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第92話 忙しい年の瀬

行内のクリスマスイベントを控えたある日。

定時になると、政雄は席を立った。

向かいの田口もほぼ同じタイミングで立ち上がる。


二人で地下二階へ下りると、講堂にはもう何人か来ていた。

京子はキーボードの前で譜面をそろえている、政雄もケースを開け、サックスを出した。

ドラムが軽く鳴り、ギターがあとに続く。

そのまま一曲目の「サンタが町にやってくる」が始まった。


一度止まり、短く声がかかって、すぐやり直した。

二度目は最後まで流れた。続けて「諸人こぞりて」に入る。

さっきより落ち着いた音になって、終わるころには講堂の空気も静かにまとまっていた。


休憩前の最後は「恋人がサンタクロース」だった。

京子が鍵盤に手を置くと、曲の明るさがそのまま講堂に広がる。

政雄も吹きながら、こういう曲を最後に持ってくるのも悪くないと思った。

音が切れると、誰かが小さく息をつき、それからあちこちで譜面をめくる音がした。


そこで休憩になった。政雄が椅子に座ると、京子がペットボトルを持って近くへ来た。


「お義兄《おにいさん》さん」


政雄は笑った。


「京子ちゃんにそう呼ばれると、まだ少し照れるな」


「どうして?」


「まだ慣れないからだね」


「お姉ちゃんの旦那さんなんだから、お義兄さんでいいでしょう」


「まあ、そうなんだけどさ」


「そうでしょう」


そこへ田口が来た。


「何の話し?」


「呼び方の話です」


「京子ちゃんが急にお義兄さんって呼ぶから」


田口は少し笑った。


「そりゃまだ慣れないだろうな」


「田口さんまで……」


「まぁ、そのうち普通になるよ」


京子はうなずいた。


「私はもう普通ですけど」


向こうでドラムがスティックを鳴らし、何人かが立ち上がった。政雄も缶を置いて立ち上がる。


休憩のあと、皆またそれぞれの位置に戻った。もう一度「サンタが町にやってくる」から合わせ、続けて「諸人こぞりて」に入る。止められることもなく最後まで通ると、誰からともなく顔が上がった。


そのまま最後の「恋人がサンタクロース」に入った。京子が鍵盤に手を置き、明るい調子で曲が進んでいく。途中で崩れることもなく、終わりまできれいにつながった。音が切れると、講堂の中に少しだけ間ができて、それから何人かが小さく笑った。


「こんなところかな」


ドラムの男がそう言うと、田口もクラリネットを下ろした。


「そうですね」


楽器を片づける音があちこちでし始める。政雄もサックスをケースに戻した。


京子が譜面をそろえながら、そばで言った。


「さっきの曲、やっぱり好き」


「京子ちゃんはユーミン好きだものね」


「うん。最後にあれだと気分いいし」


田口が横で聞いていて笑った。


「分かりやすいな」


「いいでしょう、別に」


「いいよ。そのくらいの方が」


京子はそこで政雄を見た。


「お義兄さんも、あの曲好きになった?」


政雄は少し笑った。


「うん、ノリはいいよね。サックスのアレンジも悪くない」


「でしょう」


京子は満足したように笑った。


田口がケースを持ち上げた。


「じゃあ来週だな」


「そうですね」


三人もそれぞれ荷物を持って、講堂をあとにした。


      *


練習が終わって部屋に戻ると、良子が夕食を用意してくれていた。


「今日はどうだった?」


「うん、だいぶまとまってきたよ」


「それならよかった」


居間の電話が鳴ったのは、そのあとすぐだった。良子が受話器を取って、少し話してから政雄の方を見た。


「あなた、お義母さんから」


政雄が代わると、母の声はひどく弾んでいた。


「政雄、商店街の福引で箱根の温泉ホテルの招待券が当たったのよ」


「へえ」


「大みそかから一泊二日だって。せっかくだから、良子さんと二人で行ってきたらどうかと思って」


政雄は少し笑った。


「いや、それなら母さんたちが使えばいいだろ」


「私たちが?」


「せっかく当たったんだから。父さんと行ってくればいいじゃないか」


母は少し向こうで黙ってから、困ったように笑った。


「でもねえ、お父さんと二人で温泉っていうのも何だかねえ」


政雄もつられて笑った。


「何だそれ」


「だって、せっかくだし」


「それなら、部屋が取れるなら俺たちも一緒に行けばいいんじゃないか」


「そうねえ」


「招待券は母さんたちが使って、もう一部屋取れればだけど」


母の声が明るくなった。


「それならいいわねえ」


父に代わると、落ち着いた声で言った。


「ホテルに聞いてみるか。大みそかじゃ難しいかもしれんが」


「空いてれば、だな」


「そうだな」


招待券に書かれている番号を聞き取り、政雄は手帳に控えた。受話器を置くと、良子が向かいで聞いた。


「どういう話だったの?」


「最初は俺たちに行ってこいって話だったけど、せっかくなら母さんたちが使えばいいと思って」


「うん」


「それで、部屋が取れたら俺たちも一緒に行こうってことになった」


良子は少し笑った。


「それはいいわね」


ホテルに電話をかけると、少し待たされたあとで予約係が出た。招待券の利用と、もう一部屋空きがないかを尋ねる。


「少々お待ちくださいませ」


保留のあいだ、良子が小さく言った。


「取れるといいわね」


やがて受話器の向こうで声が戻った。


「ちょうど一部屋、キャンセルが出ております」


「では、それでお願いします」


名前を伝え、到着時間の目安を答えて電話を切る。受話器を置くと、良子が言った。


「よかった」


「うん。大みそかに一度実家へ寄って、それから四人で向かえばいいかな」


「そうね。その方が分かりやすいわね」


もう一度実家へ電話をかけると、母はすっかりその気になっていた。


「じゃあ、三十一日は昼前には来なさいよ、お昼用意しとくから」


「分かった」


「車はお父さんが出すって」


「うん、ありがとう」


受話器を置いたあと、二人で予定を確かめ合った。着替えをどうするか、手土産はいるか、年賀状は出してあったか。そんなことを話しているうちに、年末の予定がひとつ増えた。


      *


その週のサークルのイベントは、無事に終わった。銀行の方も年末らしく慌ただしく、仕事納めの日まで落ち着かないままだった。


最後の片づけが済むと、事務所のあちこちで椅子を引く音がした。


「今年も終わりだな」


田口が言った。


「そうですね」


「箱根に行くんだって?」


「ええ、母が福引で当てたって興奮して電話よこして」


「ほう、それはまたすごいね」


田口は笑った。


「先月はドイツで今度は箱根か、うらやましい」


「それで、急遽そういうことになりました」


「ゆっくり親孝行してくるといい。じゃあ年明けにまた」


「はい。よいお年を」


あちこちで挨拶が重なり、政雄も上着を着た。

外へ出ると、空気はもうすっかり暮れの冷たさだった。

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