第84話 変わりゆく環境
1989年12月、双葉銀行本店の10階は、暮れらしいせわしなさに包まれていた。
年内に片づけておきたい案件が続き、事務企画課でも電話が鳴りやまず、会議の予定は何度も書き替えられた。
NOOPでも、現金自動預け払い機の設置や運用に関する打ち合わせが増え、政雄の机の上にも、確認すべき資料が次々に届いた。
景気の勢いはまだ衰えを見せず、店頭でも本店でも、先へ進める話ばかりが目についたが、金利の上がり方にはもう気楽ではいられなかった。
日本銀行は1989年12月25日に公定歩合を4.25パーセントから4.50パーセントへ引き上げており、同年だけでも5月31日、10月11日、12月25日と3度の引き上げが行われていた。
「山本君、この資料、午後の会議までに見ておいてくれるか」
安東はそう言って、薄いファイルを政雄の机に置いた。
「はい」
「BANCSの件もあるが、今日はまずこちらを優先してくれ。接続先ごとの運用条件に違いがある。その確認を急ぎたい」
「わかりました」
政雄は受け取った資料を開き、午前中に見ていた一覧と照らし合わせた。条件そのものは似ていても、細部に入ると食い違いがある。便利になるなら、そのぶん問題も増える。
その感覚は、昨年よりも今年の方が強くなっていた。
昼前、田口が席を立つついでに声をかけた。
「山本、昼どうする」
「今日は食堂でいいですか?」
「かまわないよ。安東さんも食堂らしい」
三人で20階の社員食堂へ上がると、周囲では年末らしい話題があちこちで聞こえた。
忘年会の予定、帰省の切符、年明けの出勤日、そうした話に交じって、株や土地の話も珍しくなかった。誰かが少し儲けたという話は、いまや自慢というより、季節の挨拶のように聞こえた。
1989年には消費税が導入され、物品税や入場税などの個別間接税が廃止されたが、年の暮れの消費には大きな変化はなかった。
「世間は景気のいい話ばかりですね」
田口が定食の盆を置きながら言った。
「まあな。だが、この好景気は異常だと資金運用部では慎重論も出てるらしい」
安東はそれだけ言って、焼き魚に箸をつけた。
午後の会議では、端末設置後の利用見込みと、運用上の懸念が話題になった。
便利さを前に出したい部署と、事故や問い合わせを気にする部署とで、見るところが少し違う。
政雄は求められた箇所だけ補足し、あとは黙って議論を聞いていた。
こういう席では、まだ自分は前へ出る立場ではない。
それでも、本店に来たばかりのころより、話の流れは追いやすくなっていた。
会議が終わると、窓の外はもう暗かった。
皇居の方角に広がる冬の空は早く暮れ、通りへ出れば、歳末商戦の灯りが明るく見えた。
店先には贈答品が並び、喫茶店も百貨店も人が多い。
高い物が売れること自体が珍しくない年の暮れだった。
政雄は駅へ向かう人波を見ながら、去年の今ごろより街が派手に見えると思った。
新しく移った家では、年末の支度がいつもどおりに進んでいた。
前の借家の居間より狭くはなったが、暮らしの調子はもう落ち着いている。
母は台所で夕食の準備をしており、父は風呂上がりでテレビのニュースを見ていた。
「ただいま」
と声を掛けると、
「遅かったわね」
母が振り向いて言った。
「会議が長かった」
「年末だものね」
父もテレビから目を離して。
「銀行は忙しいのか?」
「忙しいよ。年が明けても、たぶんしばらくはこの調子だと思う」
「そうか」
母は鍋の火加減を見ながら、
「でも、お正月くらいは少しゆっくりできるでしょ」
「三が日くらいはね」
家では、暮れだからといって急に何かが変わるわけではない。
今年は引っ越しがあっただけに、こうして例年通りに年末を迎えられることはありがたかった。
