第91話 砂漠のオアシス
黒沢の指定した再会合を二日後に控えた夜、政雄は予定より二時間ほど残業してアパートへ戻った。
玄関を開けると、ダイニングに明かりがついていた。
台所の前では、良子が鍋の火加減を見ている。
帰宅してから急いで支度をしたのだろう。
ブラウスの上にエプロンをつけ、袖だけ少しまくっていた。
「ただいま」
「お帰りなさい。遅かったのね」
「うん。少し残業してた」
良子は鍋の蓋を開けて中を見てから、振り向いた。
「もうできるから、手を洗ったらお皿お願い」
「分かった」
政雄は鞄を部屋の脇へ置き、上着を脱いで洗面所へ向かった。戻ると、ダイニングテーブルにはサラダ皿とパン籠が出ていた。良子はシチューを火から下ろし、深皿を並べているところだった。
「シチューかい」
「ええ。最近だいぶ寒くなってきたから温かいものがいいと思って」
「いいね」
政雄は皿を運び、スプーンを並べた。
二人で動いても、ダイニングにはまだ少し余裕がある。
越してきたばかりの頃は落ち着かなかった部屋も、このところようやく暮らしの形が見えてきていた。
向かい合って座ると、良子が先にスプーンを取った。
「会合って、明後日だったわね」
「うん」
「まだ忙しいの?」
「提出するレポートを作っていたんだけど、一応できたよ」
政雄はそう言って、鞄の方へちらりと目をやった。
良子はそれ以上は聞かず、サラダを取り分けた。
「じゃあ、今夜は食べたら早く休んだ方がいいわね」
「そうしたいけど、頭だけ起きてるんだよな」
「そういう時こそよ。起きてても、ろくなこと考えないでしょう」
政雄は笑った。
「たしかに」
大げさな励まし方ではなかったが、そのくらいがちょうどよかった。
良子は政雄の仕事の中身までは分からないし、政雄もそこまで説明するつもりはない。
ただ、少し忙しくしていることと、気が張っていることだけは伝わっているらしい。
食事をしながら、良子は図書館で返却が多かったことや、閉館間際に新聞の縮刷版を探しに来た人がいたことを話した。
政雄も職場でのちょっとした出来事を返した。
仕事の話というほどではない、ほんの少しのやりとりだったが、それだけで帰ってきた時の張りつめた感じが少しほどける気がした。
食べ終わる頃、良子が空いた皿を重ねながら言った。
「今日はほんとに疲れてるのね」
「そう見えるかい」
「いつもより静かだもの」
政雄は苦笑した。
「それはあるかもな」
「お風呂、先に入る?」
「いや、あとでいいよ。先にどうぞ」
良子は少しだけ考えてから、じゃあお先にと言って立ち上がった。
政雄はそのあとで皿を流しへ運び、テーブルの上を軽く拭いた。
その夜は食後にだらだら起きていることもなく、二人とも早めに風呂へ入り、いつもより少し早く床に就いた。
*
木曜の午後、政雄は書類を入れた鞄を持って、課を出ると霞が関へ向かった。
前回と同じ会議室の前には、すでに何人かが集まっていた、顔ぶれは大きく変わらない。
黒沢もその中にいて、政雄に気づくと軽く手を上げた。
「お、来たね」
「お待たせしました」
「いや、まだ時間まで少しあるよ。例の件、まとまった?」
「はい。ひととおりまとめました」
黒沢はうなずいただけで、それ以上は言わなかった。
廊下で立ったまま話すことでもない、という顔つきだった。
やがて中へ通されると、政雄は前回と同じように入口に近い端の席へ回ろうとした。
前回、自分がこの場でいちばん若いと分かっている以上、そのあたりがいちばんおさまりがいい気がした。
すると黒沢がこちらを見て、近くの空いた席を示した。
「山本君、その辺空いてるから、そこへ」
言われて見れば、黒沢の近くにひとつ席が空いていた。
政雄は軽く会釈して、その席へ腰を下ろした。
たまたまそこが空いていただけとも取れたし、そうでないとも取れたが、いまはどちらでもよかった。
鞄を脇に置き、机の上へ資料を出す。
前回は顔合わせの色合いが強かったが、今日はもう少し突っ込んだ話になるのだろう。
そのくらいのことは、政雄にも分かった。
席につく人が揃うにつれて、室内の声も少しずつ落ち着いていった。
前回と同じ顔ぶれなので、空気にはわずかに気安さがある。
