第104話 春の訪れと悪い予感
年末が近づくと、政雄と良子は今年の正月をどうするか早めに決めた。
良子の体調を考えれば、無理に両家へ出向く必要はない。
そう判断して、今年は新年の挨拶を見送ることにした。
双方の実家へ伝えると、政雄の母も良子の母も、今年はそれでよいと言ってくれた。
そうして二人は、年の瀬をアパートで過ごした。
外出は近所への買い物くらいで、大晦日も普段より少しだけ手をかけた夕食を食べた程度だった。
華やかではないが、今の二人にはそのくらいがちょうどよかった。
*
元日の夜、良子が先に寝室へ入ったあと、政雄はリビングに残った。
部屋の明かりはそのままにして、小物入れから会議用ノートとペンを取り出す。
毎年、正月にだけ使うノートだった。
表紙は少しくたびれていたが、まだ十分使える。
椅子に腰かけ、ノートを開く。
政雄は軽く息をついてから、頭の中で開会を告げた。
「それでは、会議を始めます。議題は、今年は何を重点に、どこにどう振り向けるかです」
仕事担当が待っていましたと言わんばかりに口を開いた。
「まず申し上げます。今年は仕事の配分を多めに確保すべきです。景気は不透明、銀行内も先行き不明です。この状況で去年と同じでは済みません。人脈の維持に加えて、新しい知識の取り込みも必要です」
家庭担当がすぐに反論した。
「異議があります。最優先は家庭です。今年は出産があります。良子の体調、出産後の生活、家のこと、そのどれも後回しにはできません。仕事に偏らせる案には賛成できません」
「後回しにするとは言っていません」
仕事担当は語気を強めた。
「ただ、外の状況が悪くなった時に困るのは家庭も同じです。銀行の中で立場を失えば、家の安定にも響きます」
「だからといって、出産の前後に家を空けがちになるような配分は認められません」
親戚担当がそこで控えめに手を挙げた。
「発言してよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「親戚関係につきましては、今年は正月の往来がないぶん、当面の負担は軽い見込みです。ただし、子どもが生まれれば両家とも距離が近くなります。近すぎても遠すぎても面倒が起きますので、適度な距離感を保つための気配りは必要です」
仕事担当が少し面倒そうに言った。
「つまり、時間をよこせということですか」
「はい。しかも突発的に必要になります」
「実に厄介ですね」
「そういう言い方はやめてください」
家庭担当がにらむ。
その横で、趣味担当がおずおずと口を開いた。
「その、可能であれば、ほんの少しでよいので、趣味にも時間を割いて欲しいのですが」
仕事担当がすぐに振り向いた。
「昨年サックスの修理だってしたじゃないですか。欲張らないでくださいよ」
「それは承知してますが。でも、何もないと息が詰まります」
家庭担当が少しだけやわらいだ。
「それは一理ありますね。ずっと張りつめたままでは、家でも余裕がなくなります」
親戚担当も珍しく同意した。
「たしかに、息抜きのない人は親戚づきあいでも急に面倒になります」
「私はそういう扱いですか」
趣味担当が小さく言うと、誰も答えなかった。
政雄はペン先をノートに当てたまま考えた。
去年の目標は、悪くなかった。仕事では人脈を作ることを意識し、それなりに成果はあった。
家庭では妊娠を急がず自然に任せる方針だったが、その点もよい方向に進んだ。
親戚とは近づきすぎず遠ざかりすぎず、何とかやれている。
趣味だけは後ろへ押されがちだったが、それでも完全に切れたわけではない。
ただ、今年は違う。仕事も経済も先が読みにくい。家庭は大事な時期に入る。何かをきっちり決めて、その通りに運べる一年ではなさそうだった。
議長役の政雄が口を開いた。
「各担当の意見は分かった。まず家庭については、出産を控えている以上、一定の厚みを持たせる。これは動かせない」
家庭担当がうなずく。
「仕事については、現状不確定要素が多すぎるので、もう少し様子を見てから考えよう。ただし、家庭を削ってまで増やすことはしない」
仕事担当は不満そうだったが、反対まではしなかった。
