第85話 良子の家族
五月の日曜、政雄は良子を実家へ連れて行った。
結婚の話をしたあとで、まず自分の親に会わせるのが筋だろうと考えた。母には前もって伝えてあったが、朝から落ち着かない様子だった。父は父で、口数こそ少ないものの、普段より早く身支度を済ませていた。
「そんなに早くから待たなくても、まだ来ないだろう」
政雄が言うと、母はすぐに言い返した。
「わかってるわよ。でも、初めてなんだから気になるでしょう」
昼前になり、政雄は良子を迎えに最寄り駅まで出た。改札の前で待っていると、良子が淡い色のワンピースに薄手の上着を重ねてやって来た。派手ではないが、きちんとして見えた。
「いらっしゃい」
「今日はよろしくお願いします」
「こっちだよ」
二人は並んで駅を出て、実家まで歩いた。道すがら、良子は少し緊張しているようだったが、足取りは乱れていなかった。
「うちの母親、たぶんいろいろ聞くと思うけど」
「うん、そのつもりで来たから」
「父親は、たぶんあまりしゃべらない」
「それは少し怖いかも」
そう言って良子は笑った。
家に着くと、政雄が戸を開け、良子を中へ通した。後ろから母がすぐに出てきた。
「まあ、わざわざ遠くから。さあ、どうぞ中へ」
良子は少し緊張した顔で頭を下げ、母に続いて上がった。父も居間で待っており、座布団の位置を気にするように見てから、
「どうぞ、楽にして」
とだけ言った。
挨拶が済むと、母は思っていたより早く打ち解けた。良子の勤め先のこと、通勤にどれくらいかかるのか、家では妹とどんな話をするのか。そんなことを次々に聞いていく。良子も受け答えに詰まることはなく、丁寧な言葉の中にやわらかさがあった。
父は多くは話さなかったが、良子が話すたびに一度ずつうなずいた。政雄には、その反応だけで十分だった。少なくとも、悪くは思っていない。
母は途中で茶を替えに立ち、戻ってくると今度は良子に笑いかけた。
「政雄は昔から、家ではあまり自分のことをしゃべらないんです」
「そうなんですか」
「ええ。仕事のことも、こちらから聞かないと何も言わないの」
良子が政雄の方を見て、少し笑った。
「それは私もそう思います」
「ほら見なさい」
母がすかさず言い、政雄は返す言葉に困った。
こういう形で話が進むなら、今日はうまく行く。
そう思ったところで、父が湯飲みを置いて口を開いた。
「それで、そちらのご両親には、もう話はしてあるの?」
良子は居住まいを正した。
「はい。まだ正式というほどではありませんが、今度、政雄さんに会ってもらうことになってます」
父はそこで一度うなずいた。
「そうか、それならいい」
短い言葉だったが、それで十分だった。母も目に見えてほっとした顔になった。
良子を駅まで送った帰り、政雄は家までの道を一人で歩いた。家に戻ると、母は台所へ行く前に政雄へ言った。
「きちんとした人じゃないの」
父も居間で一つうなずいた。
「うん」
その一言で、両親の同意となった。
次は、良子の家へ行く番だった。
*
良子の家を訪ねるのは、その次の日曜になった。
約束の時間より少し早く最寄り駅に着き、政雄は改札を出たところで一度腕時計を見た。早すぎるほどではない。遅れるよりはましだと思い直し、案内された道を歩いた。
住宅街の中ほどにあるその家は、表から見るぶんには、古いがしっかりした家という印象だった。
下町にはこういう家もあるのだろうと思わせる程度で、いかにも大きな家だと見せつける感じはない。
門の前で立ち止まり、呼び鈴を押すと、しばらくして良子が出てきた。
「いらっしゃい」
「今日はよろしくね」
玄関へ通され、靴を脱いで上がる。廊下の先の部屋へ案内される途中で、家の奥行きが表から受けた印象よりずっと深いことに気づいた。
通された部屋には、良子の父と母がもう座っていた。
父は六十前という年齢のはずだが、くたびれた感じはなかった。
母は姿勢の良い人で、話す前からきちんとした家の人だとわかる。
良子に続いて座ろうとして、政雄は一瞬だけ目を止めた。
なぜか京子までいた。
良子の妹で、銀行では総務部庶務、サークルではキーボードを担当している京子が、良子の隣にちょこんと座っている。
なぜ君がこっち陣営にいるんだと思ったが、本人はまるで気にしていない顔をしていた。
ひととおり挨拶を済ませたあと、政雄は背筋を伸ばした。
「今日は、良子さんとの結婚を許していただきに来ました」
そう言って頭を下げると、隣で良子も頭を下げた。
そして、なぜか京子まで一緒に頭を下げた。
良子の父はそれを見て、ふっと笑った。
「話は良子から聞いてるよ。まあ、そんなに固くならないで」
そう言って、手元の瓶ビールを取り上げ、政雄のコップに早速注いだ。
「母さん、用意できた?」
「はい、今出しますね」
母が立ち上がり、ほどなくしてすき焼きの鍋が運ばれてきた。
割り下の匂いが広がると、肩に入っていた力が少し抜けた。
