第86話 進まない仕事と本の街
月曜の朝、政雄はいつもより少し早く出勤した。週の初めから、予定表には会議と確認の予定がいくつも並んでいる。
今週はBANCS絡みの用件が続くとわかっていたし、田口が受け持っている店舗外ATMの件でも、まだ詰めるところが残っていた。
朝のうちに課内で打ち合わせがあり、そのあと政雄は都内で開かれるBANCSの会合に出た。
ATMの接続や運用をめぐる話し合いだったが、この日も議論は細かな手順の違いに時間を取られた。障害時の連絡順をどうするか、照会の返し方をどこへ合わせるか、運用時間をどこまでそろえるか。
どれも必要な話ではあるのだろうが、政雄には、枝の形ばかり整えて幹を見ていないように思えた。各行とも連携の必要は口にする。
だが実際には、自分のところのやり方をどこまで残せるかに気を取られている。
議論がまた個別の例外処理へ戻りかけたところで、政雄は口を開いた。
「当面の接続条件を詰めるのは必要だと思います。ただ、このまま各行の取り決めを個別に積み上げていくやり方では、接続先が増えたところで必ず対応しきれなくなるはずです。どこの銀行のやり方を残すかではなく、最初から共通の基準に新たに作る前提にしないと、いつまでもまとまらないのではないでしょうか」
一瞬だけ卓上が静かになった。だがすぐに、まだそこまで考える段階ではないとか、まずは今回の接続条件を詰めるべきだとか、そんな言葉が返ってきた。政雄も、それ以上は言わなかった。
会議が終わって会場を出るころには、さすがに言い過ぎたかという思いが出てきた。
あの場でそこまで口にしても、通るはずがなかった。
いずれATMは銀行の店先だけに置かれるものではなくなるし、振込や納付の類も、窓口まで行かずに済むようになる。
そんなことは政雄にはわかっていたが、今この時点で、それを会議の席で正面から言っても、話が飛びすぎているとしか受け取られないだろうと思った。
背後から声をかけられた。
「さっきの話をしたのは君だね」
振り向くと、会議のあいだ壁際で聞いていた男が立っていた。四十前後だろうか。疲れた顔つきのわりに、目だけは妙に醒めている。
男は上着の内ポケットから名刺入れを出し、一枚を差し出した。大蔵省銀行局の肩書が刷られていた。政雄も名刺入れを取り出し、自分の名刺を渡した。
「双葉銀行の山本です」
「各行が自分の都合を並べるだけで終わるかと思っていたが、君は少し違う話をしていたね」
男は政雄の名刺に目を落とし、銀行名を確かめるようにひと呼吸置いた。
「共通基準を作らないと、いずれ立ちゆかなくなる、ということだったね」
「はい。例外ごとに擦り合わせをしていたら、接続先、例えば地銀や他業種と提携するようになった時にまた初めからやり直しになってしまいます」
「会議の席では、あまり受けのいい話ではなさそうだったけれど」
「そうですね、少し飛躍してしまいました」
「でも、ああいう見方をする人がいないと、先々で困るだろうね」
男は名刺入れをしまいながら、わずかに笑った。
「山本さんの意見は、覚えておきます」
政雄は会釈を返し、課へ戻った。机の上には朝より書類が増えていた。
午後は自席で文言の直しに追われた。利用店に出す案内と、行内向けの説明とでは、同じ内容でも言い方を変えなくてはならない。技術の側で当然とされることが、現場ではそう受け取られないこともある。 そこをどう言い換えるかで手が止まりかけたころ、田口が声をかけてきた。
「山本、ちょっといいか?」
「はい」
「店舗外ATMの件だけど、障害時の連絡順、これでいいか少し確認してくれないか」
書類を確認していくと、田口の方でも利用店の受け取り方をかなり気にして文面を直していた。 こちらだけで考えていると、どうしても内向きの言い方になりやすい。
「この書き方なら、向こうもわかりやすいですね」
「そうか。ならこのままでいくか」
「はい」
その確認がひと区切りついたのは夕方だった。課の中も少し落ち着き、電話の鳴る回数も減っている。今なら言えると思って、政雄は田口の机の横へ行った。
「田口さん、ちょっといいですか」
「いいよ。何?」
「仕事の話じゃないんですが」
「そう言われると少し身構えるな」
「結婚することになりました」
「え、京子ちゃんのお姉さん?」
「はい」
「それはおめでとう」
「ありがとうございます」
「もう日取りも決まったの?」
「だいたい決まりました。秋の終わりです」
「思ったより早いな」
「挨拶が済んだので、その先も進みまして」