「親戚については、大きな配分は取りません。その代わり、必要になった時に動ける余地を残す。昨年義父さんが梯子から落ちて怪我したりしたから心配だ。まめに実家には連絡を取ろう、これは良子にも言っておこう」
親戚担当が会釈した。
「趣味については」
ここで政雄はいったん言葉を切った。
趣味担当が身を縮める。
「ゼロにはしない。音楽サークルは、参加できる時は参加する。無理に時間をとることはしない」
趣味担当は小さく息をついた。
「ありがとうございます」
仕事担当が念を押すように言う。
「では、最終確認です。現時点では明確な目標設定なし、状況対応を優先、という理解でよろしいですね」
「そうなるね」
家庭担当がすぐに付け加えた。
「ただし、無理はしないこと」
親戚担当も続ける。
「その場しのぎで返事をしないこと」
趣味担当は遠慮がちに言った。
「できれば、たまには休むことも」
政雄はノートに短く書いた。
今年は決めすぎない。
家を軸にしながら、仕事の変化に備える。
そこまで書いてからノートを閉じた。
*
仕事始めのあと、本店の雰囲気は年末よりさらに重たくなっていた。
景気が持ち直さないことは、新聞を開かなくても分かる。
融資先の業績がよくないという話はあちこちで出ていたし、企業の設備投資も鈍いままだという。
株価の話を口にする者もいたが、明るい調子ではなかった。
二月に入ると、その嫌な予感は通達という形で現れた。
NOOPは縮小のうえ事務企画課へ吸収される。
次世代オンライン事務企画係は三月いっぱいで消滅する。
通達紙に書かれた文面は淡々としていたが、意味ははっきりしていた。
部署としての役目は終わりだということだった。
安東の処遇についても、ほどなく話が広がった。
地方の小さな支店で支店長になるらしい。
肩書きだけ聞けば悪くない。だが、政雄にはどうしても割り切れなかった。
あれだけ先のことを考え、まだ形にならない時点で動いていた人間が、本店から外される。
その扱いは、ひどいとしか思えなかった。
田口は事務企画課に残るらしい。長瀬も別の担当に回るという。
では、自分はどうなるのか。
その点だけは、妙にはっきりしなかった。
昼休み、政雄は田口と二十階の食堂にいた。
田口はいつものスペシャルランチのカツを一口で頬張りながら、向かいの席で黙って箸を動かしていた。
その少し離れた席から、聞くつもりがなくても耳に入る声があった。
「山本はうまくやったな」
「霞が関とつながりがあると違うな」
笑いまじりの口調だったが、冗談だけでもなかった。
政雄は顔を上げなかった。実際、自分でもよく分かっていないのだから、説明のしようがない。
田口はカツを飲み込んでから、無造作に言った。
「気にしても始まらんぞ。まだ何も決まってないのだから」
「分かってはいますけど」
「だったら、辞令が出てから考えればいい」
「そういうものですか」
「そういうものだよ」
田口はそれ以上踏み込まなかった。
根掘り葉掘り聞かれないことが、かえって助かった。
*
三月上旬、産休に入っていた良子は、手伝いに来てくれていた義母に付き添われ、病院で無事に女の子を産んだ。
名前は優美に決めた。
あれこれ迷った末に残った名だったが、実際に顔を見ると、不思議なくらいそれ以外は思いつかなかった。
生まれたばかりの子は小さく、抱くたびにこちらの方が緊張した。
良子は疲れていたが、ひと息ついたような顔をしていた。
政雄は病室の椅子に腰かけたまま、しばらくまともな言葉が出なかった。
「どうしたの」
良子が少し笑って言った。
「いや」
「そんな顔しなくても大丈夫よ」
「大丈夫というより、何だろうな」
「父親になった感じがしないとか」
「責任は感じる」
良子はまた笑った。
アパートへ戻ってからは、義母が手伝いに来てくれていた。
毎日ではないが、来てくれる日があるだけでもずいぶん心強かった。
政雄も出勤前と帰宅後にできることはしたが、慣れないことばかりで、手際がよいとは言えなかった。
それでも、家に帰れば優美がいて、良子がいる。
その事実だけで、勤務先で感じる落ち着かなさが少し和らぐ時もあった。
*
そんな中でも、黒沢への報告だけは済ませなければならなかった。