それで、政雄も少しは落ち着いた。
そこでふと、政雄は窓の向こうへ目をやった。
庭の真ん中に、大きなソテツが一本あった。しかも大きいというより、巨大と言った方が合ってる。
幹は太く、葉は四方へ広がり、そのまわりだけ庭というより小さな広場のように見えた。
足元には石畳があり、脇にはベンチまで置かれている。
政雄は思わず、もう一度見た。
「あの、庭のソテツ、すごいですね」
そう言うと、良子の父が楽しそうな顔になった。
「ああ、あれか。あれは昔、鉢植えでもらったやつなんだよ」
京子がすぐに口をはさんだ。
「お父さんが庭に下ろして、そのままにしてたらああなったの」
「そのままにしてたって、ちゃんと世話はしてたぞ」
「最初だけでしょ」
父と京子のやり取りに、良子の母が苦笑した。
「でも、あそこまで大きくなるとは思わなかったなぁ」
政雄は窓の外を見ながら、表から受けた印象との差を考えていた。
玄関から見たときは、きちんとした下町の家という程度だった。
だが、中へ入ると庭の広さも家の奥行きもまるで違って見えた。
なるほど、良子がああいうふうに育つ家なのかと妙に納得した。
視線を戻すと、部屋の隅にエレクトーンが置かれているのが目に入った。
京子から、姉は今でもたまに弾くと聞いたことがある。
「まだ弾くの?」
政雄がそう聞くと、良子が少し笑った。
「たまにね。ずっと続けてるわけじゃないけど」
「最初に始めたのはお姉ちゃんなんです。小学生のとき」
「それを見て、私もやりたいって言ってね」
父が口をはさんだ。
「二人で使うならいいかと思って、あれを買ったんだよ」
「奮発したんだぞ、言い出した京子はすぐにやめちゃったけどな」
「やめたんじゃなくて、私はキーボードに移ったの」
そう言って京子が口をとがらせると、良子の母が笑った。
「この子は飽きっぽいんです。でも、そのかわり好きなことはずっとやってますから」
「人のこと言えないだろう。君だって若いころはいろいろ手を出してたじゃないか」
「私はたしなみです」
母はそう言って、すき焼きの肉を政雄の取り皿に入れた。
「さあ、遠慮しないで食べてくださいね」
「ありがとうございます」
政雄が箸をつけると、父も自分の杯にビールを足した。
「銀行は今も忙しいんだろうね」
「はい。前よりは少し」
「良子から、君は本店だと聞いてるよ。堅そうな仕事だ」
「銀行といっても、今は他行との提携などを担当してます」
「それはまた大変そうだね」
相手を値踏みするような調子がないので、政雄も答えやすかった。
「でも、うちで京子から君の話を聞くと、銀行員というよりサークルの人みたいなんだよ」
「余計なこと言わなくていいのに」
京子がすぐに言った。
「別に余計じゃないでしょう、山本さんはサックスが上手なんだから」
良子が言うと、京子は少しだけ不満そうな顔をした。
「ほぉ、音楽もやるんだね」
父はそう言って、政雄を見た。
「仕事だけの人より、そのくらいの方がいい」
政雄はその言葉に少し救われた気がした。前世の自分なら、こういう家では肩に力が入りっぱなしだったかもしれない。
庭のソテツも、家の造りも、家族の話し方も、この家がどういう家かをそのまま出していた。
父は杯を置くと、良子と政雄を順に見た。
「話は前から聞いていたし、今日こうして来てくれてよくわかったよ」
そこでいったん言葉を切り、つづけた。
「良子をよろしく頼みます」
良子も「よろしくお願いします」と政雄に頭を下げた。
政雄もそれに応えて頭を下げる。横ではまた京子まで一緒に頭を下げていて、政雄は危うく吹き出しそうになった。
「なんで京子まで下げるの」
「家族だから」
「お前は気が早い」
「いいじゃない」
そう言ったのは母だった。
「にぎやかな方がいいでしょう」
そのあとで茶が出され、話は少しやわらかい方へ移った。
良子の父は会社のことを多くは言わなかったが、時おりぽつりと話すことに、育ちの良さと物の見方が出ていた。
母も言葉づかいは上品だったが、よそよそしさはなかった。
帰るころには、政雄の緊張は来たときとは別のものになっていた。
試される場を抜けたというより、自分がこれから関わっていく家の雰囲気を感じられた。
玄関の外まで見送られ、門を出てから良子が小さく息をついた。
「終わったね」
「ああ」
「うちのお父さん、思ったより話してたでしょう」
「そうだね」
「機嫌がよかったのよ。政雄さんが最初にちゃんと頭を下げたから」
政雄は少しだけ苦笑した。
「それは、そうするつもりで行ったからね」
良子はそこで笑った。
「うん。ちゃんとしてて、よかった」
駅までの道を二人で歩きながら、政雄は胸の中でひとつ区切りがついたのを感じていた。まだ結婚そのものが済んだわけではない。それでも、ここまでは来たのだと思えた。
1990年5月の時点では、金融引き締めは進んでいても、世間の表向きの明るさはまだ残っていた。




