第105話 新たなステージ
四月に入ってすぐ、政雄は新しい辞令を手に十階の西の端へ向かった。
同じ十階でも、これまでいた一角とは雰囲気が違った。
事務企画課のある区画から廊下をしばらく進み、仕切りの向こうへ回ると、企画調査室の札が見えた。
中へ入ると、最初に声をかけてきたのは室長だった。
「おう、よく来たな。話は聞いてる。だが、ここに来たからには一からやってもらうんで、よろしくな。ははは」
「今日からお世話になります、山本です」
政雄は挨拶したものの、勢いに押されて最後は「はい」としか返せなかった。
すぐ横の机から、細身の男が銀縁眼鏡越しにちらりと視線を向けた。
「榊です。よろしく」
それだけ言うと、もう書類へ戻った。
少し離れた席から、女性が立ち上がった。
「驚いたでしょう。室長はああいう人だけど、悪気はないから気にしないで」
「はぁ、わかりました」
「私は片岡。主任です。よろしく」
「よろしくお願いします」
何の話を、誰から聞いているのか。
一からとは、何のことなのか。
そう思いながら、政雄はもう一度頭を下げた。
午前中のうちに、片岡から大まかな仕事の説明を受けた。
企画調査室の仕事は、新商品そのものを作ることではない。
その前の段階で、顧客が何を求めているか、何に困っているか、今の銀行の商品や仕組みのどこが足りないかを調べるのが役目だった。
相手は個人も企業もあるが、当面は企業向けの調査が中心になるらしい。
「山本さんには、しばらく私の手伝いをお願いすることになると思う」
「手伝い、ですか」
「会議用の資料集めとか、業界ごとの動きの整理とか、そのへん。地味だけど、うちではそこが大事なの」
政雄はうなずいた。
派手な仕事ではないが、何を見ればこの部署で役に立てるのかを知るには悪くなかった。
昼になると、室長は机の引き出しから愛妻弁当だろう包みを出した。
榊は鞄から菓子パンを二つ取り出して、何も言わずに食べ始める。
片岡が立ち上がった。
「山本さん、お昼どうする」
「まだ決めてません」
「じゃあ、一緒に行きましょうか」
政雄は少し身構えた。企画調査室という名前からして、もっと気の利いた店にでも行くのかと思ったが、片岡が向かったのは少し歩いた先の弁当屋だった。
買った弁当を持って、二人は近くの公園へ入った。
ベンチに腰を下ろして包みを開くと、片岡はボリュームのあるからあげ弁当を食べ始めた。
政雄は思わずそちらを見た。
「何かついてる?」
「いえ」
「大食いで驚いた?」
「少し」
片岡はにいっと笑った。
「子どもがいるとね、朝は忙しくて食べてられないのよ。だからお昼にいっぱい食べておかないと、体がもたないでしょ」
そこで初めて、政雄は片岡の暮らしぶりを少し想像できた。
「山本さんは」
片岡が箸を動かしながら聞いた。
「結婚はしてるのよね」
「はい。うちも子どもが生まれたばかりで、産休が明けたら家内も職場復帰する予定なんです」
「お子さんは一人目?」
「ええ」
「慣れるまで大変よ」
片岡は言い切るようにうなずいた。
「そうなんです。右も左も分からないので、家内に頼りっぱなしで」
「そう。困ったことがあったら相談に乗るわよ。その時は言ってね」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
片岡は追加で買ったサラダに箸をつけながら、
「室長には、びっくりしたでしょう」
「ええ、まあ」
「生粋の江戸っ子なんですって、外では普通に話せるのよ。ああ見えて、面倒見はいいのよ」
政雄は午前中の勢いを思い出した。乱暴というほどではないが、距離の詰め方が早い。
「榊さんも、あれでちゃんと見てるしね」
「厳しそうですね」
「仕事には厳しいわよ。でも、慣れれば気にならないものよ」
片岡はそこで少し口を止めた。
「奥さんもいるし、子どもももう中学生だったかな」
政雄は思わず聞き返した。
「そうなんですか」
「何、その反応」
「いえ、何となく独身かと」
片岡は笑った。
「分かるけどね」
政雄もつられて少し笑った。
企画調査室のことは、まだよく分からない。
室長も、榊も、片岡も、見た印象どおりの人なのか、まだ判断がつかなかった。
ただ、前の部署とは求められるものが違うことだけは分かった。
公園から戻ると、午後は片岡から現在進行中の案件の資料整理を振られた。
過去の会議資料、業界紙の切り抜き、他行のサービス案内、社内で作られた聞き取りメモを案件ごとに分け、不足している資料を確認していく。
同じ企業向けの案件でも、資金繰りを気にしているところと、新しい販路を求めているところでは求めるものが違っていた。創業したばかりの会社には相談先が必要で、長く続いている会社には手間を減らす工夫が求められているらしい。
午前中に聞いた説明が、机の上の資料でようやく具体的になった。
気がつくと終業時刻が近づいていた。一日目は、大きな失敗もなく終わった。
久しぶりに明るいうちに帰宅すると、良子は少し驚いたようだった。
「今日は早かったのね」
「異動初日だからね」
そう答えると、政雄はそのまま優美のところへ行こうとしたが、良子がやわらかく声をかけた。
「その前に、着替えて手を洗ってきてからよ」
「ああ、そうか」
政雄は言われるままに着替えて手を洗い、ようやく優美のそばへ行った。
小さな顔をのぞき込み、手を伸ばしかける。
すると良子が、少し笑いながら言った。
「今寝たばかりだから、起こさないでね」
「触るくらいなら」
「今は見るだけにしてあげて」
そこまで言われると、政雄も引き下がるしかなかった。
枕元にしゃがみ込み、そのまま優美を眺める。小さな寝息を聞いているうちに、朝から張っていた気持ちが少しゆるんだ。
同時に、この小さな子を自分が守っていかなければならないのだという思いも、前よりずっとはっきりしていた。
そんな政雄を見て、良子が笑った。
「いつまで見てるの」
「いや、かわいいなと思って」
「まったく、親ばかなんだから。ごはんにしましょう」
夕食を食べ始めてしばらくすると、優美がふいに泣き出した。政雄は箸を置いて立ち上がる。
「俺が見てくるよ」
「まだ食べてる途中でしょ」
「いいから」
オムツを替えて、抱き上げて、ぎこちない手つきのまま揺らしていると、良子が少しおかしそうに言った。
「食事の途中でオムツ替えてるのに、なんだかうれしそうね」
「そう見えるか?」
「見えるわよ」
政雄は答えず、腕の中の優美を見た。泣き顔までかわいいと思うのだから、どうしようもなかった。
こんな小さな存在に、ここまで気持ちがほどけるとは思っていなかった。
そして、この子のためにもまた働こうと、政雄は素直に思えた。




