第83話 多忙な日々
四月になり、政雄は二十九歳になった。
銀行では、試験運用の段階にあった現金自動預け払い機が本格運用へ移りはじめた。
設置場所の選定や先方との調整は田口が中心になって進め、政雄はBANCSや他業種との連携について資料を集め、先行例を調べる仕事を任されていた。
「田口さんの方はどうです」
昼休みの終わりに政雄が聞くと、田口は机の上の書類を整えながら答えた。
「置き場所の候補はいくつかに絞れてきたよ。駅の近くは使い勝手はいいが、先方の都合もあるからな」
「そっちは現場仕事ですね」
「山本の方はどうなんだ?」
「まだ資料を追ってるところです。オンラインの接続をどこまで広げるかで、話が全然違ってきますから」
田口は笑った。
「考えることが増えたな」
「便利になるなら、そのぶん問題も増えますからね」
街では相変わらずバブル景気が続いているが、銀行の内側では金利の動きを気にする者も出はじめていた。
忙しい毎日だったが、政雄は水曜日のサークルだけはなるべく休まずに出た。
仕事を離れて楽器を持つ時間は、息抜きになっていた。
*
その日も定時を少し過ぎたころ、政雄は十階の事務企画課を出た。廊下の先では、まだ電話のベルが鳴っていた。安東に頼まれていた資料は昼のうちにそろえてあり、田口にも一声かけてある。
エレベーターで地下二階まで下りると、講堂の前の廊下にもう楽器のケースがいくつか並んでいた。
「お、間に合ったな」
先に来ていた田口が、クラリネットのケースを開けながら顔を上げた。
「今日は少し早いですね」
「安東さんが珍しく早く切り上げてくれたからな。山本君の方はどうだった」
「資料をまとめて出したら、今日はもういいって言われました」
「それは運がよかったな」
講堂の中では、譜面台が半分ほど並べられていた。奥のキーボードの前には京子が座っていて、電源を入れたばかりらしく、短く音を確かめていた。
「田口さん、早かったんですね」
「今日は二人とも早いよ」
京子は政雄にも軽く会釈した。
「山本さんもお疲れさまです」
「お疲れさま。京子ちゃんも今来たところ?」
「ええ。今日は仕事もそこまで立て込まなかったので」
政雄はケースを開けながら講堂を見回した。地下の広い部屋は、昼の職場とは空気が違う。
十階では机と書類ばかり見ていたのに、ここへ来ると最初に目に入るのは譜面台と椅子で、その次に誰がもう来ているかだった。
「来月の行内の集まり、曲目は今日で決めちゃうんでしたっけ」
京子が田口に聞いた。
「たぶんそうなるな。あんまり先延ばしにしてもしょうがないし」
「去年の秋みたいに、直前で変わるのは勘弁してほしいです」
政雄がそう言うと、田口が笑った。
「あれは君が一番困ってたな」
「サックスの入りが変わると、覚え直しですから」
「でも、ちゃんと合わせてましたよね」
京子がそう言った。
「大学でもやってたんですよね」
「まあ、一応」
「セミプロのバンドで、演奏したこともあるって聞きましたよ」
「そんな大した話じゃないよ。人数が足りない時に呼ばれただけだから」
そう言いながらネックをつなぐと、指先がようやく仕事の時間から離れていく気がした。昼間は数字や書類を見ていた頭が、リードの具合や息の入り方を気にし始める。政雄はそれが嫌いではなかった。
やがて何人かがそろい、譜面が配られた。田口がひと通り見てから言った。
「じゃあ、最初はこれからいこうか。テンポはあまり急がないで」
「イントロ、京子ちゃんからですよね」
「ええ。たぶん大丈夫です」
「たぶんって言うなよ」
田口がそう言うと、京子は少し笑った。
「大丈夫です」
軽く合わせてみると、最初は細かいところでずれた。トランペットが少し走り、トロンボーンの入りが半拍遅れ、政雄も一か所だけ息を入れ損ねた。
「今の、もう一回ですね」
京子が譜面を見ながら言った。
「二段目の頭、私も少し早かったです」
「山本のところも、もう少し後でいいな」
「はい」
田口の言い方は職場より少しやわらかいが、言うこと自体ははっきりしていた。そのあたりはNOOPで資料を見ている時とあまり変わらない。政雄は少し可笑しくなった。
二度目はさっきよりまとまり、三度目でようやく形になった。講堂の端の方で聞いていたベースが、
「今のでいけるんじゃないですか」
と言うと、田口も頷いた。
「そうだな。じゃあ次」
休憩になると、政雄は講堂の外に出て缶コーヒーを買った。
田口もついてきて、壁にもたれて缶を開けた。
「安東さん、今日は機嫌よかったですね」
「午後の会議が短かったからだろうな」
「昼すぎまで、ずっと電話してましたよ」
「本部はどこもそんなもんだよ。景気がいい時ほど、話が大きくなるだな」
田口はそこで少し笑った。
「便利になるなら、そのぶん問題も増える、って言ってただろ」
「言いましたね」
「まったくその通りだよ」
政雄は缶を持ったまま廊下の先を見た。景気のいい話は支店にいたころより更に増えたように思える。
新しい仕組みを入れる話も、他業種との接続も、うまくいけば何でも先へ進みそうに見える。
その一方で、浮かれた調子のままでは済まないことも、そのうち増えてくるのはずだ。
そんなことを考えるのは職業病だろうかと、自分でも思う。
「山本さん」
講堂の入口から京子が顔を出した。
「次、始まりますよ」
