第88話 旅行記
フランクフルトに着いたときには、もう外はすっかり暗くなっていた。
成田を発ってから長い時間がたっていたが、まだ旅の途中だと思うと気をぬけない。
空港の中で軽く夕食をすませ、列車でハイデルベルクへ向かった。
中央駅へ着いたのは九時を少し回ったころで、そこからホテルへ入ると、二人ともようやく人心地がついた。
部屋は静かで、窓の外を見ても真っ暗で何もよく分からなかった。
荷物をほどく元気もなく、コートを脱いで椅子に掛けると、それだけで長い一日が終わった気がした。
「やっと着いたわね」
「うん、疲れたね」
「明日はゆっくりでいいのね」
「大学図書館へ行って、それから町を歩いてみよう」
良子はベッドの端に腰を下ろし、ようやく肩の力を抜いたようだった。
「カールスルーエも行ってみたいの。中世写本もだけど、楽譜のコレクションがいいでしょう。
あなたも見たいんじゃないの」
「それは見たいね」
「マンハイムも近いのよね。あちらはもっと新しい図書館だから、それも見てみたいわ」
「それなら無理はないよ」
「ワイマールの図書館も本当は気になるのだけれど」
「遠いんだっけ?」
「ええ。今回は無理ね」
「また来ればいいよ」
「そうね。そのときは行きましょう」
その夜はそれ以上何かする気にもなれず、二人とも早く寝た。
*
翌朝は思ったより疲れていたようでゆっくり目覚めた。
窓を開けると空気は冷たかったが、空はよく晴れていた。
ホテルで朝食をとってから外へ出ると、石畳の道も建物の壁も、昨夜は見えなかった色をようやく見せはじめていた。
大学の町らしく学生らしい姿が目につき、道は落ち着いているのに、どこか人の気配が絶えなかった。
大学図書館の建物を前にしたとき、政雄は思っていたよりもまず建物そのものに目を引かれた。
赤みを帯びた石の外壁は、長い年月をそのまま受けとめてきたような重さを持っていたが、窓まわりの飾りや正面の細かな意匠は重苦しいだけではなく、古い町の中で人を立ち止まらせるだけの華やかさも備えていた。学問のための建物というより、町の時間の中に溶け込んだひとつの顔のように見える。
中へ入ると、外の石の重さとは少し違う、乾いた明るさがあった。閲覧室の机や書架の並びはよく整い、利用者たちはそれぞれ自分の前の本へ静かに目を落としている。
その落ち着き方は日本の図書館とも似ていたが、壁や窓の高さのせいか、部屋の中にいるだけで古い大学町の時間の流れに包まれるような気がした。
良子は展示のケースだけでなく、案内板の出し方や係の動きにも自然に目を向けていた。
見物に来たというより、自分の仕事場とどこが同じでどこが違うかを、ひとつずつ確かめている様子だった。
良子はしばらく黙って見上げていたが、やがて、ずいぶん雰囲気が違うのね、と小さく言った。
調べものをする場所としての使い方は同じでも、ここでは建物そのものや古い資料まで含めて、図書館全体を見せているように思えるのだった。
政雄はその横顔を見ながら、ここへ来ることがただの観光ではないのだとあらためて思った。
自分たちは本を読む者であり、音楽をやる者でもある。
そういう二人が、新婚旅行でこんな場所へ来ている。
そのことに、政雄は不思議なめぐり合わせのようなものを感じた。
図書館を出てからは、旧市街の方へ二人で歩いた。
表通りには土産物屋も並んでいたが、二人の足が止まるのは古本屋の前だった。
店先の棚や窓ぎわに立てかけられた本の背を順に見ていくだけでも時間が過ぎた。良子は文字の並びを追うように顔を近づけ、政雄はその隣で値札や装丁を見ていた。
昼は遅めにとり、そのあともしばらく町を歩いた。
川の方へ出ると、風は町なかよりも少し強かった。
政雄はコートの襟を立て、良子も首もとのマフラーを巻き直した。
歩くうちに良子の肩が自然に寄ってきて、二人はそのまま歩幅をゆるめた。
