第102話 忙しい日々と嬉しい知らせ
九月に入っても、黒沢に集まってくる話は減らなかった。
銀行、流通、通信、機器メーカー。顔ぶれは毎回少しずつ違うが、黒沢が気にしているのは一つだった。
これから先、金融だけで話が済む時代ではなくなる。
その時に何が問題になるのかを、今のうちに洗い出しておきたいのだろう。
会合が近づくたびに、政雄のところへも資料が回ってきた。
各社の説明、技術上の課題、制度上まだ曖昧な部分、過去の事例。
量も増えていたし、中身も前より具体的になっていた。
ただ読み比べるだけでは済まず、食い違う箇所があれば確かめ、気になる点があれば付箋を入れる。
会合の前には、それらを見直して黒沢に渡すためのメモも作る。
もともと政雄は双葉銀行のNOOPの人間である。
だが最近は、そちらの仕事よりも黒沢がらみの用事に時間を取られる方が多かった。
週に一度か二度は霞が関へ呼ばれるし、電話もかかってくる。
安東からも、大蔵省の要請ならそちらを優先するようにと言われているので、今さら驚きはしない。
ただ、NOOPの仕事からはずいぶん離れてしまったという思いはあった。
もっとも、政雄自身に不満があるわけでもない。黒沢が集めている話は、銀行実務の延長だけではない。
ネット関連や機器の話は、政雄にとってむしろ聞いておきたい分野だった。
これから先に何が来るのか、前より少し先まで見える気がする。
そういう意味では、忙しいなりに得るものもある。
ただ、得るものがあるからといって、仕事が減るわけではない。
このところ政雄は、そうした資料の確認と整理に追われていた。
*
八月も終わるころから、良子は少し体調を崩していた。
食欲がまるでないというほどではないし、寝込むほどでもない。
ただ、朝からだるそうにしていたり、急に気分が悪くなったりすることがある。
本人は夏バテかしらと言っていたし、政雄も今年の暑さなら無理もないと思っていた。
だが、九月に入っても良くならなかった。
図書館の仕事には出ていたものの、顔色の冴えない日が続いたため、さすがに一度診てもらった方がいいだろうということになって。
良子は平日に休みを取り、近くの総合病院へ行くことにした。
政雄が帰宅すると、夕食の支度はもうできていた。
台所からはいつもの匂いがして、食卓の上も整っている。
良子は普段どおりの顔で出迎えたが、どこか少しだけ落ち着かないようにも見えた。
「おかえりなさい」
「ただいま。どうだった?」
鞄を脇に置きながら聞くと、良子はすぐには答えず、少しだけ笑った。
「夏バテじゃなかったみたい」
政雄はそこで顔を上げた。
「え」
「もっと長引くものだったのね」
そう言ってから、良子は政雄を見たまま続けた。
「赤ちゃんができたの。三か月ですって」
政雄は一瞬、言葉が出なかった。
良子はわざと軽く言ったのだろうが、こちらは軽く受け取れる話ではない。
「本当か」
ようやくそれだけ言うと、良子はうなずいた。
「本当。私もびっくりしたわ」
政雄は立ったまま、しばらく良子の顔を見ていた。
驚きはまだ残っていたが、それより先にうれしさが来た。
自分でも分かるくらい顔がゆるんだ。
「そうか」
それだけ言って、もう一度言った。
「そうか」
今度はさっきよりちゃんと実感がこもっていた。
「ありがとう」
政雄が言うと、良子はその顔を見て、そこでようやく心から安心したように笑った。
花が咲くような笑顔だった。
「あなたもこれからは父親よ」
政雄もつられて笑った。
何かもっと気の利いたことを言うべきなのかもしれなかったが、そんなものは出てこない。
ただ、うれしかった。
「体調はどうなんだ」
「今日は少しまし。でもここ数日は朝がだめだったの」
「ちょっと辛そうだったものね」
「うん。でも理由が分かったから、前より気持ちは楽」
その言い方に、政雄は少しほっとした。
「ごはんにしましょうか」
「うん」
とりあえず、二人で食卓に着いた。
赤ちゃんができた。そう口にするたび、少しずつ実感が増していく気がした。
夕食のあいだも、話は何度も同じところへ戻った。
いつ病院へ行ったのか、医師には何と言われたのか、いま気をつけた方がいいことは何か。
そうしたことを一つずつ聞いていくうちに、政雄の中でも少しずつ実感が形になっていった。
ただ、うれしいのはたしかでも、その先のことまでその場ですぐ整理できるわけではなかった。
良子の体調のこと、これからの通院のこと、仕事をどうするかということ。
思いつくことはいくつもあったし、政雄としてはまだ聞きたいこともあった。
だが、良子は大丈夫だと言いながらも、いつもより少し疲れて見えた。
湯呑みを置いた良子の手元を見て、政雄はそれ以上話を続けるのをやめた。
「今日はもう、このくらいにしておこうか」
良子は少しだけ気の抜けたような顔で笑った。
「そうね。ありがとう」
その日は結局、無理に先のことを決めようとはせず、早めに休むことにした。
だが布団に入ってからも、政雄はすぐには寝つけなかった。
父親になる。口にするとまだどこか落ち着かないのに、胸の奥ではたしかに何かが動き始めている気がした。
*
翌日からも仕事はいつもどおりだった。
