第103話 冬を前にして
十月に入ると、良子の体調はかなり落ち着いてきた。
九月のころのように朝から気分が悪くて動けない日が続くことはなくなり、仕事にもいつものように通っている。
ただ、前と同じ調子というわけではなく、帰宅すると早めに休む日が増えた。
政雄もそのあたりは気にかけていたが、良子の方はそれよりこれからのことを考えていた。
夕食のとき、良子が病院でもらってきた案内や小冊子を出しながら言った。
「出産するところ、少し考えてみたの」
政雄は箸を止めた。
「うん」
「決めておかないと、あとで慌てそうでしょう」
言い方はやわらかいが、良子の気持ちはもうかなり定まっているようだった。
いくつか評判を聞いたうえで、今のアパートから通いやすい産婦人科を候補にしているらしい。
「里帰りはしないの?」
「今のところは、そのつもり」
良子はそう言ってから、少し考えるように言葉をついだ。
「実家に戻って産むこともできるとは思うの。でも、結局ここに戻って暮らすなら、最初から近いところの方がいい気がするのよ」
政雄も、それはもっともだと思った。
産む前だけ実家へ戻り、産んだあとにまたこちらへ戻るより、最初から今の暮らしの延長で考えた方が無理がない。
「その方がいいかもしれないね」
「お母さんも、手伝いがいるなら言いなさいって言ってくれてるし」
良子の母親がそう言ってくれていたのは、前に聞いていた。毎日つききりではなくても、必要な時に来てもらえるなら助かるだろう。
「そうだね、来てもらえるなら心強いね」
「ええ。でも、ずっと頼るわけにはいかないでしょう」
そこも良子らしかった。
頼れる相手がいることには感謝していても、それを前提にするつもりはないらしい。
出産の話がひとまず定まると、次はその後の話になった。
「その後は仕事ね、できれば続けたいの」
その言葉に、政雄はうなずいた。そこはもう前から分かっている。
「うん」
「だから、産休が終わったら仕事に戻るつもりで考えたいの」
「そうすると、子どもをどうするか、なのよね」
「保育園?」
「ええ。近くに預けられるところがないと難しいと思うのよ」
「保育園ってそんな小さい子を預かってくれるのか」
「ええ、調べたら0歳児クラスもあるらしいの」
良子は、アパートから通えそうな範囲の保育園のことも少し調べていた。産休が明けたら子どもを預け、職場へ戻る。
そのためには場所も時間も無理がない方がいい。
そういう話を聞きながら、政雄は自分がほとんど聞き役に回っていることを少し情けなく思った。
任せきりにするつもりはない。
そう思ってはいるのに、結局は良子が見聞きしてきたことを聞いて、その考えにうなずくくらいしかできていない。
「僕は、あまり役に立ってないな」
思わず口にすると、良子は不思議そうな顔をした。
「そんなことないわよ」
「でも、こういう話は全部きみの方が調べてるだろう」
良子はそこで笑った。
からかうような笑い方ではなく、こちらの肩の力を抜くような笑い方だった。
「仕方ないわよ。男性が行くところでは、こういう話はあまり聞かないのでしょう」
その言い方に、政雄も少し笑った。たしかにそうだった。
銀行でも霞が関でも、子どもを産む病院や保育園の話が自然に耳へ入ってくるわけではない。
「それでも、できることはしたいと思っているんだよ」
政雄が言うと、良子は少し首をかしげた。
「役に立たないなんて思わなくていいのよ」
それから、はっきりした口ぶりで言った。
「大丈夫。あなたのその気持ちが有れば何とかなるわよ」
政雄は少し驚いた。
良子はもともと気丈なところのある人だが、この時の言い方には前より迷いがなかった。
おっとりして見えていた良子だったが、もう母親になり始めているのかもしれないと思った。
その後も、話は特にあらたまった形ではなく、夕食の時や寝る前に少しずつ続いた。
