第106話 手探りの季節 春から夏へ
四月いっぱい、政雄は片岡の手伝いとして働いていた。
支店から送られてくる報告書を分類し、会議に出す資料をそろえ、過去の案件を読み返す。
調査室の打ち合わせにも同席したが、発言することはなかった。
室長が話を振ることもなく、榊も余計なことは言わない。
片岡だけが、時々短く説明を足してくれた。
「これは去年の案件。似てるように見えるけど、相手の業種が違うから気をつけて」
「はい」
「こっちは後で使うかもしれないから、別にしておいて」
「分かりました」
まずは型を覚える。四月は、それで終わった。
*
五月に入ると、良子は優美を保育園に預けて職場へ戻った。
朝は前よりずっと慌ただしくなったが、そのころから朝食の用意は政雄が受け持つようになった。
良子の負担を少しでも軽くしたかったからだ。
実家にいたころは、台所仕事はほとんど母任せだった。
結婚してからも、良子が自然にやってくれていた。
だが、前世では長く一人暮らしをしていたので、簡単な朝食くらいなら困らない。
トーストを焼き、目玉焼きを作る。あるいは前夜の残りを温める。
その程度なら、文字通り朝飯前だ。
ある朝、台所でフライパンを使っていると、着替えを済ませた良子が顔を出した。
「ごめんね、私がやるつもりだったのに」
「いいよ。このくらいならすぐできる」
「でも、慣れてる感じね」
「一人でも生きていける程度には」
そう言うと、良子は少し笑った。
「それ、褒めていいのか分からないわ」
「朝に食べれるものが出てくれば十分だろ」
「それはそうだけど」
優美を保育園へ連れて行く日もあれば、良子が連れて行く日もあった。
泣かずに預けられる日もあれば、顔をしかめる日もある。
小さな子どもひとりで、家の時間は簡単に変わるのだと政雄は思った。
*
六月になると、その暮らしにも少し慣れてきた。
水曜日の退勤後、久しぶりに音楽サークルへ顔を出した。
数か月ぶりなだけなのに、妙に懐かしい。
講堂へ入ると、田口がすぐに気づいた。
「よう、久しぶりだな。調査室の方はどうだい」
「まだ仕事の仕方を覚えてる最中です。あそこの人たちは、なかなかの曲者ぞろいですけど」
「ほう、それはまた大変だな」
そんな話をしていると、横から京子が口を挟んだ。
「義兄さん、優美はどう。今度、部屋に行ってもいい」
「いいよ。良子に言っておくよ」
「お母さんが優美がかわいいって、毎日言うんだもん」
「初孫だからね。そうでなくても優美はかわいいけど」
京子がすぐに笑った。
「あら、義兄さん、すっかり親ばかになってる」
「そうかもしれないな」
軽く音を出してみると、指は思ったより動いた。
長く離れていたわけではない。
感覚を確かめる程度で切り上げ、その日は遅くならないうちに帰った。
七月の下旬になると、各支店に頼んでいたアンケートが大量に戻ってきた。
封筒の束が届いた時点で、片岡が小さく息をついた。
「来たわね」
「思ったより多いですね」
「毎年こういうものよ。ここからが大変なの」
今回ばかりは、ふだん定時で帰る片岡や室長まで残り、四人そろって遅くまで集計に追われた。
回答の分類だけでも時間がかかる。
似たような要望でも表現が違い、支店によって補足の書き方にも癖があった。
室長が集計表を見ながら言った。
「やっぱり、創業したばかりの先は相談先を欲しがってるな」
榊がすぐに続けた。
「既存の取引先は手続きの簡略化を求めています。新規先とは分けて見たほうがいいでしょう」
片岡も書類をめくりながら言う。
「業種別でも偏りがありますね。小売と製造で欲しいものが違う」
政雄は返ってきた回答を読みながら、項目ごとの違いを追っていった。
集計が終わると、今度はそこから見えてきた傾向を裏づける資料が必要になった。