大みそかは、母が朝から正月の支度を進め、政雄は頼まれた買い物に出た。
夜になると、年越しそばの用意は政雄の役目だ。大鍋に湯を沸かし、麺をゆで、ざるへ上げて器に移す。
母がつゆを用意し、父が食卓を整え、三人で年越しそばを食べた。
1989年は、街へ出れば好景気の話があふれていた。
4月には消費税が導入されても、年末のにぎわいは衰えていなかった。
元日の朝は、いつも通りに雑煮を食べ、三人でいつもの神社へ初もうでに行った。
家へ戻って昼を済ませると、母が政雄に声をかけた。
「政雄は今年は三十になるんだから、結婚のことちゃんと考えてるの」
「うん、まあ考えてはいるよ」
「いい加減ね。早くお母さんを安心させてちょうだい」
「善処します」
母は呆れたように息をつき、父は何も言わなかった。
午後になると、家の中はひと息ついた調子になった。
母は台所で片づけの続きをしており、父は買っておいた菓子の箱を開けていた。
政雄は頃合いを見て自室に戻った。
*
引っ越しのときに学習机は処分し、代わりにこたつを置いていた。部屋の隅には石油ストーブが置かれ、その上にはやかんが載っている。
前世の記憶どおり、バブルの崩壊は少しづつ、だが確実に始まっていた。
周囲がまだそれに気づいていないだけだった。
こたつに入ると、最初に口を開いたのは生活担当だった。
「昨年は引っ越しという予期せぬ出来事がありましたが、皆さんの協力のおかげで何とかなりました。ありがとうございます」
そう言って一同に頭を下げる。
「とはいえ、今年も新しい生活には気をつけることが多いです。両親も年を取っていますし、姉さんのところもあります。和子ももうかなり動き回って目が離せません」
仕事担当がすぐに言った。
「今年は仕事です。景気が崩れるとわかっている以上、のんびりしている余裕はありません」
そこへ恋愛担当が割って入った。
「仕事ばかりでも困ります。政雄は今年三十ですよ。良子さんのことを後回しにするんですか」
さらに横から、今年生活担当から独立した趣味担当が口を出した。
「音楽サークルは残してくださいよ。あれは唯一の息抜きなんですから」
四方から勝手なことを言われ、政雄はこたつ板に指を軽く打った。
それぞれの主張が出そろったところで議長の政雄が言った。
「では、まとめるよ」
格担当がだまって政雄を見た。
「仕事では、次世代ネットワークについて今のうちにできるだけ身につける。
結婚は一人では決められない。だから、まずは良子さんにきちんと話をする。
家のことでは、家族が景気に振り回されないよう気をつけておく。
今年は、この三つは必ずやる、サークルは時間が有ればになるかな」
各担当は多少の不満はありそうだったが、そこで会議はいったん終わりとなった。
*
四月、政雄は主任になった。
肩書きが一つ付いた、仕事自体は大した違いはないが、給料は前よりはっきり上がった。
去年ではまだ踏み切れなかったことが、今年は現実の話として手の届くところまで来ていた。
その春、政雄は良子を食事に誘った。店を出たあと、駅までの道を並んで歩きながら言った。
「今日は、ちゃんと話しておこうと思ってたんだ」
良子が足をゆるめて政雄を見た。
「なにを?」
「結婚のこと」
良子は少し黙って、それから小さく笑った。
「やっと言ってくれたのね」
政雄は耳のあたりが熱くなるのを感じた。
「遅くなってごめん。でも、俺は良子さんと結婚したいと思ってる」
良子はうつむきかけ、それから顔を上げた。
「私も、そのつもりです」
それを聞いた瞬間、胸の奥で張っていたものが少しだけゆるんだ。
プロポーズをするなんて前世を含めても初めてのことで、緊張してしまった。
良子と別れての帰り道、足が地についていないような、変な感覚が家まで続いた。