ネッカー川の流れは冬の日ざしを受けても冷たく、対岸の斜面には葉を落とした木立がうすい影になって続いていた。
橋の上にも川沿いの道にも、こちらと同じように肩を寄せて歩く男女の姿が見えた。
そうした姿は気取ったものではなく、寒さの中で自然にそうなっているだけなのだが、それがかえって町の景色によくなじんでいた。
自分たちもまた、その日の川沿いの風景の中へ静かに溶けこんでいるように思われた。
町を歩いているあいだにも、政雄はときどき、この国がついこの前まで二つに分かれていたのだということを思い出した。
駅や売店では、政雄にも見覚えのある地名や短い単語が目につくことがあり、ホテルのロビーのテレビでも、そのことに関わるらしい話題が映ることがあった。
言葉の細かなところまでは分からなくても、ひとつに戻ってまだ間もない国の中に自分たちがいるのだという感じだけは、旅の途中で折にふれて伝わってきた。
翌日はカールスルーエへ足を延ばした。
州立図書館で中世写本や古い楽譜の資料を見ることが、この旅ではいちばんはっきりした目的だった。
良子は展示の前で足を止める時間が長く、政雄も横で同じように見入った。
文字の並びも譜の流れも、すぐに役に立つものではない。
それでも、長い時間を越えて残ってきたものが目の前にあるというだけで、二人には十分だった。
三日目は、マンハイムへ、今度はもっと新しい図書館の造りや使われ方を見ることができた。
近い町でも雰囲気は違い、古い大学町の図書館と、機能を前へ出した大きな図書館とでは、同じ本のある場所でも印象がまるで違った。
政雄には、そういう明るさや書架の並び方に少し見覚えがあった。
学生時代、ゼミの課題や卒業論文を書くために通った大学の図書館も、古い建物ではなく、もっと新しい造りをしていたからである。
必要な本を探し、空いた机を見つけてノートを広げ、気がつくと夕方までそこにいることも珍しくなかった。
進むべき道は、学生のころにはもうかなりはっきりしていた。
前世の記憶がある以上、バブルが崩れることも、その先にネット社会が来ることも分かっていたからである。
都銀に入ることも、そのあとでIT関連の仕事につながる道を探ることも、自分なりに筋道を立てて考えたうえでのことだった。
書架のあいだを歩いていると、机に向かっていたころの張りつめた気分が、ふと戻ってくるような気がした。
良子はそこでも書架の配置や閲覧席の置き方をよく見ていたが、見終えるころには、こういう造りだと、利用する人には親切ね、と小さく言った。政雄も、それにはうなずいた。
そうして三日ほどゆったり見学して回ると予定の大半を終えた。
満足はしていたが、良子ともっと図書館を回っていたいようにも思えた。
帰る前の夜には荷物をまとめ、買ったものを鞄に入れ直し、忘れ物がないように確かめる。
結局、ワイマールまでは行かなかったが、それは次に来る理由がひとつ残ったということでもあった。
帰る日は朝のうちにホテルを出て、フランクフルトへ戻った。
行きのときよりも気が急かず、列車の窓から流れていく景色を見る余裕が少しあった。
空港で手続きをすませ、午後の便に乗ると、あとは長い帰り道だった。
成田へ着いたのは翌日の昼ごろで、そこから東京へ戻り、夕方には二人のアパートへ帰りついた。
*
玄関へ入ると、長旅の疲れはあっても気持ちはどこかやわらいだ。
準備のために何度も来ていた部屋なのに、その日ははじめて、これから二人で暮らしていく家として自分たちを迎えてくれたように感じられた。
良子もほっとしたように息をつき、政雄は預かっていた鞄を壁ぎわへ寄せてから、良子の手を取った。
「本日より、末永くよろしくお願いします」
「こちらこそ」
良子は笑ってそう答えた。
旅の名残はまだコートや鞄に残っている気がしたが、暮らしの方はもうここから始まるのだった。