業界ごとの動向、他行の取り組み、以前の社内資料。何を先に当たればいいかを考えながら、政雄は必要なものを探していった。
片岡に頼まれた資料をそろえるうちに、政雄は参考になりそうな数字や事例を短く書き添えるようになった。
どの業種で相談需要が強いか、なぜその傾向が出ているのか、過去の案件と比べて何が違うか。ほんの数行ではあったが、ただ資料を渡すより相手が次に動きやすくなる。
それは、前世で身につけたやり方でもあり、黒沢のもとで覚えた考え方でもあった。
答えを先に決めるのではなく、相手が判断しやすい材料をそろえる。
そのために、どの資料が役に立つかを考える。
ある日、片岡が政雄の渡した資料を見て言った。
「山本さん、これ、あなたが書いたの」
「ええ。余計でしたか」
「ううん。余計じゃないわ。むしろ分かりやすい」
それだけ言って、片岡はその資料を榊の机へ持っていった。
榊は目を通し、少しだけ眉を上げた。
「……悪くないですね」
短い一言だったが、政雄にはそれで十分だった。
まだ何かを成し遂げたわけではない。
だが、企画調査室で求められている仕事の形が、ようやく少し分かってきた気がした。
*
八月のお盆休み、政雄は良子と優美を連れて実家へ行った。
姉も子どもたちを連れて来ていて、家の中はにぎやかだった。居間に入ると、母はさっそく良子の腕の中の優美に声をかけた。
「いらっしゃい。また少し大きくなったんじゃない」
「このくらいの時期は、すぐ変わるんですよね」
良子がそう答えると、母はうれしそうにうなずいた。父も座ったまま口を開いた。
「保育園はどうだ?」
「少しずつ慣れてきました」
すると姉が言った。
「でも、女が仕事を続けるのは大変よね。子どもが小さいうちは、なおさら」
「はい。毎日あっという間です」
良子がそう返すと、姉は笑った。
「無理しすぎないことよ。真面目だから、頑張りすぎそうだもの」
和子は優美のそばへ来ると、居間の隅の箱から小さなおもちゃを出してきた。
「これ、幸太が前に使ってたやつ」
振ると音の鳴るおもちゃだった。和子は優美のそばで軽く振ってみせる。
「和子、慣れてるな」
「えへへ、幸太の時もやったもん」
幸太はしばらく優美のことを気にしていたが、すぐに別のおもちゃの方へ行った。
昼の支度をしながら、母が台所から声をかけてきた。
「良子さん、政雄はちゃんとやってる」
その聞き方に、良子が少し笑った。
「最近は朝ごはんを作ってくれてます」
「へえ」
母の声に少し面白がる調子が混じる。
「その反応は何だよ」
政雄が言うと、姉が笑った。
「だって、以前は年越しそばくらいしか作ったことなかったじゃない」
「そうだっけか?」
「そうよ、お父さんと同じで何もしなかったわよ」
父にまで飛び火して、良子も笑った。
食事のあと、優美がぐずり出した。良子が抱き上げると、母が言った。
「奥の部屋、使っていいわよ」
良子は居間に置いていた鞄からおむつ替えにいる物だけ取り出して、廊下の先へ向かった。政雄もそのあとにつづく。
入ったのは、もともと政雄が使っていた部屋だった。今は和子と幸太の物が並び、すっかり子ども部屋になっている。
良子は手早くおむつを替え、寝かせた優美の腹に薄い布をかけた。
「ずいぶん物が増えたな」
「平日はずっとここなんでしょうね」
良子がそう言って、優美の様子を確かめた。
帰るころには、良子もだいぶ力が抜けていた。駅へ向かう途中、良子が言った。
「にぎやかだったけど、行ってよかったわ」
「疲れなかったか」
「少しは。でも、思ってたより気が楽だった」
「そうか」
「和子ちゃん、しっかりしてるのね」
「ああ。もう来年は小学生だからな」
優美は抱かれたまま眠っていた。
政雄はその寝息を聞きながら、こうして自分の家族を実家へ連れて行くのも、そのうち当たり前になっていくのだろうと思った。




