第89話 大蔵省からの呼び出し
新婚旅行から帰った翌日とその次の日の土日には、双方の実家へ土産を持って顔を出し、無事に帰国した報告を済ませた。
週が明けた月曜日、政雄は式に参列してくれた安東と田口に土産を渡し、それから事務企画課にもライプニッツのバタービスケットを配った。包みを見た相沢久美子が、ぱっと顔を明るくした。
「ライプニッツだ、これ有名なんですよ」
「ビスケットなら日持ちするからね」
「そこじゃないんですけど、ありがとうございます」
久美子はそう言いながら、さっそくお茶の支度に立った。
ひと通り挨拶が済んだところで、安東が政雄を手招きした。
「山本君、大蔵省の黒沢さんから勉強会の呼び出しが来ている。多業種の相互協力に関する集まりだそうだ。君が旅行中に連絡が入ってね。月曜日には出勤すると伝えておいた」
「私がですか」
「指名だそうだ」
政雄が自席へ戻ると、田口がすぐ顔を寄せてきた。
「山本、大蔵省から呼び出しとは、何やらかしたんだ?」
「何もしてませんよ、先日のBANCSの会議で名刺をいただいたくらいです。怖いこと言わないで下さいよ、いやだなー」
そのそばで、久美子がお茶とビスケットを配りながら、さりげなく耳をこちらへ向けていた。
気になることは気になったままだったが、だからといって手を止めるわけにもいかない。
政雄は机の上の書類を引き寄せると、まず午前中に片づけるべき案件から順に見直し始めた。
大蔵省の黒沢がなぜ自分を呼ぶのかは分からない。
だが、考えたところで今すぐ答えが出る話でもなかった。こういう時は先に手を動かした方がいい。
*
勉強会は、その週の木曜の午後に霞が関で開かれた。
正式な会議というより、先に話の分かる者だけ集めたような会だった。
長机を四角く並べた部屋に、顔ぶれは十人にも満たない。
都市銀行、共同センター、通信会社、それに流通側の実務担当者が数人。
双葉銀行からは政雄が一人で来ていた。
黒沢は定刻きっかりに現れた。濃い色の背広に地味なネクタイという、どこにでもいそうな役人の格好だったが、部屋へ入った途端に空気が締まるのは、やはり大蔵省の人間だからだろうと政雄は思った。
黒沢は席に着くと、手元の紙を軽くそろえてから口を開いた。
「本日はお忙しいところありがとうございます。大げさな名前を付けていますが、要は勉強会です。
ATMに限らず、今後の金融機関どうしの相互協力をどう考えるべきか。
今日はコストや現実性があるかどうかはいったん脇へ寄せて、実務の立場から率直に聞かせて下さい」
最初に話し始めたのは都市銀行の担当者だった。いま動いている接続にも不便は多い。
照会の扱いが違う、障害時の連絡が遅れる、費用の分担も曖昧だという。
共同センターの人間は、地方まで含めて広げるなら、現行のやり方では限界があると言った。
通信会社の担当者は、運用時間や回線の扱いに共通の考え方が要ると指摘した。
どれももっともだったが政雄には、どこか足りない気がした。
目の前の不便を並べ、それをどう直すかという話に留まっている。
黒沢が聞きたいのはそこだろうかと考えるうちに、むしろ違うはずだという気が強くなった。
既存の枠組みの中で少し便利にするだけなら、わざわざ大蔵省がこんな顔ぶれを集める必要はない。
ひと通り意見が出たところで、黒沢が政雄に目を向けた。
「山本さんはどうですか」
政雄は一つ息を整えてから口を開いた。
「銀行同士の相互協力そのものは、もうある程度まで進んでいます。でしたら今日ここで考えるべきなのは、その先をどう本格化させるか、ということではありませんか」
何人かが視線を向けた。政雄は構わず続けた。
「その場合、銀行の中だけで話を閉じてしまうと足りなくなるでしょう。
例としては各行とも、もうクレジットカードとの提携は進めていますよね。
支払いも借入れも、銀行の口座だけで完結しない形が増えてくると考えるのが自然ではありませんか」
共同センターの担当者が手帳を開いた。都市銀行の一人は椅子に深く座り直した。
「そうなった時に、今あるもの同士をその都度すり合わせるやり方で間に合うでしょうか。銀行同士の話なら何とか済むことでも、相手が銀行の外へ広がれば、また最初から調整し直すことになりませんか」
部屋が少し静かになったのを感じながら、政雄は言葉を継いだ。
「本幹まで一度に変えるのは現実的ではないでしょう。そこは各行ごとに事情があります。ただ、ATMまわりと対外接続の部分だけは、別に考えた方がいいのではありませんか。そこまで銀行ごとに違っていたら、後で広げるたびに必ず詰まりますよね」
黒沢は口を挟まなかった。政雄は最後にもう一歩だけ踏み込んだ。
「しかも、今から始めてもすぐにはできません。ほかの業種との連携が本格化する前に動くなら、もう時間は多くないのではありませんか」
黒沢はしばらく政雄を見ていたが、やがて静かに言った。
「BANCSでは、どうしても今動いているものを前提にした話になりますからね。今日は少し違った角度から意見を聞きたくて、皆さんにお集まりいただいたのですが、正直に言えば、そこまで先の話になるとは思っていませんでした」
その言い方に、部屋の空気がわずかに変わった。黒沢がただ相槌を打っているのではなく、本気で聞いているのだと皆が感じたのだろう。
「ただ、言われてみればその通りです。銀行同士の調整だけで済むうちは何とかなるとしても、相手が銀行の外へ広がるなら、そのたびに話をやり直すわけにはいかないでしょう」
黒沢はそこで一度言葉を切った。
「山本さん、あなたなら最初にどこから手を付けますか」
政雄はためらわなかった。
「先ほども申しましたが、時間がかかるのはやはりソフト開発でしょう。でしたら、まず仕様だけでも先に固めるべきではありませんか」
黒沢はわずかに眉を上げた。
「そこですか」
「なるほど。確かに、それが決まらなければメーカーも動けませんね」
政雄はうなずくだけにとどめた。ここで話しすぎるのは違うと思った。
黒沢は場全体に視線を移した。
「分かりました。では、目先の不具合の話はいったん脇へ寄せましょう。先に詰めるべきなのは、ATMと対外接続の仕様です」
その言葉に対して、最初に口を開いたのは都市銀行の担当者だった。
「論点は分かりました。ただ、その整理になりますと、こちらも持ち帰って考える時間をいただきたいのですが」
ほかの出席者も異論はなさそうだった。通信会社の担当者も小さくうなずいている。
黒沢はすぐに引いた。
「そうですね。少し急ぎすぎました」
手元の手帳に視線を落とし、すぐに顔を上げる。
「今日のところはここまでにしましょう。次回また集まっていただきますので、コストや現実性はいったん脇へ寄せて、この先必要になるものは何か、それぞれ持ち帰って考えておいて下さい」
そこで出席者を見回した。
「二週間後ではいかがでしょう」
散会の空気になってからも、政雄はしばらく席を立たなかった。
大蔵省が本気で動くなら、銀行の中にいるだけでは見えないものが見られるかもしれない。
金の流れだけでなく、その後ろで動く仕組みそのものを学べるなら、それは願ってもない話だった。




