第93話 家族旅行
大晦日の朝、政雄と良子は少し早めに部屋を出た。
空は晴れていたが、風は冷たかった。
年の瀬のせいか、駅へ向かう道でも人の足がいつもよりせわしなく見えた。
昼前に実家へ着くと、母はもう玄関まで出てきた。
「いらっしゃい」
「早かったかな」
「ちょうどよかった。上がって上がって」
良子が挨拶をすると、母は機嫌よくうなずいた。
父も居間の方から顔を出して、来たかと言った。
居間にはもう昼の支度がしてあった。
二人が座ると、母がすぐに皿を並べ始める。
「そんなに急がなくてもよかったのに」
政雄が言うと、母は振り向きもしないで答えた。
「大晦日なんだから、早い方がいいの」
父はホテルのパンフレットをたたみながら笑った。
「朝からそればっかり言ってるよ」
母はそれには答えず、良子の前にも湯のみを置いた。
「たいしたものじゃないけど、先に食べましょう」
「いただきます」
良子が言うと、母は満足そうに座った。
食卓に着いてしまえば、話すことは自然に旅行のことになった。
ホテルはどういうところなのか、道は混まないか、明日の朝はどうするか。
父は地図を広げて、だいたいの道順だけ確かめていた。
「じゃあ、そろそろ出るか」
父が言うと、母もすぐに立ち上がった。
「そうね。向こうでゆっくりすればいいんだものね」
父が先に表へ出てトランクを開けた。
政雄と良子も荷物を持ってあとに続く。
母は戸締まりを確かめてから出てきた。
荷物を積み終えると、政雄が運転席に、父が隣に座り、母と良子は後ろに収まる。
「じゃあ、行くか」
父が言った。
「うん」
車はゆっくり家の前を離れた。
家のそばの道を抜けて大きな通りへ出るまでは少しかかったが、その先は流れに乗れば早かった。
海沿いへ出るころには、周りもだいぶ開けていた。
しばらく走ったところで、後ろから母が声をかけた。
「お茶、飲む?」
ミラー越しに見ると、保温水筒を膝にのせている。
「まだいいよ」
「せっかく持ってきたのに」
「着いてからでいいだろ」
母は納得しない顔のまま、今度はせんべいの袋を出しかけた。
「じゃあ、これ食べる?」
「母さん、遠足じゃないんだから」
助手席で父が笑った。
「浮かれてるんだよ」
「だって、こういう時じゃないと使わないでしょう」
良子が小さく笑った。
「いただきます」
「ほら、良子さんはちゃんとしてるじゃない」
「ちゃんとしてないのは俺か?」
「そういうことになるな」
父がそう言って、少し笑った。
道はそのまま西へ流れていった。車の列は途切れないが、ひどく詰まるほどでもない。後ろでは母と良子が、宿に着いたらまず何をするかとか、明日の朝は餅つきがあるらしいとか、そんな話をしている。
しばらくして、父が思い出したように言った。
「そう言えば政雄は、免許もバイトして取ったんだったな」
「ああ、大学一年の時ね」
「真っ黒に日焼けしてたな」
「夏休みいっぱい、海の家に瓶のジュースを配達する仕事。あれで貯めた金で取ったんだ」
「それは大変そうね」
後ろから良子が言った。
「きつかったよ。炎天下だし、ケースは重いし、トラックにクーラーついてないし」
「今のあなたとは、少しイメージが違うわね」
「そうかい?」
「うん。でも、頑張り屋さんなのは変わらないのね」
政雄は少し笑った。
「何しろ貧乏学生だったからな」
海沿いの道からさらに先へ進み、箱根湯本を過ぎるころになると、道の感じが少し変わった。平らな流れがゆるやかに山へ入っていく。宿の近くまで来て、父が前を見ながら言った。
「この先だったかな」
「あ、案内が出てる」
道の脇の表示を見つけて、政雄は車を曲げた。少し入ると、宿の建物が見えてくる。玄関の前にはもう何台か車が止まっていた。
