はまだ現地にも着いていないのに、もう帰りのことを考えていた。
ようやく最寄りの支店に着くと、先方の担当者が応接室で待っていた。
挨拶もそこそこに、田口が持参した資料を出し、予定を確認する。駅の敷地内ではあるが駅舎の中ではなく、端の方に独立した屋外ブースを設ける案だという。
そこから先は、支店の担当者も加わって現地へ向かった。
駅は小さかった。
乗降客はそれなりにいるが、売店も小さく、改札のまわりも広くはない。
そのぶん、候補地まで歩くと人の流れがどうなるかは分かりやすかった。
田口は現地へ着くと、まず利用者の出入りを確かめ、それから周囲の建物との距離や、人目につきやすい位置かどうかを支店の担当者に尋ねていった。
防犯上の不安がないか、現金の補充や保守の車が入りやすいか、夜間に困る点はないか。政雄はその話には加わらず、田口に言われるままカメラを渡したり、三脚の位置を移したりしながら手伝った。
候補地の周辺や導線を撮る時は、必要な向きになるよう機材を運ぶ。大きなメジャーで距離を測る時は端を持ち、田口が示した箇所までまっすぐ引く。
ブースの出入り口から人が流れる位置、保守車両が寄せる余地、近くの電柱や電線がどの程度干渉しそうか、高さの確認まで、田口は思った以上に細かく確かめていた。
普段の黒沢の仕事では、先のことを考える話が多い。だがこちらは違う。
利用者がどこを通るか、保守の人間がどこから入るか、雨の日に困らないか、支店の担当者が何を嫌がるか。話題になるのは、そういう目の前のことばかりだった。
同じNOOPの仕事でも、いま自分が普段やっていることとは、だいぶ違ってきたなと政雄は思った。
もっとも、そんなことを考えていても暑さはどうにもならない。
日差しをさえぎるものが少なく、立っているだけで背中に汗がたまる。
少し動けばすぐに喉が渇く。田口も支店の担当者も平然と話を続けているが、政雄は途中から、早く支店へ戻りたいとしか思わなくなっていた。
一通り確認が済んで支店へ戻るころには、ちょうど昼になっていた。
通された会議室は冷房がよくきいていて、椅子に座っただけで力が抜けそうになる。
昼に用意してもらったざるそばはありがたかったが、炎天下を歩いたあとでは、残さず食べるだけで精いっぱいだった。
「山本、大丈夫か」
田口が半分笑いながら聞いた。
「大丈夫です。たぶん」
「たぶんじゃ困るんだがな」
そのあとの打ち合わせは、設置時期や支店側で準備してもらうことの確認が中心だった。
田口と支店の担当者が話しているあいだ、政雄は口を出さずに座っていたが、冷房のきいた部屋でようやく汗が引いてくると、疲れがまとめて出てきた。
大学一年の夏休みに、海の家へ瓶のジュースを配達するバイトをしたことがあった。
あの時に比べれば、今日の荷物など大したことはないはずだった。
ないはずなのに、いまはあのころより暑さが身にこたえる気がしてならない。
年のせいかと思いかけて、まだそこまでではないだろうと自分で打ち消した。
田口たちの話を聞き流しながら、そんな場違いなことを考えていた。
帰りもまた、電車をいくつか乗り継いだ。
本店へ戻ったころには、まだ夕方前だというのに、政雄は一日分の仕事を終えた気分だった。
自分の机に着いた途端、背もたれに体を預ける。
そこへ、事務の久美子が冷えた麦茶を出してくれた。
「どうしたんです、そんなにへばって」
「いやー、最近は炎天下で動くことなかったからね」
相沢は麦茶を机に置いて、少しあきれたように笑った。
「霞が関だと、涼しい部屋で難しい話ばっかりですもんね」
それはそうだ、と政雄は思ったが、言い返す元気まではなかった。
とにかく今は、冷えた麦茶がうまかった。
*
忙しさにかまけて延び延びになっていたが、サックスは先日ようやく修理から戻ってきた。
大学時代に先輩から譲ってもらった中古で、吹けないわけではないものの、前から気になっていた箇所はいくつもあった。
今年の初めに、買い替えは無理でも整備くらいはしておこうと決めて出したのだが、思ったより日がかかってしまった。
台風の去った次の水曜日、政雄は久しぶりに定例の音楽サークルへ顔を出した。
次の演奏予定はまだ先で、今日は全体で何かを合わせるような日でもないらしい。
集まっている人数も少なく、気の合う者どうしで音を合わせている者もいれば、一人で前回の復習をしている者もいた。
政雄も部屋の隅でケースを開け、戻ってきたばかりのサックスを組み立てた。リードを取りつけ、息を入れてみる。以前も吹けないわけではなかったが、引っかかる感じが減っている。
高い音も前より素直に鳴る気がした。
「お義兄さん、久しぶりですね」
声をかけてきたのは京子だった。
「京子ちゃんか。しばらく来られなくてね」
「忙しかったんですか」
「まあね。ようやく楽器だけは戻ってきたよ」
政雄がそう言うと、京子はサックスを見て笑った。
「よかったですね。前から直すって言ってましたもんね」
「うん。もう少し早く出せればよかったんだけど」
そんな話をしているうちに、京子がふと思い出したように言った。
「そういえば、この前の台風でうちの屋根、瓦が何枚か飛んじゃったんですよ」
「え」
政雄は思わず手を止めた。
「大丈夫だったのかい」
「家の方は大丈夫です。ただ、お父さんが応急処置しようとして」
そこで京子は少し困ったような顔をした。
「梯子から落ちたんです」
「え、大事じゃないか。大丈夫なのかい」
「大丈夫ですよ。梯子の二段目に掛けた足を滑らせて、ねん挫しただけですから」
「ふう。びっくりさせないでくれよ。でも、それならよかった」
政雄が胸をなで下ろすと、京子はあきれたように続けた。
「もう、いい年なんだからやめた方がいいって言ったんですけどね。無理するんですよ」
その言い方に、政雄も苦笑した。
「その話、良子は知ってるのかな」
「たぶん知らないと思いますよ。お父さん、恥ずかしいから言うなって言ってましたし」
「そうか。でも一応、良子には俺の方から話しておくよ」
「その方がいいかもしれませんね。あとで別のところから聞いたら、お姉ちゃん絶対怒りますし」
それもありそうだと政雄は思った。
京子はそれだけ言うと、じゃあ私は向こうで合わせてきますね、と仲間の方へ戻っていった。
政雄はもう一度サックスを口に当てたが、さっきより別のことが気になっていた。
義父の話を聞いて、ふと自分の父親の年齢を考える。今年で六十歳になるはずだった。母も五十八だ。今のところ二人とも元気にしているが、いつまでも今のままとは限らない。
良子の実家の話を聞いたばかりだからかもしれない。だが、そういうことは、どこの家でも起こりうるのだろう。
いつも家族のことは母からの電話で知ることになっていたが、たまにはこちらからも連絡して、様子を聞いた方がいいのかもしれない、今夜にでも電話してみようと政雄は思った。