ただ、その分だけ今日は話が先へ進むのだろうとも思えた。
黒沢が手元の書類を軽くそろえ、部屋の前方へ視線を向けた。
ほどなくして、会合が始まった。
*
黒沢が前回の確認を手短に済ませると、出席者は順に考えを述べていった。
各社の発言は、それぞれによく考えられていた。証券は銀行店頭で扱う範囲を限る案を出し、保険は契約後の扱いを切り分ける必要を述べ、信販は決済と引落しの手順をそろえる話をした。設備に関わる出席者は、端末や回線の規格を早めに定めておくべきだと言った。
どれも前回の宿題を踏まえた、もっともな意見だった。
ただ、政雄には、どの案もそれぞれの業種の内側から差し出されているように思えた。
隣り合うことはできても、最初からつながる形にはなっていない。
手元の資料に目を落としながら、少し先まで書きすぎたかもしれないと、今さらのように思った。
だが、もう引くことはできなかった。
「銀行としての意見を申し上げるというほどのものではありませんが」
そう前置きしてから、政雄は資料を開いた。
「接続先が今後増えていくことを考えますと、先にそろえておいた方がよい点が三つあるように思います」
政雄は、接続に必要な条件は共通にしておくこと、内部方式の違いは間で受ける仕組みを設けること、機械の入れ替えがあっても接続を保てるようにしておくことを、順に述べた。
内部の処理までそろえる必要はなく、外との受け渡しにかかる部分だけを定めておけばよい、というのが骨子だった。
政雄が話し終えると、黒沢はすぐには口を開かなかった。
ひと呼吸ほど置いてから、席を見渡した。
「いまの点について、どなたかございますか」
最初に口を開いたのは、信販会社から来ていた男だった。
「接続に必要な条件をそろえるとして、どの程度までお考えですか。項目の名前だけで足りるのか、順序や符号まで含めるのか。そのあたりで、手間はだいぶ違ってくると思いますが」
政雄は軽くうなずいた。
「全部を同じにする必要はないと思います。内部の帳票や処理は、それぞれのやり方のままでよい。ただ、外部とやり取りする部分だけは、あまり種類を増やさない方がよいのではないかと思うのです。そこが決まっていれば、接続先が一つ増えるたびに、一から相談し直さずに済みます」
黒沢は黙って、小さくうなずいた。
この後もいくつか質問や技術的な論点は出たが、話はもう、当初のような漠然とした意見交換ではなくなっていた。黒沢は最後に全体を簡単にまとめ、今日出た論点はいったん事務方で整理したうえで、あらためて次の会合で詰めたいと告げて、その日の会は終わった。
*
黒沢は部屋へ戻ると、席に着く前に上司が顔を上げた。
「どうだった。収穫はあったかね」
「はい。議事録はまとめて後でお持ちしますが、少し面白い若手がおりました」
「ほう。どこの者だね」
「双葉銀行の山本という男です。銀行の都合という枠にとどまらず、業種をまたいだ接続のあり方を、かなり先まで見て考えていました」
上司はそこでわずかに眉を動かした。
「それはまた、大きく出たものだな」
「まだ粗いところはあります。ただ、個別の利害を並べるだけの話とは少し違います。先に土台をそろえるべきだという考え方で、あの場ではいちばん筋が通っておりました」
上司は椅子に背を預けたまま、小さく息をついた。
「君がそこまで言うなら、少し期待してみてもよさそうだな」
「はい。次も呼ぶ価値はあるかと存じます」
*
一方そのころ、政雄は霞が関の建物を出て、駅へ向かっていた。
会議の最中は話すしかないと思っていたが、こうして外へ出てみると、やはり少し先走りすぎたかもしれないという気はした。
あの場で求められていたのは将来を見た案ではあっても、あそこまで接続の前提に踏み込んで話した者はほかにいなかった。
だが、言ってしまったものは仕方がない。
妙に浮いてしまったわけでもないのなら、ひとまずは結果オーライと考えるしかなかった。
地下鉄の階段を下りながら、政雄は頭の中を切り替えた。次は安東への報告である。今日の話をどこまでそのまま伝えるか、黒沢やほかの出席者がどう受け取ったように見えたか、そのあたりも整理しておいた方がよさそうだった。