「着いたな」
政雄が車を止めると、母が後ろでほっとしたように言った。
「思ったより早かったわね」
父がドアを開けた。
「じゃあ、荷物を下ろそう」
玄関先で荷物を下ろし、四人で中へ入る。帳場の前にはすでに何組か客がいて、同じように年の暮れをここで迎えるらしい家族連れの姿も見えた。政雄が予約の名前を告げると、招待券のこともすぐに話が通じた。
「二部屋で承っております」
部屋の鍵を受け取り、夕食の時間と大浴場の場所だけ確かめる。部屋は同じ階で少しだけ離れていた。父と母の部屋が手前で、政雄たちの部屋がその先になる。
「じゃあ、ひと休みしたら風呂に行こうか」
父が言うと、母もすぐにうなずいた。
「そうね。せっかく来たんだものね」
荷物を置いて少し落ち着いてから、政雄と良子は部屋にあったタオルとバスタオル、それに浴衣を持って廊下へ出た。両親の部屋の前まで行くと、母がもう戸を開けて待っていた。
浴衣の上に羽織まで着ている。父もその後ろで、浴衣を着せられていた。
「じゃあ、行きましょう」
四人で大浴場へ向かい、入口で男女に分かれる。政雄は父と、良子は母と一緒だった。
風呂から上がると、政雄は先に部屋へ戻り、濡れたタオルとバスタオルを広げた。
しばらくして良子も戻ってくる。頬がまだ少し赤く、羽織を肩に掛けていた。
「お母さん、ずいぶん楽しそうだったわ」
「家族旅行なんてしたことなかったからね」
良子が羽織を着直すのを待って、二人で両親の部屋へ向かった。
声を掛けると、すぐに母が答えた。
「はいはい」
中へ入ると、母は浴衣の上に羽織を着ていて、父はまだ暑いのか浴衣のままだった。
政雄と良子も座ると、四人で少しそのまま話した。
母が湯のみを置いて、ふと思いついたように言う。
「今度は幸のところも一緒に、三家族で来たいわね」
父がうなずいた。
「幸のところは毎年、年末年始は和夫君の実家だからな。平日は和子を家で預かってるから、あっちの家でも和子に会いたいだろうし、しかたないな」
「和子ちゃん、かわいいですからね」
良子が言うと、政雄も笑った。
「和子は将来、美人になるよ」
母がすぐに言った。
「政雄は和子が生まれた時からそう言ってるのよ」
良子が笑い、父も少し口元をゆるめた。そうしているうちに、部屋の電話が鳴った。
父が受話器を取る。
「はい」
少し聞いてから、こちらを見た。
「食事の用意ができたそうだ」
「じゃあ、行きましょうか」
母が立ち上がり、良子もあとに続く。政雄と父も腰を上げ、四人で部屋を出た。
浴衣姿のまま廊下を歩いて食事会場へ向かう。廊下の先からは、もうほかの客の声が少し聞こえていた。
広間へ下りると、もう何組か席についていた。
四人も名前を告げて案内され、並んだ膳の前に座る。
母と良子が横並びになり、その向かいに父と政雄が座った。
「ずいぶん豪勢だな」
父が膳を見て言った。
「食べきれるかしら。でも、せっかくだから」
母はそう言って、うれしそうに箸を取った。
係の者が料理の説明をして下がると、四人も食べ始めた。
母はひと口食べて、すぐに良子の方を見る。
「おいしいわねえ」
「ほんとうですね。こういうのは家ではなかなか食べられないから」
「そうなのよ。だから来た甲斐があるのよね」
母はそう言って、また箸を伸ばした。
向かいで父もひと口食べて、静かにうなずいた。
「これはうまいな」
政雄も同じものに箸をつけて、うなずく。
「うん」
しばらくして父が思い出したように言った。
「明日の餅つき、朝早いんだったな」
「そうね。今夜は早く寝ましょう」
母がすぐに言うと、良子が笑った。
「お義母さん、ほんとうに楽しみにしてるんですね」
「せっかく来たんだもの」
母はさっきと同じようなことを言って、自分でも少し笑った。
