第82話 遊覧船と酢豚
約束の日は、よく晴れていた。風は冷たかったが、空の色は明るく、休みの日に出かけるには悪くなかった。
政雄が待ち合わせの改札へ着くと、良子はまだ来ていなかった。人の流れを見ながら腕時計に目をやる。少し早く着きすぎたかと思ったところで、改札の向こうに良子の姿が見えた。濃い色のコートに細い柄の入ったマフラーを巻いている。こちらに気づくと、足を速めて近づいてきた。
「ごめん、待った?」
「いや、今来たところ」
良子はすぐに笑った。
「そう言うと思った」
「そこまで読まれてるのか」
「この前、自分で様式美って言ってたでしょ」
「ああ、言ったね」
良子は肩を揺らした。
休みの日の街は人が多かった。買い物らしい人もいれば、観光らしい人もいる。良子はあたりを見回しながら、少し楽しそうに言った。
「やっぱり東京とは雰囲気が違うのね」
「中華街まで行けば、もっとそれっぽいよ」
「そう言われると、急におなか空いてくる」
「まだ昼前だろ」
「でも中華って聞いたら、そうならない?」
「それもそうか」
駅から少し歩くと、通りの雰囲気が変わってきた。店先の色づかいも看板の字も、普段見慣れている街とは違う。良子はきょろきょろしすぎない程度にあたりを見ていたが、目に入るものが珍しいらしく、時々足がゆるむ。
「ほんとに初めてなの」
「うん。名前は知ってたけど、来る機会がなかったの」
「京子ちゃんも?」
「京子は友達と来たことあるみたい。でも私はない」
そう話しているうちに、政雄が目当てにしていた店が見えてきた。表に派手な飾りはあるが、入ってしまえば気取るような店ではない。昼どきには少し早く、並ばずに入れた。
席について湯気の立つ茶を出されると、良子はほっとしたような顔になった。
「何だか、これだけでも異国に来た感じするわね」
「店の色使いとかね」
「山本さん、こういうところ慣れてるの?」
「慣れてるってほどじゃないよ。学生のころに何回か来たくらい」
「へえ」
良子は卓上の品書きを開きながら、ちらりと政雄を見た。
「じゃあ、今日は少し案内してもらえるんだ」
「大げさなものじゃないけどね」
「それで十分」
昼は軽めにしようと言っていたので、二人は点心と中華かゆ、それにいくつか小皿を頼んだ。料理が来るまでの間、良子は品書きの字を追いながら言った。
「中華かゆって、家で食べるおかゆとちょっと違うのよね?」
「違うね。味がついてるし」
「たまに食べるといいね」
「うん」
運ばれてきた湯気の上がる器を前にすると、良子は少しうれしそうだった。最初のひと口を食べてから、目を上げる。
「おいしい」
「それならよかった」
「うん。来れてよかった」
政雄も箸をつけながら、ようやく肩の力が抜けた気がした。喫茶店で向かい合うのとは違って、今日はこのあともまだ時間がある。急いで話をつなぐ必要がないと思うと、それだけで落ち着いた。
「お昼、軽めにして正解だったかも」
良子がかゆをすくいながら言った。
「まだこのあと歩くしね」
「どのへんまで行くの」
「港の方かな。天気もいいし」
「いいわね」
良子はすぐにうなずいた。
「船って見える?」
「見えるよ。時間が合えば乗ってもいいし」
「ほんと?」
「そんなに驚くことか」
「だって、そういうの乗る機会ないもの」
良子はそう言って笑った。政雄はその顔を見ながら、今日ここに誘ってよかったと思った。
昼の店内はまだ混みすぎるほどではなく、話しながら食べるにはちょうどよかった。良子は目の前の料理を楽しみつつ、たまに通りを歩く人たちを見ていた。外へ出れば、港までの道も、その先の時間もまだ残っている。
*
「船、あれかしら」
良子が目を向けた先を、政雄も見た。
「たぶんそうだね」
「乗れるなら、乗ってみたい」
「時間を見てみようか」
乗り場の方へ行くと、次の便までそれほど待たずに済みそうだった。政雄が時刻を確かめて戻ると、良子は案内板を読んでいた。
「どうだった?」
「そんなに待たないで乗れそう」
「よかった」
良子は案内板から目を上げた。
「遊覧船って、乗る前から少し気分が変わるね」
「普段は乗らないからかね」
「そうね。港へ来たんだって、急に実感が出るもの」
二人は切符を買って、乗り場の方へ進んだ。海に突き出した通路は風がまともに当たり、さっきまでよりも冷たく感じられた。良子がマフラーを少し押さえるのを見て、政雄は言った。
「中に入れば少しは違うと思うよ」