黒沢に集まる会合用の資料は相変わらず多く、政雄は銀行にいる時間も、霞が関へ出る時間も、前と同じように慌ただしく過ぎていった。
それでもふとした拍子に、前なら考えもしなかったことが頭に浮かぶ。今ごろ良子は図書館で仕事をしているだろうか、朝は辛くなかっただろうか、無理をしていないだろうか。そんなことを思うたびに、自分の中で意識するものが少し変わってきているのを感じた。
良子の方も、ただ待っていたわけではなかったらしい。
病院で聞いたことを思い返しながら、これから必要になりそうなことを少しずつ調べていたようだった。
そうして迎えた次の休日、二人は少し落ち着いた気持ちで、これからのことを話すことにした。
*
日曜日、遅めの朝食をすませると、良子は食卓の上を片づけ、そのまま向かいに座った。
「少し、これからのことを話しておきたいの」
そう言って良子が出してきたのは、病院でもらった冊子と、自分で書きつけたらしい小さなメモだった。
政雄はそれを見て、思わず少し背筋を伸ばした。
「ずいぶん用意がいいね」
「何も分からないままでも困るでしょう」
おっとりした言い方だったが、こういうところは昔からしっかりしている。
しかも今回は、それだけではなかった。
ついこの前まで、体調不良の原因も分からずにいたはずなのに、良子はもうその先のことを考え始めている。
さすがは母は強しというべきか、と政雄は思った。おっとりしたお嬢様のように見えていた良子が、もう少しずつ母親になり始めている。
政雄はうなずいて、湯呑みを脇に寄せた。
「まずね、すぐに仕事を辞めるつもりはないの」
良子は最初にそう言った。
「体調にもよるけれど、図書館にはできるだけ続けて行きたいと思ってるの」
それは政雄にも何となく分かっていた。良子は家にいることが嫌なわけではないが、ただ流されるまま仕事を手放すような人ではない。
「うん」
「もちろん、無理はしないわ。でも、続けられるうちは続けたいの」
「それがいいと思う」
政雄は素直にそう言った。
仕事を辞めた方がいいと言うつもりはなかったし、良子がそうしたいなら、そのつもりで考えるべきだと思った。
良子はそこで少しだけ表情をやわらげた。
「ありがとう」
「ただ、その先は考えないといけないよね」
政雄がそう言うと、良子もうなずいた。
「そうなの。いちばん困るのは、産まれたあとだと思うのよ」
「預け先か」
「ええ。私がまた仕事に戻るなら、そこをどうするかがいちばん大きいでしょう」
その言葉に、政雄も黙ってうなずいた。
自分の勤め方を考えると、毎日決まった時間に帰れるとは言いがたい。良子に全部任せるわけにはいかないし、だからといって、ではどうするのかとなると、すぐ答えが出る話でもなかった。任せきりにはできない、考えなければならないと思う。だが、何をどう考えればいいのか、その入口からしてよく分からない。前世の記憶があると言っても、この件にかぎっては何の役にも立ってくれない。何しろあちらではまるでモテず、そのまま独身で老後まで行ってしまったのだから、仕方がないといえば仕方がなかった。
「お義母さんに頼めるかどうか、とか?」
政雄が言うと、良子は少し考えてから首を振った。
「お母さんは頼めば助けてくれるでしょうけど、ずっと当てにするのは違う気がするの」
「そうだね」
「あなたの実家だって、遠いもの」
それもその通りだった。
良子はメモに目を落としながら続けた。
「だから、区のこともちゃんと調べた方がいいと思うの。保育のこととか、手続きとか」
「もうそこまで考えてるのか」
「少しだけね。まだ先のことだけど、何も知らないままでは落ち着かないもの」
政雄は思わず苦笑した。
「僕はそこまで頭が回ってなかったな」
「あなたは今、仕事が忙しいもの」
責める調子ではなく、事実としてそう言われると返す言葉がなかった。
「でも、忙しいからで済ませるわけにはいかないね」
「ええ。二人のことだもの手伝ってくれるでしょう」
その一言で、政雄は少し背筋が伸びる思いがした。
「両方の実家には、早めに話した方がいいかな」
政雄が言うと、良子はすぐにうなずいた。
「私もそう思ってたの。たぶん、どちらも喜んでくれるでしょうし」
「うん。知らせるなら、あまり遅くしない方がいいね」
「ええ」
そこまで話して、二人は少し黙ったが、空気は重くなかった。
先のことが全部決まったわけではない。
それでも、何を気にしておけばいいかが少し見えただけで、気持ちはだいぶ違った。
「少しずつやっていこうか」
政雄が言うと、良子はやわらかく笑った。
「そうね。一度に全部は無理だもの」
その顔を見て、政雄もようやく少し落ち着いた。
何をどうすれば正しいのか、まだ分からないことの方が多い。
けれど、自分一人で途方に暮れるより、良子と二人でなら何とかなりそうに思えた。
*
そのあとで両家にも知らせた。
良子の実家は、まず何より喜んでくれて、手伝いが必要なら遠慮なく言いなさいと何度も言ってくれた。
政雄の実家でもやはり喜んでくれたが、こちらはそれより先に、良子さんの体を気遣ってやれと母に念を押された。
政雄は受話器を置いたあと、どちらもありがたい話だと思いながら、言われたことをそのまま良子に伝えた。