「今行きます」
「缶、置きっぱなしにしないでくださいね」
「そこまで子どもじゃないよ」
そう言うと、京子は笑った。
「わかってます」
講堂へ戻ると、さっきより人がそろっていた。
譜面台の列の中に自分の場所があり、田口がいて、京子が鍵盤の前に座っている。
それだけのことなのに、政雄は少し肩の力が抜ける。
水曜の夜にここへ来ると、一週間が仕事だけで埋まっていないと思えた。
田口が譜面を上げた。
「じゃあ、次は通してやってみようか」
楽器を構え、軽く息を吸った。音が重なり、その音に政雄は集中する。
*
そのころ、実家では借家の立ち退きの話が持ち上がっていた。
平日の夕方、和子を迎えに来た姉に、母が台所で言った。
「ちょっとね、この家のことで話があるのよ」
姉は和子の靴をそろえながら顔を上げた。
「何、どうしたの」
「大家さんが建て替えるんですって。マンションにするつもりらしくて」
「えっ」
「年内には出てほしいって言われたの」
姉はしばらく黙っていたが、やがて小さく息をついた。
「そう……急ね」
「ねえ。私もびっくりしたのよ」
「でも、そういうことなら早めに考えた方がよさそうね」
母は頷いた。
「ええ。今と同じような場所が見つかるとも限らないし」
姉は和子を抱き上げながら言った。
「母さんたちが無理しないですむところがいいわね。少しくらい今より不便でも」
「そうねえ」
「私も、来られないほど遠くなるのは困るけど」
そう言ってから、姉はすぐに言い直した。
「でも、まずは父さんと母さんが暮らしやすいことよね」
その晩、政雄が帰ると、夕飯の席では普段どおりの話しか出なかった。父があらためて口を開いたのは、食後に茶の間で一息ついたあとだった。
「政雄、この家の事なんだけど」
「ん?」
「大家さんから、年内には明け渡してほしいと言われただ」
政雄はすぐには返事をしなかった。
「え、どうして?」
「マンションにするつもりだとか」
母が続けた。
「立ち退き料は出すって言うのよ。敷金と礼金の分くらいは」
「そうか……」
前世ではこんな話はなかったのに。
「どうするつもり」
父は少し考えてから言った。
「借家を探すしかないだろうな」
政雄も同じことを考えていた。家を買うことが頭をよぎらないではなかったが、金利は上がりはじめていたし、自分も銀行勤めでいつ転勤になるか分からない。今この時期に大きな買い物を決める気にはなれなかった。
「それがいいと思う」
「政雄もそう思うか」
「今は金利が上がってるからね。借金はしないほうがいいよ」
父は短く頷いた。
数日後の休みの日、姉は和子を連れて昼前に来た。父も家にいて、あらためて家族で話をした。
「母さんから聞いたけど、びっくりしたわ」
姉は和子を膝にのせながら言った。
「でも、年内なら、探す時間は少しあるわね」
「そうだな」
父が答えた。
「便利なところは高いだろうし、そのへんが難しい」
母が言った。
「広すぎるところはいらないけど、あんまり狭いのもいやねえ」
政雄は言った。
「2DKだときついと思う」
「三人だものね」
姉が頷いた。
「政雄の部屋もいるし、居間もないと困るわよ」
「そうなんだよ」
「台所も、あんまり窮屈だと母さんが大変でしょ」
母は少し笑った。
「そこまで立派じゃなくていいのよ。でも、使いにくいのは困るわね」
父は腕を組んだ。
「家賃があまり上がらなければいいんだが」
「少しは仕方ないよ、俺がもう少し家にお金入れればいいだけだ」
そのあと、政雄は父と母を連れて何軒か見て回った。駅に近いアパートは便利だったが、三人で暮らすにはやはり窮屈だった。部屋数はあっても、家族で寛げる場所がない。
ある日、少し離れた場所にある古い平屋の借家を見たとき、父が言った。
「これは悪くないな」
政雄も同じことを思っていた。駅までは遠くなるが、2LDKで、父母の部屋と自分の部屋を分けても、居間にテレビを置いて食卓を囲める。
母は台所を見ていたが、やがて振り返った。
「前より使いやすそうね」
「そうだね」
「少し狭いけど、これなら何とか暮らせるんじゃないかしら」
父も頷いた。
「家賃も、まあこのくらいならな」
後日、姉も和子を連れて見に来た。玄関に入って、部屋をひと通り見てから言った。
「ここならいいんじゃない」
「そう思う?」
「うん。前より少し遠くても、ちゃんと暮らせそうだもの」
母もその言葉に安心したようだった。
夏のうちにその家に決め、引っ越しは十月の終わりに済ませた。前の借家より少し狭く、駅も遠くなり、家賃も上がった。それでも、箪笥や食器棚が収まり、居間にテレビを置いてみると、暮らしは思ったより早く落ち着いた。
引っ越しの日の夕方、和子が新しい家の畳の上を歩き回っているのを見て、母が笑った。
「子どもは慣れるのが早いわねえ」
姉も笑った。
「そのうち私たちも慣れるわよ」
父は新しい居間を見回しながら言った。
「まあ、何とかなったな」
政雄もそう思った。前より少し狭く、少し不便になったが、三人で暮らす場所としては悪くなかった。
仕事の方では、新しい仕組みを広げていこうという勢いがまだ強く、街の景気も衰えを見せてはいなかった。けれど政雄は、何もかもがこのまま同じ調子で続くとは思ってはいなかった。家も変わり、仕事も少しずつ変わっていく。そうして一九八九年の秋も更けてゆく。