「ええ」
船が着くと、乗客が入れ替わり、二人も続いて乗り込んだ。窓際の席が空いていたので、並んで座る。ほどなくして船が岸を離れると、水の上を進む感覚が足元から伝わってきた。
「思っていたより揺れるのね」
「大丈夫?」
「大丈夫。少し意外だっただけ」
良子はそう言って、窓の外に目を向けた。岸に並ぶ建物が少しずつ遠ざかっていく。
「港から見るのと、海側から見るのとではずいぶん景色が違うのね」
「違って見えるね」
「陸にいると建物ばかり目に入るけれど、海側から見ると、この街が海と一緒にあるんだってよく分かる」
政雄はその言葉を聞いて、窓の外を見た。さっき歩いてきた道も、船の上から見ると別の場所のようだった。
「たしかに、そうかもしれないね」
良子はしばらく景色を見ていたが、やがて言った。
「こういうところは、一人で来るより誰かと来た方がいいのね」
「どうして?」
「見たものをすぐ言葉にできるでしょう。そうすると、景色も少し違って見える気がするの」
政雄は少し黙ってから答えた。
「それはあるかもしれない」
「今日は来てよかった」
「俺もそう思う」
良子は政雄の方を見て、やわらかく笑った。
*
海沿いの道へ出ると、冬の日差しはまだ高かった。二人はしばらく並んで歩いたが、政雄はふと思い出したように言った。
「こういうところ、学生のころはほとんど来なかったな」
「そうなの?」
「そんな余裕がなかったからね。高校も大学も、わりと最初からバイトする前提だったし」
良子は少し驚いたように政雄を見た。
「そうだったの」
「うち、あんまり余裕ある方じゃなかったから。公立に行って、大学もなるべく金のかからないところを選んで、あとは奨学金とバイトで」
「でも、それを苦労話みたいには言わないのね」
「苦労ってほどでもないよ。今思えば案外楽しかったし」
政雄は少し笑った。
「高校のとき、そば屋でバイトしてたんだけど、二年生の年末にそのバイト代で家族に年越しそばを振る舞ったんだよ」
「いい話ね」
「いや、一度やったら次からも俺の役目になっただけ」
良子は声を立てて笑った。
「それは恒例になるでしょう」
「そうだね。年末だけは家で期待されてる」
少し笑ってから、政雄は良子を見た。
「良子さんは、ちょっとお嬢様っぽいけど」
「え?」
良子は目を丸くした。
「何それ」
「いや、何となく。言葉の選び方とか、育ちがよさそうだなって」
良子は少し考えるような顔をした。
「うちは普通の会社員の家よ」
「そうなの?」
「そう。父はずっと会社勤めだし、母も特別どうということはないの。でも、父方の実家は終戦のころまで呉服屋だったの」
「へえ」
「東京大空襲で家も焼けて、親戚もほとんど亡くなったみたい。父はその時はまだ子供だったから、昔の話を全て覚えているわけではないけれど」
良子の言い方は落ち着いていて、必要以上に湿っていなかった。
「それで、お父さんは会社勤めに?」
「ええ。会社に勤めて、今もそのまま。出世に熱心な人ではなかったみたいだけれど、ここ数年で小さな部署の部長になったの」
「なるほどね」
「だから、お嬢様ではないのよ。ただ、家の中が少し古風なのかもしれない」
「それでか」
「それでか、って何」
「何となく分かった気がした」
良子は少し笑った。
「でも、お嬢様ではないわよ」
「そう言うところが、それっぽいんだけどね」
「山本さん」
たしなめるように名前を呼ばれて、政雄は笑った。
*
港から戻るころには、日が少し傾きはじめていた。まだ夕飯には少し早かったが、中華街のあたりは昼とは違う賑わいになっていた。店先の灯りが目立ちはじめ、人の流れもいっそう多い。
二人は通りを歩きながら、店先の品書きや立て看板を見ていった。いかにも観光客向けといった大きな店は何となく避けて歩いていたが、ある広東料理店の前で良子が足を止めた。
「これじゃない?」
立て看板には、艶のある酢豚の写真が出ていた。説明書きには広東家庭料理とある。
「たしかにおいしそうだな」
「昼に話していたの、こういうのだったのかもしれない」
「入ってみる?」
「うん」
店内は外から見たより落ち着いていて、席数もそれほど多くなかった。二人は窓際の席に通され、品書きを開いた。
「酢豚は決まりとして、あと何にしようか」
政雄がそう言うと、良子は品書きを見ながら言った。
「魚の蒸し物があるのね」
「ほんとだ」
「せっかくだから、こういうのも食べてみたい」