「式はどんな感じにするの?」
「都内のホテルで、親族中心にやるつもりです。仲人も立てません」
「そうか。今はいろいろだし、その方がやりやすいかもしれないな」
「ええ。あまり広げずに済ませたいんです」
「それで、今日は報告だけじゃないんだろう?」
「もしご都合がつけば、出ていただければと思って」
「もちろん行くよ」
「ありがとうございます」
「しかし山本からそういう話を聞く時期になったのか」
「田口さんにそう言われると、少し変な感じですね」
「何だそれ」
笑いながらそう返されて、政雄も少し肩の力が抜けた。
翌日も朝から確認が続いた。システム課とのやり取りで出た修正点を反映し、関係各所への連絡を整える。大きな案件というより、細かい見落としを潰していくような一日だった。
昼を少し過ぎたころ、ようやく安東に声をかける間ができた。
「安東さん、少しよろしいですか」
「いいよ」
「私事なんですが、結婚することになりまして」
「そうか。それはおめでとう」
「ありがとうございます」
「前から付き合っていた人?」
「はい」
「じゃあ、話は順当に進んだわけだ」
「ええ。日取りも決まりました」
「いつになったの?」
「秋の終わりの土曜です」
「もうそこまで決まったのか」
「式は都内のホテルで、親族中心にやる予定です。仲人は立てません」
「そうか。その方が二人とも気が楽かもしれないな」
「もしご都合がつけば、ご出席いただければと思いまして」
「もちろん、出席させてもらうよ」
「ありがとうございます」
「相手の人も仕事は続けるの?」
「そのつもりです」
「それなら当分は忙しいだろうね」
「たぶん、そうなると思います」
「まあ、そのへんはうまくやっていけばいいよ。仕事の方も今まで通り頼むよ」
「はい」
安東の席を離れて自分の机へ戻ると、ようやく言うべき相手には言えたという気がした。
*
水曜の夜はサークルの練習日だった。仕事のあとの息抜きにはちょうどいい。ただ、この日は練習そのものより、終わったあとの方が厄介だった。片づけが済み、ひと息ついたところで、京子が近くへ来た。
「聞いたわよ」
「何を?」
「何をって、いろいろ」
「良子から」
「そう。式のことも、だいたい聞いたよ」
「どこまで聞いたの?」
「教会のあるホテルでやるんだって。身内中心で、あまり大きくしないんでしょ?」
「まあ、そんなところだよ」
「山本さんはそれでいいの?」
「いいも何も、俺もそのつもりだったからね」
「そうなの」
「うん。呼ぶ人を増やして賑やかにするより、ほかのことにお金を使った方がいいと思うからね」
「たとえば旅行とか?」
「そう。良子には行ってみたいところがあるみたいだし」
「本のある町?」
「そこまで聞いたのか」
「少しね」
「前から行ってみたかった町があるらしいよ」
「やっぱり姉さんだ」
「そんなにわかりやすい?」
「わかりやすいわよ。小さいころから、出かける先でも読むもののある場所ばかり気にしてたもの」
「そうなんだ」
「派手な式とか、南の島とか、そういうのに憧れる人じゃないの」
「そのへんは、だいたいわかってきたよ」
「ならよかった」
「心配してた?」
「少しはね。姉さん、嫌なことがあっても、わりとそのままにするから」
「そこは気をつけるよ」
「うん。山本さんなら大丈夫だと思うけど」
「買いかぶりすぎじゃないかな」
「そうでもないわよ」
京子と別れて帰るころには、夜気はもうだいぶ冷えていた。週の半ばを過ぎても仕事はまだ残っている。それでも、この数日で片づいたことは思ったより多かった。
*
木曜の夜、帰宅した政雄は良子に電話をかけた。
呼び出し音は二度、受話器の向こうから、聞き慣れた声がした。
「職場の人には話せたの?」
「うん。安東さんと田口さんに話したよ」
「そう。どうだった?」
「二人とも、出てくれるそうだよ」
「それならよかった」
「旅行の方は、もう決まってるんだよね」
「ええ。ハイデルベルクに行きたいの」
「ドイツの?」
「そう。高校のとき、世界中の図書館を調べる課題が有って、そのときに知ったの。そんなふうに本に囲まれた町があるなら、いつか行ってみたいと思っていたのよ」
「高校のときから?」
「大学の図書館もあるし、古い町並みも残っているでしょう。変かしら?」
「いや、俺も行ってみたくなったよ」
受話器の向こうで、良子が少し笑った気配がした。
電話を切ったあとも、政雄の中にはハイデルベルクという町の名がしばらく残っていた。