病院はアパートから通いやすい産婦人科にする。産後は良子の母親に無理のない範囲で手伝いに来てもらう。仕事には戻るつもりで、その時までに近くの保育園を考えておく。日を追うごとにそうしたことが徐々に定まっていった。
*
その気持ちが有れば何とかなると良子は言ってくれたが、政雄はまだ少し落ち着かなかった。
数日後の昼休み、政雄は食堂で田口をつかまえて、少しだけその話をしてみた。
「こういう時って、男は何をしたらいいものなんでしょうね」
田口は湯のみを持ったまま、へえという顔をした。
「何だ、山本でも困ることがあるのか」
「からかわないでくださいよ。こっちは自分の役立たなさにへこんでるんですから」
「すまんすまん」
田口は笑ってから、少し考えるように言った。
「まあ、うちも子どもができた時は似たようなもんだったぞ」
「そうなんですか?」
「ああ。男なんて、そんなもんじゃないか」
政雄は少し意外な気がして田口の顔を見たが、田口は平然としていた。
「じゃあ田口さんは、その時どうしてたんです」
「どうって、嫁の機嫌を損ねないようにしてただけだな。余計なことを言って波風を立てない。それがいちばん大事だった」
「そんなものですか」
「そんなものだ。うちのは怖いからな」
政雄は思わず吹き出した。
「それは奥さんに失礼ですよ」
「本当のことだから仕方ない」
田口はそう言って、悪びれもせず笑った。
たいした助言ではなかったが、政雄の気は少し軽くなった。
自分だけが要領を得ないわけではないらしい。
良子に任せきりでいいとは思わないが、だからといって最初から何もかも分かっていなければならないわけでもないのだろう。
*
十二月に入るころには、良子の体調も安定し、政雄の気持ちにもようやく落ち着きが出てきた。
そのぶん、今度は仕事の方が気になり始めた。
黒沢のところから回ってくる資料は、このころになるとだいぶ中身がはっきりしてきていた。
金融だけの都合では済まない。ネット回線の速度と安定性がまだ足りない。扱う情報量に対してコンピュータの処理能力も不足している。会社ごとに違うシステムをつなぐための技術も、まだ十分ではない。
要はIT関連のインフラが追い付いてないのだ。
しかも、技術だけそろえば済む話でもなく、現行法のままでは対応しきれない部分まで分かってきていた、それは関連省庁を含むお役所の仕事で政雄が立ち入れる場所ではない。
政雄も、前世の記憶として何となく先の姿は知っていた。
だが、このころになると、ただ知っているというだけではなく、何が足りず、どこで引っかかるのかを仕事として少しずつ理解し始めていた。
理解すればするほど、今すぐ形になる話ではないことも、以前よりよく分かった。
黒沢の先を見越している動きが無駄だとは思わない。
前世での便利さもこうした前段階が有ってのことだったのだろうから。
*
そんな折、銀行の中では不穏な話も出始めていた。
バブル崩壊の影響で、仕事の効率化の名のもとに部署は縮小、あるいは統廃合されるのではないか、人員の配置換えや整理もあるのではないか。
そこまではっきり言う者はいなくても、廊下や給湯室で交わされる話には、そうした不安がにじんでいた。
NOOPの仕事も、少し前までの勢いはもうない。
都銀提携の店外ATMが本格稼働して一年たち、当初の役目はほぼ果たしたと言ってよかった。
長瀬が来て穴を埋めてくれているとはいえ、ではこの先も今の形のまま続くのかと聞かれれば、政雄にも自信はなかった。
家庭では、少し先の暮らしが定まりつつある。
だが仕事の方は、かえって先が読みにくくなってきた。
政雄は机に向かい、黒沢から回ってきた資料にもう一度目を通した。
そこに書かれているのは、今すぐ動かせる計画ではなく、その先に来る時代の下ごしらえだった。
そして自分自身もまた、今いる場所にそのままとどまる人間ではないのかもしれないと、十二月の終わりが近づくころには考えるようになっていた。