多業種の会合で耳にした内容、そこから分かった限界と可能性。その一年分を政雄なりに書き出し、レポートとして整えて黒沢へ連絡した。
すると、黒沢は珍しく、夕方に来て欲しいと言った。
大蔵省の部屋でレポートを渡すと、黒沢は目を通しながら何度かうなずいた。そして読み終えると、机の上へ戻して言った。
「ご苦労さん。これで、この会合はひとまず区切っていいだろうね」
「はい」
政雄が答えると、黒沢は少し考えるようにしてから続けた。
「このあと、時間はあるかい」
「ええ」
「じゃあ、少しつき合ってくれないか」
連れて行かれたのは、赤坂の外れにある小料理屋だった。
いわゆる高級料亭というほどではないが、落ち着いた店だった。
通された個室で料理を頼むと、黒沢は湯のみを手にしたまま政雄に目を向けた。
「山本君は、どうして自分があの会合に呼ばれたのか、考えたことはあるかな」
政雄は少し迷ってから答えた。
「正直に言えば、何度か考えました。ただ、はっきりした理由までは分かりませんでした」
黒沢はやわらかくうなずいた。
「そうだろうね。こちらからきちんと話したことはなかったから」
それから、少し昔をたどるような口ぶりになった。
「最初に気になったのは、BANCSの時だった」
政雄は思わず姿勢を正した。
「あの時、山本君は、提携をこの先も進めるなら場当たり的な対応ではなく、もっと土台になる基準を考えた方がいいんじゃないかと言ったね」
言われて、政雄もその場面を思い出した。軽い思いつきではなかったが、十分に考え抜いた発言だったかと言われると自信はない。
「あの時は、自行の都合ばかりで話が進まなくて、ちょっと乱暴でした」
「うん、粗いところはあった」
黒沢はそう言ってから、少しだけ笑った。
「でも、あの場でそこまで言う人はあまりいなかった。目の前の接続や手順だけで終わらせず、この先どこが詰まるのか、何をそろえないと広がらないのか、そこまで考えようとしていた」
「ただ、その時点では、意見としては面白くても、まだ根拠が足りなかった。銀行の中だけで考えている話なのか、本当に外でも通じる見立てなのか、それでは分からない」
政雄は黙って聞いていた。
「だから、多業種の人を集めた会合に来てもらった。今の水準がどこまでなのか、何が足りないのか、制度の側にどんな壁があるのか、そのへんを実際に聞いた方が早いと思ったんだ」
黒沢はそこで湯のみを置いた。
「助手みたいな仕事も頼んだが、あれは単なる使い走りじゃないよ。資料をそろえるにしても、発言を聞くにしても、何が論点なのか分からない人には務まらないからね」
そこまで聞いて、政雄はようやく腑に落ちた気がした。会合に出るだけでなく、下準備や記録のような仕事まで任された理由が、今になってつながった。
黒沢は続けた。
「山本君は、きちんと応えてくれた。現状を理解しようとしていたし、どこで行き詰まるかも考えていた。そういう人なら、この先も無駄にはならないだろうと私は思った」
政雄は返事に少し詰まった。
「買いかぶりです」
「そうかな」
黒沢は一泊おいてから言った。
「少なくとも、私はそうは思っていない」
料理が運ばれてきて、いったん話は途切れた。
だが、政雄の胸の内では、別のところが動いていた。
黒沢は箸をつける前に、もう一度政雄を見た。
「もっとも、すぐに何か大きく進むわけじゃない。通信環境も制御技術も、まだ足りないものが多いし、法の側も追いついていない。今回の会合で分かったのは、そこまで含めて先は長い、ということでもあるね」
「はい」
「銀行の方も、これから大変だろうね」
「ええ。たぶん」
「何か考えていることがあれば、相談くらいには乗れる。今ここで答えを出せ、という話じゃないけど」
政雄は小さく息をついた。
まだ先は見えない。銀行の中で何が起きるのかも、自分がどこへ回されるのかも、はっきりしていない。
家では優美が生まれ、良子の生活スタイルもこれから変わる。
考えることは増えたが、答えはまだない。
ただ一つだけ、はっきりしたことがあった。
黒沢は、最初から政雄をただの手足として使っていたわけではない。
政雄に経験と根拠となる知識をあたえてくれたのだと分かった。