「いいね。雲呑と蝦餃も頼む?」
「うん。炒飯もあれば十分かな」
「少し多いかもしれないけど」
「歩いたから大丈夫かもしれない」
そうして、咕嚕肉、清蒸鮮魚、雲呑、蝦餃、炒飯を一品ずつ頼み、二人で分けることにした。
最初に蝦餃が運ばれてきた。良子は箸でそっと持ち上げてから言った。
「皮が薄いのね。もっとしっかりしたものかと思っていた」
「食べると違う?」
ひと口食べて、良子はうなずいた。
「ええ。思っていたより軽いのね」
政雄も食べてみて、たしかにそうだと思った。
続いて雲呑、魚の蒸し物、そして酢豚が運ばれてくる。良子は酢豚を見て、少しうれしそうに言った。
「色がきれいね。もっと濃い味かと思っていた」
食べてみると、酸味も甘みも思ったよりやわらかく、肉もくどくなかった。
「これはうまいな」
「ほんとうね。酢が強すぎないのがいい」
「食べやすい」
「広東料理の酢豚って人気があるの、少し分かる気がする」
そのあとも話しながら箸が進んだ。港を歩いていたときの続きで、政雄は大学時代のことをもう少し話した。授業のこと、バイトのこと、友人のこと。良子も短大のころの話や、京子との違いを自然に口にした。
「京子ちゃんは、家でもあんな感じなの?」
「だいたいそう。家の中にいると、私よりずっとよくしゃべるの」
「想像つくな」
「でも、あの子の方が家のことはよく見ているかもしれない。母が忙しいと、先に気づいて動くのは京子の方だから」
「良子さんは?」
「私は本を読んでいて、あとで呼ばれる方ね」
そう言って良子は笑った。
「山本さんは、大学のころもずっとバイトばかりだったの?」
「ほとんどそうだね。授業があって、バイトがあって、たまに息抜きでジャズ研に顔を出すくらいだった」
「そうだったの」
「遊ぶ余裕はあまりなかったけど、二年の夏にジャズバーとかで演奏したことはあったね」
「バイトで?」
「ジャズ研にいた先輩の紹介で、けがをした人の代役で店に出たことがあるんだ」
「演奏したの?」
「うん。セミプロのバンドで、二か月くらいだけ」
良子は箸を置いた。
「それは初めて聞いた」
「言ってなかったからね」
「どんな店だったの?」
「ジャズバーとか、小さい店だよ」
「今もあるのかしら」
「どうだろう」
「もしまだあるなら、行ってみたい」
政雄は少し驚いた。
「そういうところ、平気?」
「平気かどうかは行ってみないと分からないけれど」
良子は少し笑った。
「山本さんがいた場所なら、見てみたいと思う」
政雄は水を飲んでから、時計を見た。まだ時間には余裕があった。
「それじゃ、一杯だけ寄ってみようか」
「うん」
少し多いかもしれないと思った料理は、気がつけばほとんど残っていなかった。どれもちゃんとおいしくて、話も途切れなかったからだろう。二人は満ち足りた気分のまま席を立った。
*
店は思っていたより静かで、まだ早い時間だったこともあって、客もまばらだった。
政雄はカウンターの奥をちらりと見て、昔とは少し内装が変わったことに気づいたが、店の空気そのものはあまり変わっていない気がした。
良子は店の中を見回してから、小さな声で言った。
「こういうところで演奏していたのね」
「ほんの二か月だけだけどね」
二人は軽く一杯だけ飲んだ。
音楽を聞きながら短い時間を過ごし、ほどよいところで席を立った。
外へ出ると、夜の空気は昼よりも冷たかった。
「思っていたより入りやすい店だったわ」
「それならよかった」
「来てみてよかった。山本さんの学生のころが、少しだけ分かった気がする」
政雄は照れくさそうに笑った。
「そんなに分かりやすかったかな」
「少しだけね」
二人は駅まで並んで歩いた。改札の前で立ち止まると、良子が言った。
「今日はありがとう。昼からずいぶん長く一緒にいたのに、あっという間だった」
「こっちこそ。またどこか行こうか」
「うん」
良子はそう言って笑い、改札の中へ入っていった。政雄はその姿が見えなくなるまで立っていて、それから自分の帰る方のホームへ向かった。
政雄は電車に乗り込み、窓の外を眺めていた。
昼前に待ち合わせたときには、ここまで楽しい一日になるとは思っていなかった。
中華街を歩き、港を見て、食事をした。
少し自分のことばかり話しすぎたかと思うほどに浮かれていたかもしれない。
車窓に映る自分の顔を見て、政雄は小さく息をついた。
良い一日だったと思った。