広間にはほかの客の声もしていたが、四人の席は気を張らずにいられた。
食事を終えて部屋へ戻ると、さすがに少し眠気が来た。
風呂にも入って、腹も落ち着いたせいだった。
廊下の向こうではまだほかの部屋の話し声やテレビの音がしていたが、自分たちの部屋に入ると、急に静かになった。
良子が羽織を脱ぎながら、こちらを見た。
「今日は運転お疲れさま」
「それほどでもないよ。良子こそ、付き合ってくれてありがとう」
良子は少し笑った。
「私もあなたのことが聞けて楽しかったわ」
「え、母さんから何を聞いたの?」
「秘密」
そう言って、良子は小さく笑った。
政雄もつられて笑ったが、それ以上は聞かなかった。
そういうふうに言われると、かえって聞かない方がいい気もした。
外はもうすっかり冷えているはずだった。
けれど部屋の中は暖かく、風呂上がりの火照りもまだ少し残っている。
二人は布団の上に腰を下ろして、明日の餅つきは何時だったかと、そんなことをもう一度だけ確かめ合った。
「寝ましょうか」
良子が言うと、政雄もうなずいた。
「そうだな」
電気を消すと、部屋はすぐ暗くなった。遠くでまだ人の動く気配がしていたが、それもだんだん薄れていく。二人はそのまま、年の変わる前に眠りに入った。
*
元日の朝、政雄たちが支度をしてホールへ下りていくと、餅つきはもう始まっていた。
景気のいい掛け声と杵の音が、朝の宿にひびいている。
両親ももう来ていた。母は父と並んで、つきたての餅を食べているところだった。
「こっちこっち」
母がすぐに手を振った。
近づいていくと、長机の上に餅が並んでいた。
あんこ、きな粉、納豆、大根おろしと、好きなものをからめてもらうようになっている。
良子はきな粉を、政雄は大根おろしを選んだ。
「もう食べたんですか」
良子が母にたずねる。
「ええ、きな粉をひとつ。でも、まだ食べるわよ」
母はそう言って、今度は大根おろしの方を見た。
父は少しあきれたように言った。
「朝からよく食べるな」
「だって、つきたてよ」
母はそう返して、うれしそうにまた箸を伸ばした。
四人はその場でやわらかい餅を食べながら、しばらく餅つきを眺めた。
そのあと朝食会場へ回ると、食事はバイキングだった。
さっき餅を食べたばかりなので、四人とも軽く取るだけにした。
食べ終えると部屋へ戻り、のんびり帰り支度をして十時前に宿を出た。
*
宿を出ると、そのまま箱根神社へ向かった。
元日らしく人は多かったが、四人は流れに沿って参拝を済ませた。参道へ戻るころになると、母は店先のいかの丸焼きに目を留めた。
「せっかくだから、これ食べてみたいわ」
昼は芦ノ湖畔のレストランで食べるつもりだったが、母はそう言ってもう買う気になっていた。
父は少しあきれたような顔をしたが、止めはしなかった。
香ばしい匂いにひかれて、結局みんなで少しずつ食べることになる。
そのせいもあって、昼は参道の屋台でお好み焼きを軽く食べるだけになった。母はそれでも満足そうで、良子も笑っていた。
午後、四人は実家へ戻った。荷物を置いてひと息つき、少し休んでから、政雄と良子は帰る支度をした。
「もう帰るの。早いわね」
母はそう言いながらも、どこか機嫌がよかった。
「また来ます」
良子が言うと、母はうれしそうにうなずいた。父も玄関まで出てきて、気をつけて帰れと言った。
二人は駅まで歩き、そこから電車に乗った。車内で座ると、良子が小さく息をつく。
「楽しかったわね」
「うん、明日は良子の実家だね」
政雄もそう答えた。窓の外を流れていく正月の町を見ているうちに、箱根の宿も、神社の人出も、もう少し前のことのように思えた。
アパートに着くころには、1991年の元日が暮れかけていた。




